痛悔機密
痛悔機密(つうかいきみつ、ギリシア語: Εξομολόγηση[2], ロシア語: Исповедь, 英語: Penance[3])とは、正教会における機密の一つ。痛悔機密は罪によって正教徒が教会生活から離れた時の、教会における神との和解の正式な儀礼として位置づけられ[4]、神と人に対して謝罪し、神との交わりに復帰する意義をもつ[5]。また、信者の生活の主要な活力の源であるともされる[6]。
カトリック教会のゆるしの秘跡、聖公会における個人懺悔に相当する。
「懺悔」の語が日本正教会で用いられる事は無い。礼儀(儀礼)の名称としては告解禮儀(告解礼儀)との名がある[7]が、日常的には殆ど用いられず、専ら「痛悔」「痛悔機密」の語彙が用いられる。
「痛悔」の語は正教会のみならず稀に他教派でも古い文献で用いられたものがあるが[8]、本項では正教会における痛悔と痛悔機密について詳述する。
目次
1 痛悔機密(告解礼儀)
2 カトリック教会との違い
3 聖書
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
痛悔機密(告解礼儀)
痛悔機密(告解礼儀)が始まると、ハリストス(キリスト)の証人の役割を果たす[9]とされる司祭が祈祷文を唱え、痛悔機密において神の恩寵が降るように祈る。そして参加する信徒に対し、告げなければならない罪の概要を例示し、さらに信徒は痛悔する前にまず、他人の罪を赦し、和睦する事が必要であるとの教えを説く。この教えは説教の形式ではなく祈祷文としての定式をとっており、毎回同じ教えが説かれるものである。
信者は司祭と並んで十字架と福音経が置かれたアナロイの前に立つ[1]。一人ひとりが自らの罪を告白し、司祭はそれに対し信徒としての生活の改善の為に精神的助言を与える。最後に司祭は痛悔者の頭にエピタラヒリを載せ、十字を描き、神の赦しと和解としての祝福を行う[5]。
痛悔の内容が他人に聞かれる事がないように、堂内では別の信徒によって聖詠(詩篇)などが大きめの声で誦経される中で行われる事が多い。また、時課などの奉神礼が行われている最中に痛悔機密が並行して行われるケースも多い。
スラヴ系の正教会では、痛悔機密を領聖前に必ず行う習慣がある。一方、ギリシャ系の正教会ではそのような習慣は無い。また、痛悔は個人的に行うものが基本だが、稀に集団痛悔が行われる事がある[10]。
カトリック教会との違い
正教会の痛悔機密にはカトリック教会のような法的な「償い」(つぐない)の意味は無いため、「償い」(つぐない)の指示を伴う助言・指導がなされる事は無い[1]。
また、カトリック教会における告解室のような密室で行われる事は殆ど無く、多くは聖堂で行われる[1]。
聖書
痛悔について基となる聖書の箇所として示されるものには、以下のようなものがある。
サムエル記下12章に記されている、ウリヤの妻バテシバを奪ったダビデ王が、預言者ナタンに罪の赦しを請うた事(この時ダビデによって詠まれたと伝えられるのが第50聖詠であり、痛悔機密の冒頭でこれが詠まれる)
旧約続編に収録されているマナセの祈り
マタイによる福音書18章18節および22節
脚注
- ^ abcdオリヴィエ・クレマン著、冷牟田修二・白石治朗訳、『東方正教会』140頁、(クセジュ文庫)白水社、1977年。ISBN 978-4-560-05607-3
^ Τα ιερά Μυστήρια της Εκκλησίας μας
^ ロシア語・英語語彙の出典:トマス・ホプコ著・イオアン小野貞治訳『正教入門シリーズ2 奉神礼』19頁、西日本主教区(日本正教会)
^ トマス・ホプコ著・イオアン小野貞治訳『正教入門シリーズ2 奉神礼』19頁、西日本主教区(日本正教会)
- ^ ab高橋保行『ギリシャ正教』204頁 - 205頁 講談社学術文庫 1980 ISBN 9784061585003
^ 『諸聖略伝 二月』57頁(シリアの克肖者エフレム伝の頁)、日本ハリストス正教会府主教庁 (平成2年発行)
^ 『聖事経』 大日本正教会、1895年。NDLJP:824745。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824745。
^ 『カトリック大辞典』(359頁左、上智大学編纂、冨山房、昭和42年第七刷)
^ イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』119頁、東京復活大聖堂教会(ニコライ堂) 2004年
^ イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』119頁 - 120頁、東京復活大聖堂教会(ニコライ堂) 2004年
関連項目
アルヴォ・ペルト - 痛悔のカノンの全曲を作曲している(1997年)。- 赦罪の主日
外部リンク
祈り・機密(日本正教会公式サイト)- 『誰でも知っておきたい正教会の諸習慣と常識』痛悔機密
痛悔機密・痛悔-聖書に基づいて - 正教会側の視点による、『正教徒と福音派の対話』の一部。ギリシア語の原本を長司祭長屋房夫が訳したもの。