神武東征











月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。





























神武東征(じんむとうせい)は、日本神話において、初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話。日向の都を大和に移す意味での「東遷」と呼ばれることも多く、宮崎県の印刷物は「神武東遷」と記述している。




目次






  • 1 あらすじ


    • 1.1 古事記


    • 1.2 日本書紀




  • 2 解説


    • 2.1 否定説


    • 2.2 肯定説


    • 2.3 南九州説


    • 2.4 北部九州説


    • 2.5 水銀確保のための東征説


    • 2.6 呼称も含む異説


    • 2.7 6世紀説




  • 3 脚注


  • 4 関連事項





あらすじ



古事記


『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。


浪速国の白肩津[1]に停泊すると、ナガスネヒコ(ナガスネヒコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。


カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。タカクラジからカムヤマトイワレビコがその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。


カムヤマトイワレビコはタカクラジに大刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢にアマテラスと高木神(タカミムスビ)が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。


また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。


宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、カムヤマトイワレビコに仕えるか尋ねさせたが、兄のエウカシは鳴鏑を射て追い返してしまった。


エウカシはカムヤマトイワレビコを迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、カムヤマトイワレビコに仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟のオトウカシはカムヤマトイワレビコにこのことを報告した。そこでカムヤマトイワレビコは、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)をエウカシに遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」とエウカシに迫り、エウカシは自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。


忍坂の地では、土雲の八十建[2]が待ち構えていた。そこでカムヤマトイワレビコは八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。


その後、目的地である磐余の弟師木(オトシキ)を帰順させて兄師木(エシキ)と戦った。最後に、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。


こうして荒ぶる神たちや多くの土蜘蛛(豪族)を服従させ、カムヤマトイワレビコは畝火の白檮原宮[3]で神武天皇として即位した。


その後、大物主の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。



日本書紀


『日本書紀』では
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。


菟田(うだ)より先は八十梟帥(ヤソタケル)や首領の兄磯城(エシキ)に阻まれた。そこでカムヤマトイワレビコは椎根津彦(シイネツヒコ)と弟猾(オトウカシ)を老父(おきな)と老嫗(おみな)に変装させ天香山(あまのかぐやま)の巓(いただき)の土(はにつち)を取りに行かせた。この土をもって八十平瓮(やそびらか)・天手抉八十枚(あめのたくじりやそち)・厳瓮(いつへ)を造り、丹生(にふ)の川上(かわかみ)にて天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭(いわいまつ)り、カムヤマトイワレビコは神の加護をうけ、八十梟帥(ヤソタケル)を撃ち破り斬ることができた。


ナガスネヒコとの戦いでは、戦いの最中、金色の鵄(とび)がカムヤマトイワレビコの弓の先にとまった。金鵄は光り輝き、ナガスネヒコの軍は眩惑されて戦闘不能になった。


ナガスネヒコはカムヤマトイワレビコの元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は昔天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。カムヤマトイワレビコとナガスネヒコは共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。しかし、ナガスネヒコはそれでも戦いを止めなかったので、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺してカムヤマトイワレビコに帰順した。



解説


東征など神武天皇の事跡については内容が神話的であり、彼の実在も含めて、現在の歴史学・考古学ではそのままの史実であるとは考えられていない。
神話学の立場からは、三品彰英により高句麗の建国神話との類似が指摘されている[要出典]



否定説


神武天皇を非実在とし、その東征を史実と認めない思潮は、津田左右吉以来文献史学の主流を占めている。考古学的研究者からも神武天皇の非実在が定説となっているが、北部九州の勢力の東征の実在については議論が続いている。



  • 西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど[4]。しかし実際には鉄族は魏志倭人伝の邪馬台国に存在したとされるが、畿内では3世紀ごろの鉄族は殆ど出土していないことから、この説は根拠が乏しい。

  • 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は可能性が低い[5]。一方銅鏡に関しては3世紀までは圧倒的に北九州の出土が多く、その後畿内からの出土が増えていることから根拠は乏しい。以前は喧伝された銅鐸文化圏、銅矛文化圏という概念も現在は否定されている。さらに前方後円墳の先駆と見られるホタテ貝型古墳は畿内だけでなく千葉県市原市の神門古墳群中の神門(ごうど)4号墳・5号墳、福岡県小郡市の津古生掛古墳などがあり、前方後円墳が畿内発祥とは断定できない。

  • 4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、少なくとも4世紀末から5世紀初頭の応神期の段階での九州勢力の東征は考えにくい(山中鹿次)。しかし3世紀には畿内でも大規模な古墳は少なく、また弥生後期には吉野ヶ里遺跡のような大規模な集落が筑紫平野に発見されていることからも、この説の根拠も乏しい。

  • 原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の隋の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権をヤマト王権が主張する為に説話が形成されたとする[6]。本来は隼人の説話だったのを天皇家が取り入れたとも。



肯定説


安本美典は、卑弥呼=天照大神として、卑弥呼死後の3世紀後半に神武天皇が邪馬台国の勢力を率いて近畿地方を征服して大和朝廷を開いたと考えている。



古田武彦は邪馬壱国九州説、九州王朝説の立場から九州王朝の王族であった神武が大和に分王朝を打ち立てたとする。その年代は安本の推定する3世紀後半よりも古く、弥生時代中期のことであるとしている。


田中卓は平泉澄以来の神武天皇実在説を積極的に肯定している。


神武東征の出発地については、伝承地である南九州の日向であるというのが通説であるが、戦後に新しく生まれた異説やそれ以外の古事記・日本書紀解釈もいくつか存在する。


日向という地名は単に太陽信仰において太陽に向かう土地という意味であり、日向が宮崎を必ずしも意味しないとする説がある。ヤマト王権が南九州から畿内までの広い範囲を支配したとするために、東遷の出発点を隼人や熊襲が支配する宮崎の日向としたという説がある。すなわち、隼人や熊襲が住むとされる南九州は、邪馬台国の昔から明治政府にいたるまでのすべての政権にとって、完全に武力的に討伐したり、あるいは完全に政治的に掌握することが困難な土地と認識されてきた歴史がある。



南九州説


『日本書紀』の神武東征によれば、イワレヒコ(神武天皇)(庚午年1月1日(西暦紀元前711年2月13日)誕生と推定)は、西国の日向から東征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、辛酉年春正月庚辰朔(西暦紀元前660年2月11日と推定)に即位し、初代天皇の神武天皇となったとされる。


日向の高千穂を文字通り日向の国(宮崎県)の高千穂であるとする。根拠は以下の通り。



  • 日向は日向の国である。

  • 日本書紀によれば天孫降臨後、ニニギは移動しているので天孫降臨の地を北九州とすると、神武東征の出発地は別の場所である。


ただし、高千穂を高千穂峰とする説、高千穂峡とする説等に分かれる。



  • 日向は日向の国である。

  • 律令国家形成(成務天皇)以前から既に日向国は宮崎と鹿児島であった。

  • 景行天皇は先祖を供養するために日向に滞在して日向高屋宮やさまざまな施設を建設し、そこに留まること6年であった。

  • 景行天皇の時に建てられたとする神社や遺跡は今も多数存在している。

  • 景行天皇の時の熊襲征伐は熊襲の領土と隣接する宮崎の日向から行われている。情報も日向から入手していた。襲国の場所も特定されていた。

  • 景行天皇の時代からすでに日向の地は宮崎と特定されていた。つまり第一世代第二世代前の紀元前に生まれた人も神武天皇の出生の地と記憶していた人々は数多く、それは九州の人々も大和朝廷の人々も同じであり、神武天皇の出征の地は宮崎であった可能性が高い。

  • 仲哀天皇の時の熊襲のいた地域は筑後の国辺りであり、彼らの地域は変転している。

  • 建日向日豊久士比泥別は九州の中部(熊本+宮崎)と考えられ、その中の日向は宮崎周辺と考えられていた

  • 舟軍で出発したのは現高千穂峰ではなく、美々津という場所であり、風を利用しながら北上している。

  • 日本書紀によると「太歳甲寅(日本書紀#太歳(大歳)記事参照)年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。11月に筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。」とあり、神武天皇が大分県で歓迎を受けて北九州でまた一か月ほど滞在して、それから広島県に移動したことが書かれている。


戦前はこれで間違いないとされていた。


  • 日本書紀によれば天孫降臨後、ニニギ降臨の場所は高千穂の峰であり、それは宮崎か鹿児島に属しており、その遺跡や関連の足跡も南九州にしかない。

戦後混乱期にそれ以外の説を唱えるものが出てきた。
高千穂を高千穂峰とする説、高千穂峡とする説等に分かれる。


  • 海幸彦山幸彦を祀る神社も古くから南九州に集中していた。

扶桑社の歴史教科書では旧国定教科書と同様の説を採るが、初版掲載の地図では、高千穂峰を宮崎市近くの海岸に設定し、神武一行は関門海峡手前で引き返し東に向かった形になっている。また、初版からの本文では(瀬戸内海に面していない)宮崎県を出発後瀬戸内海を東に進むと記述される。



北部九州説


本来の伝承を北部九州とする。古田武彦や田中卓が主張している。根拠は以下の通り。



  • 日向国ではなく日向と記載されている。日向国の地名の由来は景行天皇の言葉によるとあるので、その名は神武天皇即位の時期には存在しなかった。

  • 日向はヒュウガではなくヒムカ、もしくはヒナタと読み、太陽に向かう東向き、南向きの意か美称である。

  • 邪馬台国の卑弥呼は日向(ひむか)の音を当てたものとする説がある。

  • 「筑紫の日向」は「九州の日向國」ではなく「筑紫國の日向」(福岡県に「日向」の地名がある)と解釈すべきである。たとえば邪馬台国九州説の舞台の範囲でも、伊都国があった福岡県糸島市と奴の国があった福岡市の間には日向峠(ひなたとうげ)があり、そこには二級河川の日向川(ひなたがわ)が流れている。また福岡県朝倉市には日向石という地名があり、福岡県八女市の矢部川流域には日向神という地名がある。

  • 『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を、「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。

  • 南九州を出発すると豊後海峡より流れの速い関門海峡を二度通ることになり、不自然である。

  • 寄港地の岡の水門(港)は北部九州の遠賀とされる。



水銀確保のための東征説


上垣外憲一は、近畿から四国にかけての水銀鉱脈を調べた松田壽男の『丹生の研究 歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)を参考に、神武東征が、水銀朱といった資源が枯渇した一族が経済基盤を求めて、紀ノ川筋の水銀鉱山を押さえ、宇陀の大和鉱山(現在操業停止)に侵入し、大和王権を3世紀後半に確立したものとする[7]。また、崇神天皇の時期に伊勢が大和王権にとって重要になるのも伊勢水銀鉱山(丹生鉱山)ゆえとし[8]、古墳初期において王とは水銀資源を掌握した存在と定義している。



呼称も含む異説


神武一行は軍隊ではなく神武が大和へ婿入りした、として「神武婿入り」と呼ぶ説



6世紀説


神武が東征し畿内に侵入したのは6世紀で、倭の五王までは北九州に有力な倭国(九州王朝)があり、その勢力が神武より先に九州から畿内に植民していた長髄彦(ながすねひこ)等の国である日下(日本)を征服したという説。ただし九州王朝説の提唱者である古田武彦は神武東征1世紀説であり、6世紀説を学説の形で発表した論者は存在しない。



脚注





  1. ^ 現 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった。


  2. ^ 数多くの勇者の意。


  3. ^ 畝傍山の東南の橿原の宮。


  4. ^ 山中鹿次 『神武東征伝承の成立過程に関して』


  5. ^ 『倭国誕生』白石太一郎編 2002年


  6. ^ 原島礼二 『神武天皇の誕生』 新人物往来社 1975年


  7. ^ 歴史読本編集部編 『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600400-0 pp.14 - 17.


  8. ^ 同『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 p.21.




関連事項



  • 起きよ祭り

  • 橿原神宮









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