欠史八代
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欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。
目次
1 概要
2 欠史八代の天皇
3 非実在説
4 実在説
4.1 記紀歴史書説
4.2 葛城王朝説
4.3 プレ大和王権説
4.4 古代天皇の異常な寿命について
4.5 その他の実在説
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 関連項目
概要
これら古代の天皇達の実在を疑問視する説を初めて提唱したのは、歴史学者の津田左右吉(1873年 - 1961年)である。津田の初期の説では欠史八代に加えて、それに次ぐ崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・成務天皇・仲哀天皇及びその后である神功皇后も存在を疑問視して「欠史十三代」を主張していた。津田のこの説は戦前では不敬罪に当たるとして提訴されて1942年に有罪判決を受けたものの、第二次大戦後には古代史学の主流になった。
しかしその後の研究で崇神以降の実在性が強まり、現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が主流となっている。一方で実在説を唱える学者も少なくない[注 1]。
欠史八代の天皇
綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
非実在説
欠史八代の天皇を非実在と考える代表的な根拠は以下の通り。
これらの八代の天皇は古代中国の革命思想である辛酉革命に合わせることで、皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという推測がある。
- 「辛酉」とは干支のひとつで中国では革命の年と考えられ、古来より21回目の辛酉の年には大革命が起きる(讖緯説)とされてきた。那珂通世は、聖徳太子が政治を始めた601年(厳密には6世紀末とされるが、表立った活動の記録はない)が辛酉の大革命の年であるため、『日本書紀』の編者がそれに合わせて神武天皇が即位した神武天皇即位紀元を算出(21×60=1260よりAD601-1260=BC660〈西暦0年は存在しない〉)したと『上世年紀考』(1897年)で提唱した。現在の歴史学界ではこの那珂の説が定説となっている[注 2]。
2~9代に限らず古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、このことは創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。
『日本書紀』における初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことから、本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる[1]。また、神武の称号の「天下」という抽象的な語は、崇神の称号の「国」という具体的な語と違って形而上的な概念であり、やはり後代に創作された疑いが強いといえる。
1978年、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人・大彦命と考えられる。大彦命は8代孝元天皇の第一皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている[2]。
4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り和風諡号の制度は6世紀半ば頃に始まったものである。また、神武・綏靖のように伝えられる名が実名とするとそれに「神」がつくのも考え難く、さらに「ヤマトネコ」(日本根子・倭根子。「ネコ」とは一定の地域を支配する首長・王といった意味[3]。)などという美称は記紀が編纂された7・8世紀の天皇の諡号に多く見られるもので後世的であり、やはりこれらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと考える見方が妥当である[4]。
系譜などの『帝紀』的記述のみで事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても2代綏靖天皇が手研耳命(たぎしみみのみこと)を討ち取ったという綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。これらは伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合に多く見られる例である[5]。
すべて父子相続となっており兄弟相続は否定されている。父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、これでは歴史的に逆行することになる[6]。このことは上述の天皇の異常な長寿と考え合わせて、皇統の歴史を古く見せかけようとしたために兄弟相続など同世代間での相続を否定したと考えるべきである[7]。
陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、当時(古墳時代前~中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない[8]。
実在説
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欠史八代の天皇を実在と考える代表的な根拠は以下の通り。
記紀歴史書説
記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。
葛城王朝説
初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説もある。
プレ大和王権説
古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。
九州王朝説の古田武彦も神武天皇から武烈天皇まで歴代天皇については大和に存在した九州王朝の分王朝である近畿大王家の大王であって、継体天皇の時代まで断絶はなかったとしており、プレ大和王権説に近い立場であるといえる。
古代天皇の異常な寿命について
2~9代に限らず古代天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは実在が有力視される21代雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に則って歴史を遡らせたいならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう[9][10]。古代天皇達の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる[注 3]。また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして原伝承や原資料の段階で既に古代天皇達は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。
- 半年暦説
- 日本の伝統行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)一年に二回ずつ行われるものが多いが、古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦説』(一年二歳暦、春秋暦とも)もある。『魏志倭人伝』の裴松之注には「『魏略』に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。そのことを踏まえれば天皇達の異常な寿命にも不自然さがなくなり、『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書の創世記に出てくるアダムのような飛び抜けた長命(930歳まで生きたとされる)にしてもよいのに二分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。また、17代履中天皇以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる[11]。また、日本書紀の暦は20代安康天皇3年(456年)以降は元嘉暦が使用されているがそれ以前は書記編纂時に使われていた儀鳳暦で記述されており、このことから安康以降は元嘉暦による記録が存在したもののそれ以前は暦法といえるような暦が残っていなかったために便宜的に書記編纂時の儀鳳暦を当てはめたと考えられ、この時期に暦にまつわる大きな変革があったとも推測できる[12][13]。
- 一方、半年暦を採用した例は世界的にほとんど存在せず、また魏志倭人伝の記述においても「倭人は正しい暦を知らず、ただ農耕のリズムをもって1年としている」と解釈するのが妥当であり、半年暦は推測の域を出ていない。創世記の超長命との比較においても、千歳という荒唐無稽な長寿は神のものであり、人間天皇のものとすることは憚られたとも考えられる。
その他の実在説
- 欠史八代を皇室(=ヤマト王権の長)以外の豪族の王とする説。後世の子孫たちが祖王を天皇家の先祖に据え、朝廷の支配を正当化しようとしたとする。モデルとなった人物の実在には諸説ある。上述の葛城王朝説もこれに含まれる。
- 辛酉革命に合わせて神武即位紀元を定めたとする説には疑問がある。日本書紀においてこの年に「大革命」という表現に相応しい出来事は窺えず、逆算の起点となるような特別な取り扱いはなされていない[14]。
- 『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号『御肇國天皇』を「ハツクニシラススメラミコト」と読む訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性がある。どちらも同じ意味であるならば、わざわざ漢字の綴りを変える理由が解らない。「高天原」などの用語と照応するならば、神武の称号の「天下」は後代で使われる形而上的な概念とは意味が違い、「天界の下の地上世界」といったニュアンスであろう。すなわち神武の『始馭天下之天皇』は「ハジメテアマノシタシラススメラミコト」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことをと称讃したものと解釈すれば上手く説明がつく[15]。
- 上述のように、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在したと考える説。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。
- 帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは2~9代の天皇だけではない。 帝紀はもともと系譜的記事だけのものである。旧辞的記事のないことのみで帝紀を疑う理由にはならない。2~9代に相当する旧辞の巻が失われた可能性もある[16]。
- 2代、3代、5代の天皇の名は和風諡号に使われる称号の部分がないため、実名として生前に使われた可能性が高い。7代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号の部分を除けば7代は「ヒコフトニ」(彦太瓊・日子賦斗邇)8代は「ヒコクニクル」(彦国牽・日子国玖琉)9代は「ヒコオオビビ」(彦大日日・日子大毘毘)と実名らしくなり、実名を元に諡号が作られた可能性もある。また、記紀編纂時の天皇の諡号に多く見られる「ヤマトネコ」の美称はより後代の桓武や平城にも見られるものであり、その時代特有のものとは一概にいえない[17]。また、『魏志倭人伝』などの国外の古代史料に見られる倭人の名(あるいは官名)と照応する部分も多く、やはり後世の造作とは言い切れない[18]。
- すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。むしろ後世に伝わった情報が少なかったために、実際は兄弟相続やその他の相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。また、太田亮[19]や白鳥清[注 4]によると、神武天皇から応神天皇までの継承は父子継承だが長子相続でなく末子相続であり、末子相続は兄弟相続よりも古い習俗であるからむしろ実在の根拠になりうる。
- 既述の通り欠史八代の多くは畿内の近隣豪族と婚姻を結んでいるが、もしもその存在が後世の創作であるとすれば後代の天皇達のように「皇族出身の女性を娶った」と記す方が自然である。また、『日本書紀』は欠史八代の皇后の名前について異伝として伝わる別の名前も載せているが、これらの皇后の存在が創作であるのならこのようなことをする理由がない[20]。
脚注
注釈
^ 欠史八代実在説は坂本太郎や田中卓など、在野では安本美典、古田武彦らが主張。葛城王朝説は鳥越憲三郎が主張。
^ ただし、那珂自身は古代の天皇の実在は疑ってはいなかった。
^ 他国の例として、朝鮮半島の三国時代を扱った三国史記では、新羅と百済が共に高句麗よりも建国時期が古くなっている。
中国の史書からも紀元前の建国が確実な高句麗に対して、実質的な建国が4世紀と見られる両国が対抗上から行ったと考えられるが、王の代数を増やすことで建国を400年程度遡らせている。
^ 井上光貞『井上光貞著作集』第一巻、岩波書店、1985年内に引用されている
出典
^ (直木 1990)P20
^ (直木 1990)P226
^ (遠山 2001)P56
^ (井上 1973)P269-270
^ (直木 1990)P20
^ (井上 1973)P270-272
^ (遠山 2001)P62
^ (直木 1990)P32
^ (平泉 1979)P36
^ (西尾 1999)P164
^ (安本 2005)P159-163
^ (安本 2005)P126
^ (牧村 2016)P59-61
^ (安本 2005)P130
^ (安本 2005)P258-259
^ (安本 1988)P140
^ (佐藤 2006)P190
^ (安本 1988)P5-9
^ (太田 1929)
^ (佐藤 2006)P162
参考文献
- 太田亮 『日本上代に於ける社会組織の研究』 磯部甲陽堂、1929年。
- 井上光貞 『日本の歴史1 神話から歴史へ』 中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
- 平泉澄 『物語日本史(上)』 講談社〈講談社学術文庫〉、1979年。
- 安本美典 『神武東遷』 徳間書店〈徳間文庫〉、1988年3月。ISBN 4-19-598484-X。
- 直木孝次郎 『日本神話と古代国家』 講談社〈講談社学術文庫〉、1990年6月。ISBN 4-06-158928-8。
- 西尾幹二 『国民の歴史』 新しい歴史教科書をつくる会 編、産経新聞ニュースサービス(出版) 扶桑社(発売)、1999年10月。ISBN 4-594-02781-4。
- 遠山美都男 『天皇誕生 日本書紀が記した王朝交代』 中央公論社〈中公新書〉、2001年1月。ISBN 978-4-121-01568-6。
- 安本美典 『大和朝廷の起源』 勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。
- 佐藤裕一 『日本古代史入門』 文芸社、2006年10月。ISBN 4-286-01864-4。
- 牧村健志 『よみがえる神武天皇 日本書紀の暗号を読み解く』 PHP研究所、2016年7月。ISBN 978-4-569-83116-9。
関連項目
- 天皇の一覧
- 欠史十代
- 外戚
成務天皇、仲哀天皇:欠史八代の天皇同様、実在に疑いが持たれている。- 九州王朝説#欠史八代
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