天孫降臨
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天孫降臨(てんそんこうりん)とは、日本神話において、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をし、邇邇藝命は筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降り立ったという、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
目次
1 古事記
1.1 天孫邇邇藝命の誕生
1.2 猿田毘古
1.3 天孫降臨
1.4 猿田毘古と天宇受売
1.5 木花之佐久夜毘売と石長比売
2 日本書紀
3 火中出産
3.1 古事記
3.2 日本書紀
4 考察
5 注
6 関連項目
7 外部リンク
古事記
天孫邇邇藝命の誕生
天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、天照大御神の子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」(「今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之」『古事記』)と言った。
天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の日子番能邇邇藝命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」(「僕者將降裝束之間 生一子 其名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命 此子應降也」『古事記』)と答えた。邇邇藝命は高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間の子である。
それで二神は、邇邇藝命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。
猿田毘古
邇邇藝命が天降りをしようとすると、天の八衢(やちまた)に、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神の猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。
天孫降臨
邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。
さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。
八咫鏡と思金神は伊勢神宮に祀ってある。登由宇気神は伊勢神宮の外宮に鎮座する。天石門別神は、別名を櫛石窓神、または豊石窓神と言い、御門の神である。手力男神は佐那那県(さなながた)に鎮座する。
天児屋命は中臣連(なかとみのむらじ)らの、布刀玉命は忌部首(いむべのおびと)らの、天宇受売命は猿女君(さるめのきみ)らの、伊斯許理度売命は作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの、玉祖命は玉祖連(たまのおやのむらじ)らの、それぞれ祖神である。
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承があるが、どちらの場所が比定されるかは定説がない。
高千穂町の天岩戸神社には、天照大御神が隠れていた「天岩戸」と伝わる洞窟がある。
※注記.天岩戸伝説は高千穂町以外にも複数あり、高千穂地区限定のものではない。また、記紀では天の岩戸の洞窟は高天原にあるとしている。
記紀の太陽神である天照大御神が隠れ、世界が真っ暗になった天岩戸神話を鬼界カルデラ大噴火の火山灰の雲による大災害と見る説もある。 日本の太陽信仰は鬼界カルデラ大噴火に起因すると考える説だが、この説だと天岩戸は伝承地である沖縄から千葉まで日本の上空を覆い尽くしていた事になる。天孫降臨の地の高千穂からは鹿児島湾や鬼界カルデラを目視できる。
猿田毘古と天宇受売
邇邇藝命は天宇受売命に、猿田毘古神を送り届けて、その神の名を負って仕えるよう言った。それで、猿田毘古神の名を負って猿女君と言うのである。
猿田毘古神は、阿耶訶(あざか)で漁をしている時に比良夫貝に手を挟まれて溺れてしまった。底に沈んでいる時の名を底度久御魂と言い、泡粒が立ち上る時の名を都夫多都御魂と言い、その泡が裂ける時の名を阿和佐久御魂と言う。
天宇受売命が猿田毘古神を送って帰ってきて、あらゆる魚を集めて天津神の御子(邇邇藝命)に仕えるかと聞いた。多くの魚が仕えると答えた中でナマコだけが答えなかった。そこで天宇受売命は「この口は答えない口か」と言って小刀で口を裂いてしまった。それで今でもナマコの口は裂けているのである。
木花之佐久夜毘売と石長比売
邇邇藝命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。娘は大山津見神の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といった。邇邇藝命が求婚すると父に訊くようにと言われた。そこで父である大山津見神に尋ねると大変喜び、姉の石長比売とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、邇邇藝命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。
大山津見神は「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇藝命)の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけひ)をしたからである。木花之佐久夜毘賣だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」(「我之女二並立奉者有因 使石長姬者 天神御子之命雖雪零風吹 恆可如石而常堅不動坐 亦使木花之佐久夜姬者 如木花之榮榮坐 因立此誓者而使二女貢進 今汝令返石長姬而獨留木花之佐久夜姬 故今後天神御子之御壽者 將如木花之稍縱即逝矣」『古事記』)と言った。それで、現在でも天津神の御子の寿命は長くないのである。
日本書紀
(注)日本書紀の本文と一書(あるふみ)について:本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。
『日本書紀』の第九段本文では、天照大神の子(みこ)正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)、高皇産霊尊(たかみむすひ)の女(むすめ)幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶りて天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎ)を生む、とある。
その後、天稚彦の派遣から葦原中国平定後、時に高皇産霊尊は真床追衾(まとこおふすま)を以ちて、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた、とある。
皇孫は天盤座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲(あめのやえくも)を押し分け、稜威(いつ)の道(ち)別き道別きて、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのみね)に天降き、とある[1]。
続いて道中の解説後、その地に一人の者がいて、自ら事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗った。
皇孫は「国在りや不(いな)や。」と尋ねると、彼は「此(ここ)に国は有ります。請(ねが)わくは任意(みこころのまにま)に過ごしてください。」と答えた。故に皇孫は行って留まり住んだ、とある。
その時、その国に美人(たおやめ)がいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「妾(やつこ)は天神(あまつかみ)が大山祇神を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫(かしつひめ)という、とある。その後鹿葦津姫の出産の逸話がある。
最後にしばらくして天津彦彦火瓊瓊杵尊が崩(かむざ)りき。そこで筑紫(つくし)の日向(ひむか)の可愛之山(えのやま)の陵(みささぎ)に埋葬された、とあり締めくくられている。
第九段一書(一)では、本文と類似する天稚彦の派遣から葦原中国平定があり、続いて時に天照大神、「若し然らば、早速、我が子を降さん」と勅(みことのり)し。まさに降ろうとしていた時に皇孫すでに生(あ)れき。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。そこで天照大神は言葉を付け加えて、「此の皇孫を以ちて代えて降(あまくだ)らさんと欲(おも)う」と言った、とある。
続いて、故に天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉・八咫鏡及び草薙剣(天叢雲剣)の三種宝物(みくさのたから)を賜う(授けた)。
次いで併せて五部(いつとものお)の神を配(そ)えて侍(はべら)しむ(従わせた)、とあり以下がその神である。
天児屋命(あめのこやね)・中臣(なかとみ)の上祖(とおつおや)
太玉命(ふとだま)・忌部(いむべ)の上祖
天鈿女命(あめのうずめ)・猿女(さるめ)の上祖
石凝姥命(いしこりどめ)・鏡作(かがみつくり)の上祖
玉屋命(たまのや)・玉作(たまつくり)の上祖
そして皇孫に、「葦原千五百秋之瑞穂国(あしはらのちいほあきのみずほのくに)は、これ我が子孫の王(きみ)たるべき地である。皇孫の汝が行って治めよ。さあ行かれよ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)んなることまさに天壌(あめつち)と窮(きわまり)無けん(永続するだろう)」と勅した。これが天壌無窮(あめつちときはまりなし)の神勅である。
そうして降る間に、先駆の者の還りて、「一柱の神有りて天八達之衢(あまのやちまた)に居り。其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背(そびら)の長(たけ)七尺(ななさか)あまり。まさに七尋(ななひろ)と言うべし。また口尻(くちわき)明り光れり。眼は八咫鏡の如くして然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち)(ほおずき)に似たり」。
そこで従えていた神を遣わして尋ねに行かせた。この時、八十万神(やおよろずのかみ)がいたが、皆、眼力負けて相い問うを出来ず。そこで(皇孫らは)特に天鈿女命に「汝は眼力の勝(すぐ)れし神である。行て尋よ」と勅す。
以下が天鈿女命と衢神(ちまたのかみ)猿田彦の問答である。
- 天鈿女命:胸をあらわにし、衣の紐を臍(へそ)の下まで押し下げあざ笑い、衢神に向かい立つ。→ 衢神猿田彦:「天鈿女、汝の為す(そんなことをする)は何の故ぞ」と尋ねた。
- 天鈿女命:「天照大神の御子(皇孫)が進む道路(みち)に如此(かく)居(いま)す者有るは誰ぞ。敢て問う」→ 衢神猿田彦:「天照大神の御子、今、まさに降り行くと聞く。故に迎え奉りて相い待つ。我が名は猿田彦大神ぞ」
- 天鈿女命:「汝、我を将(い)て先(さきだち)て行くか、それとも、我、汝に先て行くか」→ 衢神猿田彦:「我、先て啓(みちひらき)て行かん」
- 天鈿女命:「汝は何処(いずこ)に到るや。皇孫は何処に到るや」→ 衢神猿田彦:「天神の御子、まさに筑紫の日向(ひむか)の高千穗(たかちほ)の触之峯(くぢふるのたけ)に到るべし。我は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴(いすず)の川上に到るべし」更に続け、「我の素性を明らかし者は汝なり。故、汝、我を送りて致るべし」
その後、天鈿女命還り詣(いた)りて状(かたち)報(かえりこともう)す、とある。そこで皇孫は天磐座(あめのいわくら)を脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降(あまくだ)る。果して先の期(ちぎり)の如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗の触之峯(たかちほのくじふるのたけ)に到る。
衢神猿田彦は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に辿り着き、天鈿女命は衢神猿田彦の乞う所の随に送り届けた。そこで皇孫は天鈿女命に、「汝は素性を明らかにした神の名をもって姓氏とせよ」と勅し、これによって猿女君の名を授かった、とある。
前半は天照大神が取り仕切る天壌無窮の神勅であり、後半は天鈿女命と猿田彦の問答がメインとなる。
第九段一書(二)では、この時、高皇産霊尊は〜中略〜とあり、以下の神を○○作りと定めた。
- 紀国(きのくに)の忌部の遠祖の手置帆負神(たおきほおい):作笠者(かさぬい)と定める
彦狹知神(ひこさち):作盾者(たてぬい)と定める
天目一箇神(あまのまひとつ):作金者(かなだくみ)と定める
天日鷲神(あまのひわし):作木綿者(ゆうつくり)と定める
櫛明玉神(くしあかるたま):作玉者(たまつくり)と定める
そして太玉命をして、弱肩(やわかた)に太手繦(ふとだすき)被(とりか)けて御手代(みてしろ)(代表者)とした。また、天児屋命(あまのこやねのみこと)は神事(かむこと)を司る神であった為、太占(ふとまに)の卜事(うらこと)によって仕え奉らしむ、とある。
続いて高皇産霊尊は、「我、則ち天津神籬(あまつひもろき)及び天津磐境(あまついわさか)を起したてて、まさに我が皇孫の為に祭祀奉らん。汝(いまし)天兒屋命・太玉命は、宜(よろ)しく天津神籬を持(たも)ちて、葦原の中つ国に降りて、また我が皇孫の為に祭祀奉られよ」と勅(みことのり)す。二神(ふたはしらのかみ)を遣(つか)わして天忍穂耳尊(あまのおしほみみ)に従わせて降(あまくだ)らす、とある。
この時、天照大神は手に宝鏡(たからのかがみ)を持ち、天忍穂耳尊に授けて、「我が御子よ、宝鏡を視ること、まさに猶(なお)我を視るが如くすべし。與(とも)に床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ。」と祝福した。また、天児屋命・太玉命に、「惟(これ)爾(いまし)二柱の神、亦(また)同(とも)に殿の内に侍(さぶら)いて、善く防ぎ護るをいたせ」と勅す。また、「我が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以ちて、また、まさに我が御子に御(しら)せまつるべし。」と勅す、とある。
そして、高皇産霊尊の女(むすめ)名は万幡姫(よろづはたひめ)を天忍穂耳尊に配(あわ)せて妃とさせ、降(あまくだ)らせた。その途中に虚天(あめ)に居(いま)して天津彦火瓊瓊杵尊が生まれた為、この皇孫を親に代わって降らせようと考え、天児屋命・太玉命及び諸氏族(もろとものおのかみ)の神々を悉く、皆、相い授けき。また、服御之物(みそつもの)、一(もはら)前(さき)に依りて授ける。そうした後に天忍穂耳尊はまた天に還る、とある。
それから、天津彦火瓊瓊杵尊は日向の日(くしひ)の高千穗の峯(たけ)に降り立ち、膂宍(そしし)の胸副国(むなそうくに)を頓丘(ひたお)から国覓(ま)ぎ行去(とお)りて、浮渚在平地(うきじまりたひら)に立った。そして、国主(くにのぬし)事勝国勝長狭を召して訪(と)う。すると彼は「是(ここ)に国有り、取り捨て勅の随(まにま)に。(どうぞご自由に)」と答えた。
そこで皇孫は宮殿を立て、そこで遊息(やす)んだ後、海辺に進んで一人の美人(をとめ)を見かけた。皇孫が、「汝(いまし)是(これ)誰が子ぞ。」と尋ねると、「妾(やつこ)は是(これ)大山祇神(おおやまつみ)が子、名は神吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫。」と答え、さらに、「また、我が姉(いろね)磐長姫(いわながひめ)在り。」と申し上げた。皇孫が、「我、汝(いまし)を以ちて妻となさんと欲(おも)う、如之何(いかに)。」と尋ねると、「妾が父(かぞ)大山祇神(おおやまつみのかみ)在り。請(ねが)わくは垂問(と)いたまえ。」と答えた。
皇孫がそこで大山祇神に、「「我、汝(いまし)の女子(むすめ)を見る。以ちて妻とせんと欲う。」と語ると、大山祇神は使女(ふたりのむすめ)をして百机飮食(ももとりのつくえもの)を持たしめて奉進(たてまつ)る、とある。
すると皇孫は、姉の方は醜いと思って御(め)さず罷(さ)けき。妹(おとと)は有国色(かおよし)として引(め)して幸(あ)いき。すると一夜にして身籠(みごも)った。そこで磐長姫は大いに恥じ、「仮使(たとえ)天孫(あめみま)、妾を斥(しりぞ)けず御(め)さば、生める児(みこ)は寿(いのち)永く、磐石の常に存るが如くに有らんを、今、既に然らず。唯、弟(妹)独(ひと)りを見御(みそなわ)すは、其の生める児(みこ)は必ず木の花の如く移ろい落ちなん。」と呪詛を述べた。その後に、神吾田鹿葦津姫異伝を伝えている。
この一書では前半、天児屋命・太玉命を主として描き、後半は磐長姫の逸話を伝えている。
第九段一書(四)では、高皇産霊尊は真床覆衾を、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、高皇産霊尊は、真床覆衾を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せて、天磐戸を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降らせた。
この時、大伴連の遠祖である天忍日命(あまのおしひ)が、来目部(くめべ)の遠祖である天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)を率い、背(そびら)には天磐靫(あまのいわゆき)を背負い、腕には稜威高鞆(いつのたかとも)を著け、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を取り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副(そ)え持ち、また頭槌劒(かぶつちのつるぎ)を帯びる、とある
(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、日向の襲(そ)の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き、浮渚在之平地(うきじまりたいら)に立ち、頓丘(ひたお)より国覓(ま)ぎ行去(とお)りて、吾田の長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に辿り到る、とある。
すると、その地に一神(ひとはしらのかみ)有り。名を事勝国勝長狭(ことかつくにかつのかみ)と言う。そこで天孫がその神に、「国在(あり)や」と尋ねると、「在り」と答え、さらに、「勅(みことのり)の随(まにま)に奉らん」と言う。そこで天孫はその地に留まり住んだ。その事勝国勝長狭は伊弉諾尊の御子である。またの名は塩土老翁(しおつちのおじ)という、とある。
この一書では、瓊瓊杵尊の降臨を主として記述し、天忍日命と天串津大来目のみを随神とする。そして事勝国勝長狭の別名が彦火火出見尊の神話に登場する塩土老翁だという。
第九段一書(六)では、天忍穂根尊(あまのおしほね)は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の子、千千姫命(ちぢひめ)、を娶りて生みし子の天火明命(あまのほのあかり)。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の子の天香山(あまのかぐやま)が尾張連等の遠祖である。
皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原の中つ国に降臨し奉るに至るに及びて〜中略〜この時高皇産霊尊は真床覆衾を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲を排披(おしわ)けて、以ちて降(あまくだ)し奉る。そこで、この神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あまつくににぎしほのににぎ)と言う。時に降り到りし所は、呼びて日向の襲(そ)の高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。〜中略〜瓊瓊杵尊は吾田(あた)の笠狹之御碕(かささのみさき)に辿〔たど〕り着き、長屋の竹嶋(たかしま)に登る。その地を巡り見るとそこに人がいた。名を事勝国勝長狭と言う。
天孫がそこで、「此は誰が国ぞ。」と尋ねると、「これ長狹が住める所の国也。然れども、今、天孫に奉上らん。」と答えた。天孫がまた、「その秀起(さきた)つる浪穂(なみほ)の上に八尋殿(やひろとの)を起(た)てて、手玉(ただま)も玲瓏(もゆら)に織経(はたお)る少女(おとめ)は、是(これ)誰が子女(むすめ)ぞ」と尋ねると、「大山祇神が女(むすめ)等、大(あね)を磐長姫(いわながひめ)ともうす。少(おとと)を木花開耶姫ともうし、または豊吾田津姫(とよあたつひめ)ともうす」と答えた〜中略〜皇孫(すめみま)因りて豊吾田津姫(とよあたつひめ)と招くと則ち一夜にして身籠る。皇孫はこれを疑う。〜中略〜それにより母(いろは)の誓(うけい)がはっきりと示した。方(まさ)(本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ。
憶企都茂播 陛爾播譽戻耐母 佐禰耐據茂 阿黨播怒介茂譽 播磨都智耐理譽(沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ)※意味【沖の海藻は浜辺に打ち寄せらるるが、我は共に寝る事も出来ず。浜の千鳥よ。】
以上がこの一書の内容である。異伝である為、要所要所で略してあるのは他の書と酷似しているからと思われる。
第九段一書(七)では、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫(あまよろずたくはたちはたひめ)がいた、とある。
- 高皇産霊尊の娘の万幡姫(よろづはたひめ)の娘の玉依姫命(たまよりひめ)。此の神、天忍骨命(あまのおしほね)の妃となりて、御子の天之杵火火置瀬尊(あまのぎほほおきせ)を生むという、とある。
- 勝速日命(かちはやひのみこと)の御子の天大耳尊(あまのおおみみ)。此の神、丹姫(にくつひめ)を娶りて、御子の火瓊瓊杵尊(ほのににぎ)を生むという、とある。
神皇産霊尊の女(むすめ)幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、御子の火瓊瓊杵尊(ほのににぎ)を生むという、とある。
天杵瀬命(あまのきせ)、吾田津姫(あたつひめ)を娶りて、(略)とある。
この一書では異伝を箇条書きに伝える。
第九段一書(八)では、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫を娶りて、妃として生みし御子の天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかり)といい、尾張連等の遠祖(とおつおや)である。
次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎ)この神、娶大山祇神(おおやまつみ)の女子(むすめ)木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)を妃として生みし御子は(略)、とある。
この一書では別の異伝を伝える。
火中出産
ここでは、木花開耶姫の出産について記す。
古事記
木花之佐久夜毘売の出産
木花之佐久夜毘売は一夜を共にしただけで身篭った。それを聞いた邇邇藝命は「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」(「佐久夜毘賣 一宿哉妊 此胎必非我子而為國津神之子」『古事記』)と言った。
木花之佐久夜毘売は、「この子が国津神の子なら、産む時に無事ではないでしょう。天津神の子なら、無事でしょう」(「吾妊之子 若國津神之子者 幸難產 若為天津神之御子者 幸產」『古事記』)と誓約をし、戸のない御殿を建ててその中に入り、産む時に御殿に火をつけた。天津神の子であったので、無事に三柱の子を産んだ。
火が盛んに燃えた時に生んだ子を火照命、火が弱くなった時の子を火須勢理命、火が消えた時の子を火遠理命、またの名を天津日高日子穂穂手見命という。
日本書紀
第九段本文では、その国に美人(たおやめ)がいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「妾(やつこ)は天神(あまつかみ)が大山祇神を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫(かしつひめ)という、とある。皇孫が彼女を気に入ると、一夜にして妊娠した。皇孫は信じられず、「また天神といえども、何ぞよく一夜の間に人をして娠(はらみ)有らせんや。汝が懷(はら)めるは必ず我が子に非(あら)じ」と言った。
そこで鹿葦津姫は怒り恨んで、戸口のない小屋を作ってその中に籠り、誓いて、「妾が娠める、若し天孫(あめみま)の御子に非(あら)ざれば必ず焼け滅(ほろ)びぬ。もし本当にに天孫の子ならば、火も害(そこな)うこと能(あた)わじ。」と言って、火をつけて小屋を焼いた、とある。以下がその三子の詳細である。
- 最初に昇った煙から生まれ出た子:火闌降命・隼人(はやひと)等の始祖
- 次に熱が静まって生まれ出た子を彦火火出見尊。
- 次に生まれ出た子を火明命・尾張連(をはりのむらじ)等の始祖
とある。
第九段一書(二)では、その後、神吾田鹿葦津姫、皇孫を見て「妾は天孫(あめみま)の御子を娠(はら)めり。私に生むべからず、」と言うと、皇孫は「たとえ天神(あまつかみ)の御子といえども如何(いかに)ぞ一夜にして人をして娠(はらま)せんや。抑(はた)我が御子に非(あらざる)か。」と言った。それを聞いた木花開耶姫【何故か神吾田鹿葦津姫から木花開耶姫に変わっている】は大いに恥じ恨んで、、戸無き室を作りて誓いて「我が娠(はらめ)る、これもし他神(あたしかみ)の子ならば、必ず幸(さち)あらず。これ實(まこと)に天孫の子ならば、必ずまさに全(また)く生まれなん。」と言いその室の中に入り火を以ちて室を焚(や)く、とある。
以下が火中出産の三子の詳細である。
- 焔が初め起こる時に共に生みし御子:火酢芹命(ほのすせり)
- 次に火盛りなる時に生みし御子:火明命(ほのあかり)
- 次に生みし御子:彦火火出見尊(ひこほほでみ)、または火折尊(ほのおり)
とある。
第九段一書(三)では、まず神吾田鹿葦津姫の火中出産を述べる。
- 最初に炎(ほのお)が明るい時に生まれた子が火明命(ほのあかり)である。
- 次に、炎(ほむら)が燃え盛る時に生まれた子が火進命(ほのすすみ)である。または火酢芹命(ほのすせり)と言う。
- 次に、炎が鎮まった時に生まれた子が火折彦火火出見尊(ほのおりひこほほでみのみこと)である。
この併せて三子(みはしらのみこ)は火も害(そこな)うことなく、母(いろは)もまた少しも損う所無し。そして竹の刀でその子の臍の緒を切る。その竹刀を棄てし所、後に竹林と成る。そこで、その地を竹屋(たかや)と言う。
その時に神吾田鹿葦津姫が卜定田(うらへた)を以ちいた田を狭名田(さなだ)と言う。その田の稲で天甜酒(あめのたむさけ)を釀(か)みて嘗(にいなえ)を催した。また、渟浪田(ぬなた)の稲を用いて、飯(いい)と作り嘗を催した。
後半では神吾田鹿葦津姫の農耕神としての様子を示す。
第九段一書(五)では、天孫(瓊瓊杵尊)は大山祇神の娘の吾田鹿葦津姫を娶り、一夜にして身籠る。そして四子(よはしらのみこ)を生む。そこで吾田鹿葦津姫は子を抱き進み来て、「天神の御子を、寧(いずくん)ぞ私に養(ひだ)しべけんや。故、状(かたち)を告げて聞こえ知らしむ」と言った。この時、天孫はその子たちを嘲笑い、「あなにや、我が皇子は、聞き喜くも生(あ)れたるかな」と言った、とある。
そこで吾田鹿葦津姫が怒って、「何すれぞ妾を嘲うや」と言うと、天孫は、「心に疑(うたがわ)し。故に嘲う。何となればまた天神の子といえども、あによく一夜の間に人をして有身(はら)ませんや。固(まこと)我が子には非(あら)じ」と言った。これを聞いて吾田鹿葦津姫はますます恨み、戸無き室を作りその中に入り、誓いて「妾が妊(はら)める所、若(も)し天神(あまつかみ)の御子に非(あら)ずば必ず亡びなん。是(これ)若(も)し天神(あまつかみ)の御子ならば害(そこな)う所無けん」と言う。そして火を放ち小屋を焼いた、とある。
以下がその四柱の御子の登場順、名と名乗りの台詞である。
- その火の初め明かる時、勇ましく進み出て:火明命(ほのあかり):「吾は是(これ)天神(あまつかみ)の子(みこ)、名は火明命。吾が父(かぞ)は何處(いずこ)に坐(いま)すや。」
- 火の盛(さかり)の時、勇ましく進み出て:火進命(ほのすすみ):「吾は是(これ)天神(あまつかみ)の子(みこ)、名は火進命。吾が父(かぞ)及び兄(いろね)何處(いずこ)に在りや。」
- 火炎(ほのお)衰(しめ)る時、勇ましく進み出て:火折尊(ほのおり):「吾は是(これ)天神(あまつかみ)の子(みこ)、名は火折尊(ほのおりのみこと)。吾が父(かぞ)及び兄(いろね)等、何處(いずこ)に在りや。」
- 火熱(ほとほり)を避りし時、勇ましく進み出て:彦火火出見尊:「吾は是(これ)天神(あまつかみ)の子(みこ)、名は彦火火出見尊。吾が父(かぞ)及び兄(いろね)等、何處(いずこ)に在りや。」
然る後に、母(いろは)吾田鹿葦津姫が火燼(ほたくい)(焼け跡)の中から出て来て、就(おもむ)きてことあげ(言葉に出して)、「妾が生める児(みこ)及び妾が身、自(おの)ずから火の難(わざわい)に当(あ)えども、少しも損(そこな)える所無し。天孫(あめみま)豈(あに)見そなわすや」と言う、とある。
天孫は「我本よりこれ我が子と知る。但(ただ)一夜にして有身(はら)めり。疑う者有らんと慮(おも)いて、衆人(もろもろのひと)をして皆、是(これ)我が子、あわせてまた天神は能(よ)く一夜にして有娠(はら)ましむることを知らしめんと欲(おも)う。また汝、霊(くしひ)に異(あや)しき(奇異な)威(かしこさ)(能力)有り、子(みこ)等復た倫(ひと)に超(すぐ)れたる気(いき)有るを明かさんと欲(おも)う。故に前(さき)の日の嘲(あざけ)る辞(ことば)有り」と答えた、とある。
この一書は火中出産(ではなく火中の誓だが)の異伝である。あるいは瓊瓊杵尊の言い訳を代弁する様な一書とも思われる。また、ここでの吾田鹿葦津姫は出産後、火中の誓を行う事や、御子は四柱おり、自ら名乗りを上げる事などが他の異伝と大きく異なる。
第九段一書(六)では、皇孫(すめみま)因りて豊吾田津姫(とよあたつひめ)と招くと則ち一夜にして身籠る。皇孫はこれを疑う。〜中略〜そして生まれた御子が以下の神である。
- 火酢芹命(ほのすせりのみこと)
- 火折尊(ほのおりのみこと)、または彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
それにより母(いろは)の誓(うけい)がはっきりと示した。方(まさ)(本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ、とある。
第九段一書(七)では、天杵瀨命(あまのきせ)、吾田津姫(あたつひめ)を娶りて、御子の火明命(ほのあかり)を生む。次に火夜織命(ほのより)。次に彦火火出見尊(ひこほほでみ)という、とある。
第九段一書(八)では、次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎ)この神、娶大山祇神(おおやまつみ)の女子(むすめ)木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)を妃として生みし御子は火酢芹命(ほのすせり)という。次に彦火火出見尊、とある。
この一書でも木花開耶姫命の御子は二柱となっている。
なお、皇子の出生の順番は、文献により異なっている。
書名 | 第一王子 | 第二王子 | 第三王子 | 第四王子 | |
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古事記 | 火照命(ほでり) | 火須勢理命(ほすせり) | 火遠理命(ほおり)・天津日高日子穗穗手見命(あまつひこひこほほでみ) | ||
日本書紀 | 本文 | 火闌降命(ほすせり) | 彦火火出見尊(ひこほほでみ) | 火明命(ほあかり) | |
一書第1・第4 | 記述なし | ||||
一書第2 | 火酢芹命(ほすせり) | 火明命(ほあかり) | 彦火火出見尊(ひこほほでみ)・火折尊(ほおり) | ||
一書第3 | 火明命(ほあかり) | 火進命(ほすすみ)・火酢芹命(ほすせり) | 火折彦火火出見尊(ほおりひこほほでみ) | ||
一書第5 | 火明命(ほあかり) | 火進命(ほすすみ) | 火折尊(ほおり) | 彦火火出見尊(ひこほほでみ) | |
一書第6 | 火酢芹命(ほすせり) | 火折尊(ほおり)・彦火火出見尊(ひこほほでみ) | |||
一書第7 | 火明命(ほあかり) | 火夜熾命(ほよおり) | 彦火火出見尊(ひこほほでみ) | ||
一書第8 | 火酢芹命(ほすせり) | 彦火火出見尊(ひこほほでみ) |
考察
谷有ニは「元より伝説であり特定はできないが」とした上で、伝説の地をクシフルに音の似た九重連峰や久住山とする説等を紹介している。谷自身は、高千穂を「高い山」の意とし、添(ソホリ)がソウルと同じ王の都であるなど韓国との関連を示す記載と前述の瓊々杵尊の言葉から、本来は九州北部が伝説の地であったが、政策上の都合で九州南部に移動したとしている。また、谷はソホリに「大きい」の意のクがついたものがクシフルである可能性とカシハラとの類似性も指摘している。
古田武彦は福岡県の日向峠(笠沙岬の真北)を天孫降臨の伝説の発祥地とする。
原田大六は久士布流多気を「奇し」(霊妙な)、「振る」(勢いが盛んな様)、「岳」と捉え、久士布流を台風のこととした。
沢田洋太郎は天孫降臨はヤマト王権の朝鮮から北九州への上陸を意味するとしている[2]。
なお、その他にもクシフルの比定地は多くある。クシフルと同様、ソウルが変化したとされる脊振山(セフリサン)は、福岡県と佐賀県の境にあって、韓国(カラクニ)=朝鮮半島南部が対馬の向こうに見える山である。
朝鮮の建国神話、とくに加耶の始祖首露王が亀旨(クジ)峰に天降る話と似ていることが、神話学者の三品彰英によって指摘されている。
『日本書紀』巻3神武紀によると磐余彦(後の神武天皇)が、日向国の高千穂宮にいた45歳の 太歳が甲寅の歳に、兄弟や皇子に、天祖降跡以来、一百七十九万二千四百七十餘歲(179万2470余年[3])が経ったと述べたという。
注
^ 大祓詞にも同じ記述がある。
^ 澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)、澤田洋太郎『アジア史の中のヤマト民族』(新泉社、1999年)
^ 偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』では瓊々杵尊は31万8543年、彦火火出見尊は63万7892年、鶿草葺不合尊は83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。
関連項目
- 天孫紀元
外部リンク
「日本の神話 天孫降臨」 - 神社本庁
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