葦原中国平定































葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)は、日本神話において、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話。国譲り(くにゆずり)ともいう。




目次






  • 1 あらすじ


    • 1.1 古事記


      • 1.1.1 天忍穂耳の派遣


      • 1.1.2 天菩比の派遣


      • 1.1.3 天若日子の派遣


      • 1.1.4 天若日子の葬儀


      • 1.1.5 建御雷の派遣


      • 1.1.6 事代主の服従


      • 1.1.7 建御名方の服従


      • 1.1.8 大国主の国譲り




    • 1.2 日本書紀


      • 1.2.1 卷第二神代下・第九段本文


      • 1.2.2 第九段一書(一)


      • 1.2.3 第九段一書(二)


      • 1.2.4 第九段一書(六)






  • 2 解説


  • 3 脚注





あらすじ



古事記


天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、何人かの神を出雲に遣わした。大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。



天忍穂耳の派遣


天照大御神は、「葦原中国は私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が治めるべき国だ」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神に報告した。



天菩比の派遣


高木神(高御産巣日神・たかみむすび)と天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。思金神(おもいかね)と八百万の神が相談して「天菩比命(あめのほひ)を大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。高木神と天照大御神は天菩比命に大国主の元へ行くよう命じた。しかし、天菩比命は大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻らなかった。



天若日子の派遣


高木神と天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々と思金神が相談して「天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべき」と答えた。そこで、天若日子に天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天羽々矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わした。しかし、天若日子は大国主の娘の下照比賣(したてるひめ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうとして8年たっても高天原に戻らなかった。


天照大御神と高木神がまた八百万の神々に、天若日子が戻らないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々と思金神は「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、鳴女に、葦原中国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故8年経ても帰らないのかを、天若日子に聞くように命令した。鳴女が天より下って、天若日子の家の木にとまり理由を問うと、天佐具賣(あまのさぐめ)が「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」と天若日子をそそのかした。そこで彼は高木神から与えられた天之麻迦古弓と天羽々矢で鳴女の胸を射抜き、その矢は高天原の高木神の所まで飛んで行った。


高木神は血が付いていたその矢を、天若日子に与えた天羽々矢であると諸神に示して、「天若日子の勅(みことのり)に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢は天若日子に当たるな。もし天若日子に邪心あれば、この矢に当たれ」と言って天羽々矢を下界に投げ返した。矢は天若日子の胸を射抜き、彼は死んでしまった。鳴女も高天原へ帰らなかった。



天若日子の葬儀


天若日子の死を嘆く下照比賣の泣き声を、天にいる天若日子の父天津國玉神や母が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋をつくった。阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこね)が弔いに訪れた時、天若日子によく似ていたため、天若日子の父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言って阿遅志貴高日子根神に抱きついた。すると阿遅志貴高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、大量で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。阿遅志貴高日子根神の妹の高比賣命は、歌を詠んだ。



建御雷の派遣


天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、思金神と八百万の神々は、「稜威雄走神(いつのおはばり)か、その子の建御雷神(たけみかづち)を遣わすべき」と答えた。天之尾羽張(あめのおはばり)は「建御雷神を遣わすべき」と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に遣わした。



事代主の服従


建御雷神と天鳥船神は、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の事代主神に訊ねるよう言った。事代主神は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れた。



建御名方の服従


建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神(タケミナカタノカミ)にも訊くよう言った。その間に建御名方神がやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴んだ。すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして放り投げたので、建御名方神は逃げ出した。


建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。建御名方神は逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。


この神話は諏訪にも伝わっているが、逃走中に現在の生島足島神社に立ち寄ったとか、諏訪に入ろうとして土着の洩矢神と戦ったなど古事記には見えない神話も残している。



大国主の国譲り


建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねた。大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十柱の子神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言った。大国主神は出雲国の多藝志(たぎし)の小濱に宮殿を建てて、たくさんの料理を奉った。


建御雷神は葦原中国平定をなし終え、高天原に復命した。



日本書紀



卷第二神代下・第九段本文


『日本書紀』の卷第二神代下・第九段本文では、天照大神(あまてらす)の御子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)、高皇産靈尊(たかみむすひ)の娘、幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶り天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎ)を生む。そこで皇祖(みおや)高皇産靈尊は特に憐愛を鍾(あつ)め大事に育てた。遂に皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中國(あしはらのなかつくに)の主(きみ)としようと考えた。しかし、彼の地に螢火の光(かかや)く(勝手に光る)神、及び蠅聲(さばえな)す(騒がしい)邪神が多くいた。また、草木さえもしばしば言語(ものいう)状態であった。


そこで高皇産靈尊は八十諸神(やそもろかみたち)を召し集めて「我、葦原中國の邪鬼(邪神達)を掃い平らげんと欲す。まさに誰を遣さば宜(よ)けん。惟(これ)いまし諸神(もろかみたち)、知るを隠す所勿(なか)れ」と尋ねた。皆の神は「天穗日命(あめのほひ)は、これ神の傑(いさお)なり。試ざるべけんや」と進言した。そこで、皆の言葉に従って天穂日を向わせ、平定させようとした。しかしこの神は国津神の首魁大己貴神(おおあなむち)に媚びて、三年になっても報告に戻らなかった。そこで、其の子、大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)またの名は武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣わした。これもまた、その父と同じく報告に戻らなかった。


そこで高皇産靈尊は更に諸神(もろかみたち)を集えて、遣わすべき者を尋ねた。皆は「天國玉(あまつくにたま)の子、天稚彦(あめのわかひこ)、これ壮士なり。宜(よろし)く之を試みるべし」と進言した。 そこで、高皇産靈尊は天稚彦(あめのわかひこ)に天鹿兒弓(あめのかごゆみ)及び天羽羽矢(あめのははや)を授けて遣わした。だがこの神も忠実ではなかった。到着するや顕國玉(うつしくにたま)の女子(むすめ)下照姫(したてるひめ)またの名は高姫(たかひめ)、またの名は稚國玉(わかくにたま)を娶って留まり住み、「我は亦葦原中國を馭(し)らさんと欲す」と言い報告に戻らなかった、とある。


この時、高皇産靈尊はその長いこと報告に来ないことを怪しみ、無名雉(ななしきぎし)を遣わしこれを伺う。 その雉(きぎし)飛び降(くだ)り、天稚彦が門前に植(たてる)湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すえ)に止まりき。すると、天探女がこれを見て天稚彦に「奇(く)しき鳥来て杜(かつら)の杪(すえ)に居(お)り」と告げた。天稚彦は高皇産靈尊の授けし天鹿兒弓・天羽羽矢を取りて射て雉を斃(ころ)した。その矢は雉の胸を貫いて、高皇産靈尊のの座(いま)す前(御前)に至る。 


すると高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、その矢を見て「この矢は則ち昔、我が賜いし天稚彦の矢也。其の矢血に染まりたり。蓋(けだ)し國神(くにつかみ)と相い戰いて然(しか)るか」と言った。そして、矢を取って投げ下して返した。その矢は落下して天稚彦の胸に命中した。彼は新嘗(にいなえ)して休み臥(ふ)せる時で最中で矢に中りて立ちて死にき、とある。


天稚彦の妻の下照姫が哭(な)き泣(いさ)ち悲哀(かなし)む声は天に達した。この時、天國玉がその泣き声を聞いて、天稚彦の死を知り、疾風(はやて)を遣わして、屍を天に運ばせ、すぐに喪屋を造って殯(もがり)を行った。※(一部省略 )そうして八日八夜、啼(おら)び哭(な)き悲しみ偲んだ。これより前、天稚彦が葦原中國にいた頃、味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)と親友であった。そこで、味耜高彦根神は天に昇りて喪を弔(とむら)う。


ところが、この神は天稚彦の平生の儀(よそおい)によく似ていた。そこで天稚彦の親族や妻子は皆、「吾が君は猶(なお)在り」と言い、衣服にすがりついて喜びにわいた。すると味耜高彦根神は怒り色を作(な)して、「朋友の道理宜(よろ)しく相い弔うべし。故、汚穢(けがれ)を憚(はばか)らず遠きより赴(おもむ)き哀(かなし)む。何ぞ誤りて我を亡者となす」と言って、大葉刈(おおはがり)またの名は神戸劒(かむどのつるぎ)を抜いて、喪屋を斬り倒した。これが落ちて、今の美濃國(みののくに)藍見川(あいみのかわ)の上(かみ)に在る喪山(もやま)になった。


この後、高皇産靈尊は更に諸神を集えて、葦原中國に遣わすべき神を選んだ。皆は「磐裂根裂神(いはさくねさく)の子、磐筒男(いはつつのお)・磐筒女(いはつつのめ)が生める子、經津主神(ふつぬし)、是(これ)將(まさ)に佳(よ)けん」と進言する。この時、天石窟(あまのいわや)に住む神、稜威雄走神(いつのおはしり)の子甕速日神(みかはやひ)、甕速日神の子樋速日神(ひはやひ)、樋速日神の子武甕槌神(たけみかづち)がいた。この神が進み出て、「豈(あに)唯(ただ)經津主神獨り大夫(ますらお)にして、我は大夫に非ずや(何故、經津主神だけが立派で、私は立派ではないのか)」と言った。大変熱心に語るので、經津主神に副(そ)えて葦原中國を平定させることにした、とある。


二神(ふたはしらのかみ)はそこで出雲國(いずものくに)の五十田狹之小汀(いたさのおはま)に降り到り、十握劒を抜いて逆さに地面に突き立てると、その剣先にあぐらをかいて座り、大己貴神に、「高皇産靈尊の皇孫を降(くだ)し、此の地に君臨せんと欲す。故、まず我ら二神を駈除(はら)い平定(やわし)に遣す。汝(いまし)が意(こころ)は何如(いかに)。まさに避(さ)らんや不(いな)や」と尋ねた。すると大己貴神は「まさに我が子に問いて、然る後に報(かえりごともう)さん」と答えた。この時、その子の事代主神(ことしろぬし)は出かけていて、出雲國の三穂之碕(みほのさき)にいて魚を釣るを樂(わざ)となす。あるいは、遊鳥(とりのあそび)を樂となす(鳥の狩りをしていた)とも言う。


そこで、熊野諸手船(くまののもろたふね)またの名は天鴿船(あまのはとふね)に使者の稻背脛(いなせはぎ)を乗せて遣わした。そうして高皇産靈の勅(みことのり)を事代主神に伝え、その返事を尋ねた。すると事代主神は使者稻背脛に、「今、天神(あまつかみ)の此の借問の勅有り。我が父(かぞ)宜(よろ)しくまさに避り奉るべし。我も亦た違うべからず」と語って、海中に八重蒼柴籬(やえあおふしかき)を造り、船(ふなのへ)を蹈みて避(さ)ったという。


使者稻背脛が帰って報告すると、大己貴神はその子の言葉を聞いて、二神に「我が怙(たの)めし子は既に避去(さ)りぬ。故、我もまたまさに避るべし。如(も)し、吾、防禦(ふせ)がば、國の内の諸神たち、必ずまさに同じく禦(ふせ)がん。今、我、避り奉(たてまつ)らば、誰かまた敢(あえ)て順(まつろ)わん者有らん」と申し上げた。そして国を平定した時に杖(つえつき)し(用いた)廣矛(ひろほこ)を二神に授け「我、此の矛を以ちて、卒(つい)に功(こと)治(な)せる有り。天孫若(も)し此の矛を用(も)て國治(しら)さば、必ずまさに平けく安からん。今、我、まさに百不足之八十隈(ももたらずやそくまで)に隱去(かくれ)なん」と言って、言い訖(おわ)りて遂に隱れき、とある。


そして、二神は諸(もろもろ)の不順(まつろ)わぬ鬼神等を誅し(成敗)し、あるいは、二神は邪神及び草木・石の類を誅しすっかり平定した。残る服(うべな)わぬ(従わない)者は星神香香背男(ほしのかがせお)だけであった。そこで倭文神(しとりがみ)である建葉槌命を加え遣わして服従させた。そして二神は天に報告に戻った、とある。


この一書では古事記に似た葦原中國平定が記されている。しかし、武甕槌神は經津主神の従神的役割で、さらに稻背脛という神も登場する。そして不順わぬ神、星神香香背男が登場し、その神は倭文神の建葉槌命が服従させるなど、古事記と大きく異なる点も一部にみられる。



第九段一書(一)


第九段一書(一)では、
天照大神(あまてらす)、天稚彦(あめのわかひこ)に「豐葦原中國(とよあしはらのなかつくに)は、これ我が御子の王たるべき地也。然(しか)れども慮(おもいみ)るに殘賊強暴横惡之神(ちはやぶるあしきかみ)有り。故、汝、先ず往きて之を平げよ」と勅(みことのり)す。そして彼に天鹿兒弓(あまのかごゆみ)・天眞鹿兒矢(あまのまかごや)を授け遣した。 天稚彦は勅を受け来たり降るものの、多くの國神(くにつかみ)の女子(むすめ)を娶り八年経っても報告に戻らなかった、とある。


そこで天照大神は思兼神(おもいかね)を召して、その来ない理由を尋ねた。思兼神は思いて「また雉(きぎし)を遣わして問うべし」と進言した。そこで彼の神の謀(はかりこと)に従い、雉を遣わして見に行かせた。雉は飛び下ると、天稚彦の門の前の湯津杜樹(ゆつかつら)の杪(すえ)に止まり「天稚彦、何の故にぞ八年の間、未だ復命(かえりこと)有らざる」と鳴き問う。 その時に國神の天探女(あまのさぐめ)が雉を見て「鳴く聲の惡しき鳥、この樹の上に在り。これを射るべし」と唆した。天稚彦はそれを聞いて天神(あまつかみ)の授る天鹿兒弓・天眞鹿兒矢を取り射ると、その矢は雉の胸を貫き遂に天神の所にまで届いた、とある。


その矢を見た天神は「此は昔我が天稚彦に賜いし矢也。今、何の故にか来る」と矢を取りて「若し惡(きたな)き心以ちて射るならば、則ち天稚彦、必ず害に遭わん。若し平らかなる心以ちて射るならば、則ち恙無くあらん」と呪(しゅ)をかけ投射し返した。その矢落ち下り天稚彦の高胸(たかむなさか)に中(あた)り瞬時に死に至る、とある。


そこで、天稚彦の妻子たちが天から降り来て、柩を持ち帰り、天に喪屋(もや)を作って殯(もがり)をし泣いた。味耜高彦根神(あぢすきたかひこね)は天稚彦の親友だったため、この神も天に昇って喪を弔い、大いに泣いた。ところが、この神の容姿は天稚彦と恰然(ひとし)く相い似てた。そこで、天稚彦の妻子たちはこれを見て喜び「吾が君は猶(なお)在り」と言って、その衣服にとりつき離さなかった。すると味耜高彦根神は怒り「朋友(ともがき)喪亡(うせ)たるが故に、我、即ち來て弔う。如何(いかに)ぞ死人を我に誤つや」と言って、十握劒で喪屋を斬り倒した。その小屋が落ちて美濃國(みののくに)の喪山(もやま)となった、とある。


天稚彦以降からの葦原中國平定が記される。本文に比べると細部を割愛している。



第九段一書(二)


第九段一書(二)では、
天神(あまつかみ)は經津主神(ふつぬし)・武甕槌神(たけみかづち)を遣して葦原中國を平定させようとした。すると二神(ふたはしらのかみ)は「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)、またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し(どうか先にこの神を征服して下さい)、然る後(れが済んだ後)に下りて葦原中國を撥(はら)わん(平定しましょう)」と進言した。この時に齋主(いわい)の神を(祭祀で征服した神を)齋之大人(いわいのうし)という。この神は、今、東國(あづまのくに)の取(かとり)の地にいる、とある。


そうして二神は降りて出雲の五十田狹(いたさ)の小汀(おはま)に降り立ち、大己貴神に「汝(いまし)、將(まさ)に此の國を以ちて天神(あまつかみ)に奉らんや不(いな)や」と尋ねた。すると、「疑う、汝、二神は是(これ)吾が處に來つる者に非ざるか。故、許(ゆる)さず」と答えた。これを聞いた經津主神は帰り昇って報告した。


そこでに高皇産靈尊は再び二神を還り遣して大己貴神に「今、汝が言う所の者を聞くに、深くその理(ことわり)有り。故、更に條(おちおち)にして勅(みことのり)す。夫(そ)れ汝が治(しら)す顯露(あらは)(現世)の事は、これ我が孫(みま)治すべし。汝は以ちて神事(かむこと)治すべし。また、汝が住むべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今、まさに供え造らん。即ち千尋(ちひろ)の繩(たくなわ)を以ちて、結(ゆ)いて百八十紐(ももあまりやそむすび)とし、その宮を造りし制(のり)は、柱は則ち高く大きに、板は則ち廣く厚くせん。また、田を供え佃(つく)らん。又、汝が海に遊び(釣り)往来の具(そなえ)て、高橋・浮橋及び天鳥船(あまのとりふね)を供え造らん。また、天安河(あまのやすかわ)にまた打橋(うちはし)造らん。また、百八十縫(ももあまりやそぬい)の白楯(しらたて)を供え造らん。また、汝が祭祀(まつり)を主(つかさど)らんは、天穗日命(あまのほひ)これなり(天穂日命に掌らせよう)」と勅(みことのり)を伝えた、とある。 


そこで大己貴神は「天神(あまつかみ)勅(みことのり)の申し出、如此(かく)は慇懃(ねんごろ)なり(行き届いている)。敢(あえ)て命(みことのり)に従がわざらんや。我が治せる顯露(あらわ)の事は、皇孫まさに治すべし。我はまさに退(しりぞ)きて幽事(かくれこと)治さん」と返事をし、岐神(ふなとのかみ)を二神(ふたはしらのかみ)に薦(すす)めて「これまさに我に代りて従い奉るべし。(私に代わってお仕するでしょう)我、まさにここより避(しりぞ)き去らん」と言って、自身に瑞之八坂瓊(みづのやさかに)を身に付けて長く隱れた。


そこで經津主神は岐神を以ちて国の先導役とし、周囲を巡り平定していった。命(みことのり)に逆らう有れば、即ち斬戮を加え(斬り殺し)、帰順(まつろ)う者には褒美を与えた。この時に、帰順(まつろ)う首渠(ひとごのかみ)は、大物主神(おおものぬし)及び事代主神(ことしろぬし)であった。そして大物主神と事代主神は八十萬神(やおよろずのかみ)を天高市(あまのたけち)に合めて、率いて天に昇り、その柔順の至りを示した。
 
この時に高皇産靈尊は大物主神に「汝若(も)し國神(くにつかみ)を以ちて妻となせば、我、猶(なお)汝に疏(うと)き心有りと謂わん。故、今、我が女(むすめ)三穗津姫(みほつひめ)を以ちて汝(いまし)に配(あわ)せて妻となさん。宜(よろ)しく八十萬神を領(ひき)いて永く皇孫の護り奉れよ」と勅し、帰り降らせた、とある。


ここでの高皇産靈尊は交換条件という形で国譲りを迫る。しかも事代主神は本文とは違う登場をする。全体的に一書(一)の続きの内容で、ここにも星神香香背男が別名で登場する。しかし本文と異なり国譲りの前に誅され、斎之大人という神が祭祀によって行う。



第九段一書(六)


第九段一書(六)では、皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原中國に降臨し奉るに至るに及び、高皇産靈尊は八十諸神(やそもろかみ)に、「葦原中國(あしはらのなかつくに)は、磐根(いわね)・木株(このもと)・草葉(くさのは)も猶(なお)よく言語(ものい)う。夜は火(ほほ)の若(もろこ)に(火の粉の様に)喧響(おとな)い(喧しく)、晝は如五月蠅(さばえな)す沸き騰(あが)る」。と勅す、とある〜中略〜


 時に高皇産靈尊は、「昔、天稚彦(あまのわかひこ)を葦原中國に遣す。今に至りて久しく來たらざる所以(ゆえ)は、蓋(けだ)し是(これ)國神(くにつかみ)、強禦之者(いむかうもの)有りてか」と勅し、無名雄雉(ななしおのきぎし)を遣し見に行かせた。この雉(きぎし)、天降り来るなり粟田・豆田を見て其処に留りて帰らず。そこで、また無名雌雉(ななしめのきぎし)を遣す。 この鳥下り來て、天稚彦が射られ、その矢にあたり、上りて報(かえりこともう)す(報告をした)と、ある。〜中略〜


ここからは天孫降臨に繫がる。その項も異伝であり、要所要所で略すのは他の書と酷似するからと思われる。



解説


日本の初期の稲作は陸稲が主流だったとされ、日向では、近畿や九州北部などで頻繁に出土する弥生時代の青銅器がほとんど出土しない。よって日向の文化はそれらよりも遅れて伝わったと考えられる。宮崎県埋葬文化センター所長の北郷秦道によれば、このことから、陸稲の生産効率の低さへの不満に、高天原の勢力が大国主に国譲りを迫った理由があると考えられるという[1]



脚注




  1. ^ 産経新聞2012年7月11日朝刊(1面)「日本人の源流を訪ねて」





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