野球の背番号









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本項では野球の背番号(やきゅうのせばんごう)について解説する。




目次






  • 1 概要


  • 2 メジャーリーグベースボール


    • 2.1 導入までの経緯




  • 3 日本の野球


    • 3.1 少年野球


    • 3.2 高校野球


    • 3.3 大学野球


    • 3.4 日本プロ野球


      • 3.4.1 歴史


      • 3.4.2 主な背番号


        • 3.4.2.1 投手の背番号


        • 3.4.2.2 打者の背番号


        • 3.4.2.3 特定球団における「特別な背番号」




      • 3.4.3 監督の背番号






  • 4 関連項目


  • 5 脚注


  • 6 参考文献





概要


背番号は、選手の識別のためにユニフォームの背中に大きく入れる数字である。チームにより、胸に小さく同じ数字を入れたり、まれに袖にも数字を付ける場合もある。


背番号は1833年にシンシナティのチームが要求したことに起源をもつが、これは文書化されるに至らなかった[1]。その後、1916年にクリーブランド・インディアンズがユニフォームに初めて番号を入れたが、それは袖の位置に番号を入れたものであった[1]。野球で最初に背番号が使われたのは1929年のニューヨーク・ヤンキースである[1][2]



メジャーリーグベースボール




導入までの経緯


今でこそユニフォームに背番号が付いているのは当たり前の風景であるが、初めて背番号を採用したのは1929年のことである。1876年に始まったメジャーリーグベースボールでは選手達は実に50年以上背番号も名前も付いていないユニフォームでプレーしていたが、観客にとってはそれほど不便でもなかった。球場ではスコアカードが販売され、選手ごとに番号が振られておりスコアボードにその番号が掲示されていたため、観客はカードと照会して選手を判別していた。そのためスコアカードは観戦の必須アイテムであり球団の重要な収入源でもあった。


しかしホームチームの番号は固定されているものの、ビジター選手の番号は毎回バラバラの番号でありビジターファンにとっては不親切であった。個別に番号をユニフォームに表示しようという試みもすでに19世紀末に行われてはいたが、スコアカードの収入が失われるなどの経済事情などから定着するに至らず、また選手からも「番号を振られるのは囚人みたいだ」と敬遠された。ちなみにカレッジフットボールでは1910年代に既に番号を導入しており野球界はずっと遅れていた。


初めての大きな試みは1916年、クリーブランド・インディアンスが袖番号を導入したことである。しかし袖では数字が小さすぎるなど不評が多かったためすぐに廃止された。1924年にはセントルイス・カージナルスが年間を通じて袖番号を導入、打順に応じて番号が振り当てられ、1番打者のマックス・フラックが1番、4番打者のロジャース・ホーンスビーが4番、5番打者のジム・ボトムリーが5番と割り振られた。エースのジェシー・ヘインズは31番だった。


初めて正式に背番号を採用したのは、1929年のニューヨーク・ヤンキースである。当時の背番号はカージナルスの袖番号同じく1番打者が1、2番打者が2という風に、8まで打順通りに割りふられていた。そして、その頃は捕手が8番を打つことが多かったので、8が捕手の番号となり、9は控え捕手に与えられた。そして投手は、11 - 21までの番号をつけることになった。ヤンキースはホーム・ロード共に背番号を付け、インディアンスもホームのみで背番号を採用したが3番打者のアール・アベリル(中堅手)の背番号は5であったことから打順もポジションも関係なく付けられたと思われる。


同年4月6日の開幕日はヤンキースの試合は雨で中止、一方インディアンスはホームでデトロイト・タイガースと試合をしたため、史上初めて背番号を付けて試合をしたチームはインディアンスということになる。


早速1930年にワシントン・セネターズが導入、翌1931年にはアメリカンリーグが全球団に背番号を採用するよう通達した。この通達には「13番は避けるように」との一文もあった。同年中にア・リーグ8球団中7球団が背番号を採用した。一方フィラデルフィア・アスレチックスのコニー・マックオーナー兼監督はスコアカード収入が減ることを嫌がりロードのみ背番号を着用していたが、結局1937年に全面採用した。


一方ナショナル・リーグでは1932年にボストン・ブレーブスが採用。同年6月のオーナー会議で全球団採用が決まった。ヤンキースが背番号を採用してわずか4年足らずで全球団のユニフォーム(アスレティックスのホームを除く)に背番号が付けられた。


さらに1952年にはブルックリン・ドジャースが胸番号を採用、1960年にはシカゴ・ホワイトソックスが背番号の上部に選手名を入れ両者ともたちまち広まった。しかしいち早く背番号を導入したヤンキースは現在でも胸番号も名前も一切入れていない。1975年にヒューストン・アストロズはズボンにも番号を付けている。



日本の野球



少年野球


統括団体によっても異なるが、少年野球は、10番が主将、30番が監督、2928がコーチ(場合によっては27がコーチになることも)など、一部選手(および指導者)の役割により規定で背番号が定められている場合が多い。



高校野球


初めて日本の野球で背番号がつけられたのは、1931年(昭和6年)の第8回選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)である。同じ年の第一回日米野球でも背番号がつけられた。


高校野球の場合には、出場枠に応じて1番から始まる背番号(例えば18番まで)を使用する。概ね、正選手には、投手の1番から右翼手の9番まで守備番号に対応した番号が与えられる。




  • 投手(ピッチャー):1


  • 捕手(キャッチャー):2


  • 一塁手(ファースト):3


  • 二塁手(セカンド):4


  • 三塁手(サード):5


  • 遊撃手(ショート):6


  • 左翼手(レフト):7


  • 中堅手(センター):8


  • 右翼手(ライト):9


しかし、必ずしも背番号と守備番号が一致していなくてもよい。



大学野球


監督の背番号は東京六大学野球連盟など14連盟では30が、東都大学野球連盟や関西学生野球連盟など10連盟では50、東京新大学野球連盟では53、関西六大学野球連盟では60と定められている。東都大学野球連盟では、2011年の1年間だけ連盟結成80周年を記念して80を監督の番号としている(翌年からは従来通りの50に戻っている)。


コーチの背番号も連盟によって異なり、4050をつける連盟、5152をつける連盟などがある。


東京六大学野球連盟など19連盟では10が、東都大学野球連盟など7連盟では1が、主将の番号と決められている。


その他の番号の付け方は大学によっても特徴があり、たとえば早稲田大学野球部では「6が正捕手で9は欠番(試合中の事故で亡くなった東門明選手を偲んだ)」「明治大学硬式野球部は高校野球風に番号付与し、シーズン中でも頻繁に背番号が変更される」「法政大学野球部はおおむね1ケタ番号は内野手・10番台は投手・20番台が外野手」など様々である。



日本プロ野球



歴史



  • 1931年 第1回日米野球大会の第6・7戦において、日本チームが初めて背番号つきユニフォームを着用[2]

  • 1935年 アメリカ合衆国に遠征した大日本東京野球倶楽部が、背番号入りユニフォームを着用。当時は漢数字であった。

  • 1936年 日本職業野球連盟設立。日本プロ野球リーグ誕生。メジャーリーグベースボールに倣い、打順がほぼそのまま背番号になっていた。後に誕生した大阪タイガースは名前のいろは順、阪急軍は契約順に背番号を決定した。

  • 1944年 太平洋戦争の激化により、選手の背番号使用が禁じられる。

  • 1947年 読売ジャイアンツが腸チフスで死去した黒沢俊夫の4、1944年に戦死した沢村栄治の背番号14を、日本球界初の永久欠番に制定。

  • 1964年 大洋ホエールズが、背番号の上にローマ字で選手の名前を入れるユニフォームを採用。10数年のうちに全球団へ広まった。

  • 1976年 太平洋クラブライオンズが、ビジター用のみにユニフォームの前にも背中と同じ大きさの番号がついた「胸番号」つきユニフォームを採用。ただし不評であったため同年前期のみで廃止されている。鳥坂九十九が日本プロ野球の現役選手で初めて背番号99を付けた。

  • 1983年 広島東洋カープの長嶋清幸が背番号0を初めて使用。戦後初期に練習生やブルペン捕手などでそれを使用したことがあるが、支配下登録選手としては史上初。

  • 1988年 阪神タイガースのルパート・ジョーンズが背番号00の第1号となる。

  • 1992年 ドミニカアカデミー出身の投手、広島東洋カープのロビンソン・チェコが史上初めて3桁の背番号(106)を使用。その後同じドミニカアカデミー出身の投手カルロス・リベラが1994年に109で2試合登板。

  • 1993年 日本ハムファイターズが、二村忠美の背番号を007にしたいと申請したが、パシフィック・リーグによって却下される。この時よりパ・リーグにおいて「支配下登録選手の背番号は00099番以下の整数」と見解が出された。一方で、セントラル・リーグの阪神タイガースでは、松永浩美がシーズン途中に2番から02番へ変更している。

  • 2005年 東北楽天ゴールデンイーグルスが10を永久欠番に、千葉ロッテマリーンズが26を準永久欠番に指定。いずれも「ファンのための欠番」で、それぞれファンをナインやベンチ入り選手(25人)に続く存在としたもの。また、オリックス・バファローズが、大阪近鉄バファローズでは永久欠番とされていた鈴木啓示の1は「自身の永久欠番は近鉄での記録によるもの」との本人との意向により永久欠番にせず、イチローの51を準永久欠番とする。

  • 2006年 育成選手制度がスタートし、育成選手の背番号は100番以上を用い、支配下選手登録時に99番以下に変更することが決められる。

  • 2010年 育成選手の背番号に関するルールが改正、3桁でさえあれば001のように0から始まる番号でもよいと決められた。

  • 2012年7月1日・4日 「ライオンズ・クラシック2012 稲尾和久生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム 〜背番号「24」の記憶〜」と題して、埼玉西武ライオンズの全選手が稲尾和久の背番号であった24を付けて試合を行った。日本プロ野球では初の試み[3]

  • 2015年8月6日 広島-阪神14回戦で、広島市への原子爆弾投下70年でピースナイターとして開催。その中でセ・リーグの公式戦で初めて、カープの選手全員が86の背番号を付けて試合を行った[4]

  • 2016年9月29日 三浦大輔の引退登板となるDeNA-ヤクルト最終戦において、横浜DeNAベイスターズの全選手が三浦の背番号である18を付けて試合を行った[5]

  • 2017年9月24日 井口資仁の引退登板となるロッテ-日本ハム戦において、千葉ロッテマリーンズの全選手が井口の背番号である6を付けて試合を行った[6]

  • 2018年 中日ドラゴンズの育成選手の福敬登が背番号234を使用、それまで過去最大だった222(エンリケ・ラミレス)を上回る234になった。



主な背番号


(投手の背番号に関しては「エースナンバー」をも併せて参照のこと。また、「野球界の永久欠番」をも併せて参照のこと。)



投手の背番号


















































背番号 主な尊敬対象選手 主な着用選手 選手の特徴
11
村山実など

斎藤雅樹、岸孝之、大谷翔平など
「18」「19」と共に、チームを代表する投手に与えられることが多い。
18
藤田元司、堀内恒夫など

桑田真澄、松坂大輔、田中将大など
多くの球団において「エースナンバー」として意味付けられている[7]
19
石川雅規、菅野智之、藤浪晋太郎など
「11」「18」と共に、チームを代表する投手に与えられることが多い。
22
佐々木主浩、高津臣吾など

藤川球児、高崎健太郎など
元来は捕手の番号として扱われる傾向が強かったが、佐々木(通算381セーブ。日米通算)、高津(通算313セーブ。日米通算)の成功により、球団によってはリリーフ投手(将来の抑え候補)に与えられることがある。
28
江夏豊など

星野伸之、大隣憲司など
「34」「47」と共に、左腕投手に与えられることが多い背番号である[8][9]
34
金田正一など

山本昌、吉川光夫など
「28」「47」と共に、左腕投手に与えられることが多い背番号である[10]
47
工藤公康など

杉内俊哉、山口鉄也など
「28」「34」と共に、左腕投手に与えられることが多い背番号である[11]


打者の背番号
















































































背番号 主な尊敬対象選手 主な着用選手 選手の特徴
1 王貞治
秋山幸二、内川聖一、鳥谷敬など
チームを代表する強打者が着用することが多い[12][13]
2
城島健司、東出輝裕、荒木雅博など
「22」「27」と共に、捕手が着用するケースが少なくないが、近年はむしろ、チームを代表する内野手(東出、荒木など)が着用するケースが多くなっている[14]
3 長嶋茂雄
立浪和義、八木裕、松中信彦など
「1」と同様に、チームを代表する強打者が着用することが多い[15][16]。また球団によっては、例えば阪神のように、いわゆるクラッチヒッターとして期待される打者(八木、関本賢太郎など)が着用するケースも存在する[17]
5
新庄剛志、石井琢朗、松田宣浩など
「1」「3」と同様に、チームを代表する強打者が着用することが多いが、守備面でも高いレベルの貢献を見込めるタイプの打者に与えられる傾向が強い[18]
6 落合博満
田中幸雄、宮本慎也、坂本勇人など
元来、遊撃手の背番号であることから、高い守備力の持ち主である打者(宮本、坂本、井端弘和など)に与えられることが多いが、勝負強さを魅力とする強打者(田中、初芝清など)に与えられるケースも少なくない[19]
7
福本豊など

鈴木尚典、松井稼頭央、西岡剛など
いわゆる快足巧打タイプ(リードオフマン。松井、西岡、片岡易之など)に与えられる場合、アベレージヒッターのタイプ(鈴木、長野久義、中村晃など)、いずれかのタイプに該当する打者が着用することが多い[20]
8 山本浩二
原辰徳、片岡篤史、金子誠など
勝負強さや長打力を魅力とする強打者(原、片岡など)が着用することが多いが、高い守備力の持ち主である打者(金子、久慈照嘉など)が着用するケースも少なくない[21]
9
小久保裕紀、柳田悠岐、高山俊など
勝負強さや長打力を魅力とする強打者、あるいはアベレージヒッターとして期待される打者に与えられる傾向が強い[22]
22
田淵幸一など

里崎智也、伊藤光、小林誠司など
「2」「27」と共に、捕手の背番号として与えられるケースが少なくない。
25
新井貴浩、村田修一、筒香嘉智など
ホームラン王を獲得する打者が着用することが多い。
27
森昌彦、大矢明彦など

伊東勤、古田敦也、谷繁元信など
捕手の背番号として与えられる中でも最も代表的な背番号とされ、この背番号の着用を大きな目標とする捕手が少なくない[23][24][25]

51

イチロー

鈴木誠也、上林誠知、京田陽太など
日本を代表する野手イチローにあやかって強打者もしくはアベレージヒッターとして期待のかかる若手野手に与えられることが多い[26]


特定球団における「特別な背番号」





































背番号 球団 主な尊敬対象選手 主な着用選手 背番号の意味付け
1 東京ヤクルトスワローズ 若松勉
池山隆寛、青木宣親、山田哲人など
1970年代~1980年代に活躍した若松(ヤクルト一筋19年、通算2173安打。生涯打率.319)を称えて、原則として球団生え抜きで、なおかつチームを代表する強打者として認められる選手にのみ与えられる番号と意味付けられており、「ミスタースワローズ」という称号とワンセットになっている[27]
3 埼玉西武ライオンズ 清原和博
中島裕之、浅村栄斗など
1980年代後半~1990年代前半の西武黄金期に4番として活躍した清原を称えて、チームを象徴する強打者に与えられる番号[28]。なお、清原以前は土井正博(通算2452安打)などが着用していた。
8 千葉ロッテマリーンズ 有藤通世
今江敏晃、中村奨吾など
1970年代~1980年代前半に活躍した有藤(ロッテ一筋18年、通算2057安打。「ミスター・ロッテ」と呼ばれる)を称えて、チームを象徴する強打者に与えられる番号[29]
20 中日ドラゴンズ 杉下茂
権藤博、星野仙一、小松辰雄など
1950年代にエースとして活躍した杉下を称えて、中日では「エースナンバー」として意味付けられる番号。宣銅烈、川崎憲次郎など活躍を期待される選手にも与えられた。しかし、落合監督就任以後はエースナンバーは18と言い、エースナンバー扱いされていない。

上述のケースの他にも、球団に大きく貢献した選手を称えて、「ふさわしい選手が現れるまで欠番にする」趣旨の「準永久欠番」とするケースがある。一例として、




  • 広島東洋カープ - 1(前田智徳)、7(野村謙二郎)、9(緒方孝市)、20(北別府学)。


  • 東京ヤクルトスワローズ - 27(古田敦也)。


  • 横浜DeNAベイスターズ - 18(三浦大輔)。球団は「横浜ナンバー」と称して、「プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき存在の選手が付ける番号」と意味付けるとしている[30][31]



監督の背番号


1950年代頃まで、各チームとも選手・スタッフの数は30人以下であり、監督が最大の背番号30を背負うチームが多かった[32]。選手の数が増えるにつれ監督・専任コーチの背番号は大きくなり、支配下選手が最大70人まで保有できる現在では、69番以下が用いられていることは、以下の例外を除けばほとんどない。
長嶋茂雄(3)、山本浩二(8)、村山実(11)など、監督に就任後、自らの永久欠番を復活させたり、王貞治(1)、金本知憲・井口資仁(6)、広瀬叔功(12)、高橋由伸(24)など、監督就任後も現役時代の背番号を引き続き背負った例がある。また、長嶋茂雄の33や原辰徳の88、落合博満の66のように現役時代の背番号を2つ重ねる、与田剛(92)のように現役時代の背番号をひっくり返すケースも見られる。



関連項目



  • エースナンバー

  • 野球界の永久欠番



脚注


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  1. ^ abc平川陽一編『今さら誰にも聞けない500の常識』廣済堂文庫 p.218 2003年

  2. ^ ab背番号伝承力『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/26, 5頁。


  3. ^ ライオンズ・クラシック 稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム ~背番号「24」の記憶~ 埼玉西武ライオンズ、2012年5月1日(2016年5月21日閲覧)。


  4. ^ 8月6日に祈る永遠の平和…ピースナイターで広島全員が背番号「86」(2/3) - サンケイスポーツ 2015年8月7日


  5. ^ 番長三浦「ずっと横浜」自己ワースト10失点も生きざま詰まった119球 - スポーツニッポン 2016年9月30日


  6. ^ 井口引退試合で選手全員が背番号「6」着用 - 日刊スポーツ 2016年9月24日


  7. ^ “プロ野球 当世背番号事情”. 読売新聞. 2016年10月26日閲覧。


  8. ^ “プロ野球 当世背番号事情”. 読売新聞. 2016年10月26日閲覧。


  9. ^ ただし、例えば福原忍(先発もリリーフも高次元でできる投手として、阪神一筋18年にわたり活躍した)のように、右腕投手でも現役生活を通して「28」を着用し続けるケースも存在する。


  10. ^ “プロ野球 当世背番号事情”. 読売新聞. 2016年10月26日閲覧。


  11. ^ “プロ野球 当世背番号事情”. 読売新聞. 2016年10月26日閲覧。


  12. ^ “プロ野球 当世背番号事情”. 読売新聞. 2016年10月26日閲覧。


  13. ^ “野球で背番号1番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  14. ^ “野球で背番号2番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  15. ^ “プロ野球 当世背番号事情”. 読売新聞. 2016年10月26日閲覧。


  16. ^ “野球で背番号3番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  17. ^ “ホークス「3」、広島「1」…“空席”となっている各球団の1桁背番号事情”. full-count. 2016年10月26日閲覧。


  18. ^ “野球で背番号5番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  19. ^ “野球で背番号6番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  20. ^ “野球で背番号7番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  21. ^ “野球で背番号8番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  22. ^ “野球で背番号9番を背負う意味とは?”. SPAIA. 2016年10月26日閲覧。


  23. ^ “プロ野球 当世背番号事情”. 読売新聞. 2016年10月26日閲覧。


  24. ^ “日本ハム大野で12球団中6球団。チームの柱・古田、伊東らがつけた「27」は捕手の名誉な背番号”. ベースボールチャンネル. 2016年10月26日閲覧。


  25. ^ “日本ハム大野FA行使せず残留 来季背番号「27」”. 日刊スポーツ. 2016年10月26日閲覧。


  26. ^ https://full-count.jp/2017/05/29/post70402/


  27. ^ “ヤクルト山田がミスター燕の「1」継承 出世番号「23」はひとまず空き”. ベースボールキング. 2016年10月26日閲覧。


  28. ^ “浅村栄斗は中島以来の背番号「3」、西武の顔に。広島、巨人は永久欠番”. ベースボールチャンネル. 2016年11月26日閲覧。


  29. ^ “ミスターロッテだ中村「偉大な番号」来季背番8継ぐ”. 日刊スポーツ. 2018年4月6日閲覧。


  30. ^ “【DeNA】引退・番長の背番号18は「横浜ナンバー」の準永久欠番に”. スポーツ報知. (2016年9月20日). http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160920-OHT1T50072.html 2016年10月26日閲覧。 


  31. ^ “【DeNA】引退・番長の背番号18は「横浜ナンバー」の準永久欠番に”. スポーツ報知. (2016年9月20日). http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160920-OHT1T50072.html 2016年10月26日閲覧。 


  32. ^ NPBで最後に30番を着用した監督は、阪急ブレーブス - オリックスブレーブスでの上田利治(1974年 - 1990年)である。




参考文献



  • Now Batting, Number...: The Mystique, Superstition, and Lore of Baseball's Uniform Numbers


  • ベースボールマガジン2002年夏号 「日本プロ野球を彩ったユニフォーム&背番号」

  • 同 2006年夏号「背番号の美学 受け継がれる魂」





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