松平康福
凡例 松平康福 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保4年(1719年)[1] |
死没 | 寛政元年2月8日(1789年3月4日) |
改名 | 団之助(幼名)→康福 |
別名 | 弥三郎(通称) |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 |
官位 | 従五位下、周防守、従四位下、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 石見浜田藩主→下総古河藩主→三河岡崎藩主→石見浜田藩主 |
氏族 | 松井松平家 |
父母 | 父:松平康豊、母:井上氏 |
妻 | 正室:土岐頼稔の娘 |
子 | 娘(松平康定正室)、娘(田沼意知正室)、娘(松平乗保正室) 養子:松平康定 |
松平 康福(まつだいら やすよし)は、江戸時代中期の大名。老中、老中首座。はじめ5万400石だったが加増され6万余石となる。石見浜田藩の第5代藩主、下総古河藩主、三河岡崎藩主を経て再び浜田藩主。松井松平家6代。奏者番、寺社奉行、大坂城代を経て、老中に抜擢された。
目次
1 生涯
2 経歴
3 参考文献
4 脚注
4.1 注釈
4.2 引用元
5 関連項目
生涯
石見浜田藩4代藩主・松平康豊の長男[1]。元文元年(1736年)に家督を相続して浜田藩の第5代藩主となる[1]。寛延2年(1749年)に奏者番に任命されたのを振り出しとして、宝暦9年(1759年)には寺社奉行兼任となり、下総古河に移封された[1]。宝暦10年(1760年)に大坂城代に任命され、宝暦12年(1762年)9月晦日に三河岡崎に移封され、12月には西の丸老中に任命された[1]。
天明元年(1781年)、老中首座松平輝高が在任中に死去し、その後を襲って老中首座となる。これまで勝手掛(財政担当)は老中首座が兼務する不文律があったが、田沼意次の強い意向で勝手掛は同列の水野忠友にまわされた。その埋め合わせとして天明5年(1785年)、1万石加増。封地は、浜田から古河、岡崎、再び浜田と、1代で国替を数度経験する[1]。この間、娘を意次の嫡男意知に姻がせている。
天明6年(1786年)の意次、失脚後も松平定信の老中就任や寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明8年(1788年)4月3日に免職された。
その後、従弟の康定に家督を譲って隠居し、寛政元年(1789年)2月8日に死去した。
経歴
享保4年(1719年):生まれ
元文元年(1736年):藩主相続、周防守
寛延2年(1749年):奏者番
宝暦9年(1759年):寺社奉行兼担。古河に転封- 宝暦10年(1760年):8月15日 大坂城代
- 宝暦12年(1762年):9月晦日、三河岡崎に転封。12月大坂城代免ぜられ(9日)、西の丸老中拝命(11日)
明和元年(1764年):本丸老中に転属- 明和6年(1769年):11月18日、石見浜田に転封
天明元年(1781年):老中首座
天明5年(1785年):1万石加増、都合6万400石。
天明8年(1788年):4月3日、老中を免職、帝鑑間席。
寛政元年(1789年):2月8日に卒(71歳)。
参考文献
根岸鎮衛『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。康福についての逸話を収録。
早川和見『シリーズ藩物語 古河藩』(現代書館、2011年2月)
脚注
注釈
引用元
- ^ abcdef早川『シリーズ藩物語 古河藩』、P109
関連項目
- 田沼時代
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