田豫




田 豫(でん よ)は、三国時代の人物。田予とも表記される。




  • 魏の司空掾。并州太原郡出身。楊豊とともに同郷の孫資を誹謗したが、孫資が恨みを見せなかったため、かえって恥じ入って心服した。

  • 魏の衛尉。幽州漁陽郡出身。下記の本項で述べる。































田豫


衛尉・太中大夫・長楽亭侯
出生
建寧4年(171年)?
幽州漁陽郡雍奴県
死去
嘉平4年(252年)?
拼音
Tián Yù

国譲
別名
田予
主君
劉備→公孫瓚→鮮于輔→曹操→曹丕→曹叡→曹芳

田 豫(でん よ、171年? - 252年?)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。字は国譲。幽州漁陽郡雍奴県の人。子は田彭祖。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。



生涯


劉備が公孫瓚の下に逃れた時、少年だった田豫は劉備に身を託し、劉備から非常に高く評価された。劉備が公孫瓚の下から去って陶謙の下で豫州刺史になると、田豫は母の老いを理由に劉備の下から去り帰郷した。この時、劉備は田豫に対し「君と共に大事を成せないのは惜しい」と言い、別れに涙を流した。


その後、公孫瓚の下で東州県令を代行した。公孫瓚軍の王門が袁紹側に寝返り、1万の兵士を率いて来襲してきた時は、城壁の上から王門を弁舌でやり込めた。このため王門は恥じ入って退散した。公孫瓚は田豫が臨機応変の策略に長けていることを知ったが、任用できなかった[1]


袁紹と鮮于輔らに攻められて公孫瓚が敗死し、鮮于輔が漁陽太守を代行すると、旧知の仲であったため彼の元に身を寄せ、長史に採り立てられた。鮮于輔は誰に従属すればよいか分からなかったので、田豫に相談した。このため田豫は曹操に帰服することを勧め、鮮于輔はその進言に従い厚遇された。田豫も曹操からその才能を認められ、丞相軍謀掾に採り立てられ、潁陰・朗陵の県令・弋陽太守に任じられた。田豫はその各地で治績を挙げた。


後に田豫は曹彰の部下として相に任命され、代郡の烏桓討伐に随行したが、易水の北に宿泊していたところで敵騎兵の伏兵に遭遇し、窮地に陥った。曹彰は田豫の策略に従い、車で円陣を作って弓や弩で敵を防ぎ、敵が撤退すると追撃して大勝した。代郡が平定されたのは、田豫の策略によるところが大きかったという。


その後、田豫は南陽太守に任命された。前任太守である東里袞の悪政により侯音が反乱し、数千人が山賊となり、その仲間の囚人500人が収監されたままになっていた。田豫が彼らを説得し釈放すると、その恩寵に感謝した者達が仲間を説得したため、一朝にして盗賊は解散し、郡は平静さを取り戻した。曹操はこれを善しとした。


曹丕(文帝)の時代、北方の蛮族が国境を騒がしたため、田豫は持節・護烏桓校尉となり、牽招・解俊とともに鮮卑を監督するなど、北方の非漢民族である鮮卑族や匈奴族の対応などでも活躍した。田豫のやり方は分割して統治するもので、非漢民族たちが連合することの無いよう、互いに分離し、常に争わせるべく策略をめぐらせていた。魏に友好的な鮮卑の部族が、魏に反抗的な鮮卑の部族に攻められた時は、兵を率いて救援に駆け付け、策略を用いて勝利した。また、烏桓王の骨進が魏に従わなかったため、自ら百騎ばかりの兵を率いて骨進の部落に出向き、出迎えて拝伏した骨進を容赦なく斬り殺した。このことから田豫の威光は砂漠に響き渡ったという。


また、幽州・冀州を荒らし回っていた山賊の高艾を鮮卑の素利の協力を得て斬り、首を都に送った功績で長楽亭侯に採り立てられた。


校尉として9年間務めたが、その間に令狐愚から弾劾を受けたこともあった(「王淩伝」が引く『魏書』)。さらに幽州刺史の王雄(中国語版)一派と対立し讒言を受けたため、ついに汝南太守として転任することになった。殄夷将軍となった。


太和年間、遼東の公孫淵が反乱を起こすと、曹叡(明帝)は追討軍の指揮者の選任に苦労したが、中領軍(中国語版)楊曁(中国語版)が田豫を推薦したため、田豫に太守のまま青州の諸軍を率いさせ、仮節を与え遼東を追討させようとした。しかし呉が公孫淵と同盟したという情報が入ったため、曹叡は田豫に引き揚げの命令を下した。田豫は賊船の航路を予想し、要害を押さえ待ち受けさせた。諸将が田豫の予想を嘲笑したが、田豫の予想通り、賊の船が流れ着いてきたため、田豫は全員を捕虜とした。このため諸将が今度は積極的に賊を追討しようと逸ったが、田豫は敵が必死の抵抗をしてくることを懸念し、これを許さなかった。


青州刺史の程喜は、田豫に軍権を奪われたことからかねてより不満を持っており、意見も何度か対立したことから憎悪の感情を持っていた。程喜は田豫が戦利品を国庫に収めていないと讒言したため、田豫の功績は採り上げられなかった。


孫権が公称10万の軍勢を率いて合肥新城に攻め寄せると、満寵は諸軍を率いて救援しようとした。田豫はまず「城を攻めさせて相手の疲労を待つべき」と述べ、さらに「こちらの思惑に気づけば敵は自ら退却するでしょう」と述べて、曹叡にもこの意見を具申し、これを受け入れてもらった。呉軍が撤退した後、再び侵攻してきたという噂が流れたが、田豫は落ち着いて対応した。


景初年間の末に300戸を加増され、領邑は500戸となった。正始年間に使持節・護匈奴中郎将に昇進し、振威将軍を加官され、并州刺史を兼任した。田豫のおかげで州境は静まり返ったという。異民族に心服され、また民衆にも慕われた。


晩年は中央に召還されて衛尉となったが、何度か辞任を願い出た。司馬懿に文章で思い留まるように説得されたが、田豫は「もう70歳を越えているというのに、未だ官位に就いているなど罪深い」と返書し、重病だと称した。その後、太中大夫に任命され、卿の俸禄で生活した。


官職を退いて、魏郡で質素な生活をしたといい、汝南の吏民からの援助も断っていたという(『魏略』)。生年も没年もはっきりしていないが、82歳の天寿を全うした。


私生活は慎ましく、戦利品は将兵に分配し、個人的な贈り物も全て国庫に寄付していた。そのため家族は常に窮乏していたが、人種を問わず、田豫のこの態度は評価されたという。


254年、功績が評価され、銭と穀物が遺族に下賜された。


小説『三国志演義』では、蜀漢の諸葛亮の最後の北伐時、呉の侵攻に備え曹叡の命を受けて襄陽に向かう、という表現しかない。



脚注





  1. ^ 『英雄記』によれば、公孫瓚は優秀な者を迫害し、凡庸な者を厚遇した









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