松蔭寺
松蔭寺 | |
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所在地 | 静岡県沼津市原128番地 |
位置 | 北緯35度7分24.7秒 東経138度48分0.3秒座標: 北緯35度7分24.7秒 東経138度48分0.3秒 |
山号 | 鵠林山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 白隠派 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 弘安2年(1279年) |
開山 | 天祥西堂 |
中興年 | 慶安年間(1648年 - 1651年) |
中興 | 大瑞宗育 |
正式名 | 白隠宗 大本山 鵠林山 松蔭寺 |
文化財 | 科註妙法蓮華経、白隠自画像、白隠禅師墓(県指定) |
地図 | |
法人番号 | 7080105000518 |
松蔭寺(しょういんじ)は、静岡県沼津市原にある臨済宗系の寺院。往時の東海道原宿東町に当たり、白隠慧鶴所縁の寺として知られる。
目次
1 歴史
2 文化財
3 白隠の擂鉢松
4 アクセス
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
歴史
鎌倉時代中期の弘安2年(1279年)、鎌倉円覚寺末寺として無学祖元門弟天祥西堂が創建したとされる。その後廃れたが、江戸時代前期慶安年間に興津宿清見寺大瑞宗育が同寺末寺として中興し、妙心寺派に属した。
松蔭寺が名を広めたのは白隠慧鶴によるところが大きい。原宿長沢家に生まれた岩四郎は、元禄12年(1699年)に松蔭寺単嶺祖伝の下で得度し、慧鶴を名乗った。白隠の父長沢権右衛門は伊豆国江梨村杉山家の出で、中興の祖大瑞宗育はその叔父に当たるという。宝永4年(1707年)富士山宝永大噴火により境内が大破したが、享保2年(1717年)白隠が帰郷して松蔭寺第5代住職に就き、復興が図られた。白隠の名声が高まるにつれ松蔭寺には門弟が集い、数百人に及ぶ大集団を形成した。明和5年(1768年)白隠が当寺で病没すると、門弟の遂翁元盧がこれを継いだ。
大正期には同じく白隠所縁の三島市龍沢寺住職として同寺の再興に努めていた山本玄峰が松蔭寺住職も兼任した。門弟中島玄奘の代に松蔭寺は妙心寺派から独立し、単立として白隠宗と称した。現在の住職は宮本圓明。
文化財
静岡県指定文化財
- 科註妙法蓮華經 元禄三年刊、白隠手沢本 十冊 - 昭和30年(1955年)4月19日指定
- 白隠自画像 1幅 - 昭和47年(1972年)7月2日指定
- 白隠禅師墓 一基 - 昭和29年(1954年)1月30日指定
白隠の擂鉢松
境内には摺鉢を被った黒松があった。岡山藩主池田継政は参勤交代を終えて東海道を下る途中、当寺に白隠を訪問した。白隠に所望の品を問うと、ちょうど小僧が割って欠かしていた摺鉢を求めるのみであった。継政は備前焼の大摺鉢を届け、白隠は境内の台風で折れた松の枝の傷口を覆うように被せたという。摺鉢は松脂に接着され、枝から落ちることなく松の成長とともに高さを増し、名所となったが、昭和60年(1985年)、白隠生誕300年を記念して清水焼のものに取り替えられた。
平成22年(2010年)9月13日、松が枯れ倒壊の恐れが出たことから伐採された[1]。
アクセス
JR東海道本線原駅より東に400m程の所にある。
脚注
^ 毎日新聞静岡版 2010年9月14日
関連項目
- 白隠慧鶴
- 遂翁元盧
- 原宿 (東海道)
外部リンク
- 沼津市仏教会>松蔭寺
- 沼津市>松蔭寺