仁賢天皇
仁賢天皇 | |
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第24代天皇 | |
在位期間 仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日 | |
先代 | 顕宗天皇 |
次代 | 武烈天皇 |
崩御 | 広高宮 |
陵所 | 埴生坂本陵 |
諱 | 大脚 大為 |
別称 | 億計天皇 大石尊 意祁命 意富祁王 |
父親 | 市辺押磐皇子 |
母親 | 荑媛 |
皇后 | 春日大娘皇女 |
子女 | 高橋大娘皇女 朝嬬皇女 手白香皇女 樟氷皇女 橘仲皇女 武烈天皇 真稚皇女 春日山田皇女 |
皇居 | 石上広高宮 |
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
目次
1 系譜
1.1 系図
2 皇居
3 略歴
4 陵・霊廟
5 在位年と西暦との対照
6 関連項目
7 外部リンク
系譜
履中天皇の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子。母は荑媛(はえひめ、葛城蟻臣の女)。顕宗天皇の同母兄。(ただし、『播磨国風土記』は母を手白髪命とする。)
皇后:春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ) - 雄略天皇皇女
- 高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ) - 『古事記』の高木郎女か。
- 朝嬬皇女(あさづまのひめみこ) - 『古事記』の財郎女か。
手白香皇女(たしらかのひめみこ) - 継体天皇皇后、欽明天皇母- 樟氷皇女(くすひのひめみこ)
橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ、橘皇女) - 宣化天皇皇后、石姫皇女母- 小泊瀬稚鷦鷯尊(おばつせわかさざきのみこと、武烈天皇)
- 真稚皇女(まわかのひめみこ) - 『古事記』は真若王で男性とする。
- 妃:糠君娘(ぬかきみのいらつめ) - 和珥臣日爪女
春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ) - 安閑天皇の皇后
系図
豊城入彦命 | [毛野氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10 崇神天皇 | 11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫命 | 13 成務天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦坐王 | 丹波道主命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山代之大 筒木真若王 | 迦邇米雷王 | 息長宿禰王 | 神功皇后 (仲哀皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | 16 仁徳天皇 | 17 履中天皇 | 市辺押磐皇子 | 飯豊青皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
18 反正天皇 | 24 仁賢天皇 | 手白香皇女 (継体皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
菟道稚郎子皇子 | 23 顕宗天皇 | 25 武烈天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
19 允恭天皇 | 木梨軽皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
20 安康天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
21 雄略天皇 | 22 清寧天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
春日大娘皇女 (仁賢皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稚野毛 二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍坂大中姫 (允恭皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇居
都は石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや。奈良県天理市石上町、あるいは同市嘉幡町か)。
略歴
安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が執政した。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后となった事で繰り返されている。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「ボケ山古墳(野中ボケ山古墳)」で、墳丘長122メートルの前方後円墳である。
仁賢天皇11年10月に奉葬された。元禄探陵において所在不明とされたが、河内の学僧覚峰は現陵に擬定し、ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の誤りと考証した。この成果に基づき、幕末に現陵に治定して修補を加えた。前方部は市辺の方向に向いている。北西に陪冢1基がある。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、神戸市西区押部谷町木津には、仁賢・顕宗両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。この神社の他にも西区内や明石市や三木市には所縁を称する神社が数多くある。
在位年と西暦との対照
当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
関連項目
- 古事記
- 日本書紀
- 貴種流離譚
外部リンク
埴生坂本陵 - 宮内庁
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