星野仙一
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楽天監督時代 (2011年3月9日、阪神甲子園球場) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岡山県児島郡福田町 (現:倉敷市) |
生年月日 | (1947-01-22) 1947年1月22日 |
没年月日 | (2018-01-04) 2018年1月4日(70歳没) |
身長 体重 | 180 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
初出場 | 1969年4月13日 |
最終出場 | 1982年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) 殿堂表彰者 | |
選出年 | 2017年 |
得票率 | 78.6%(112票中88票) |
選出方法 | 競技者表彰(エキスパート部門) |
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星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - 2018年1月4日[1])は、日本のプロ野球選手・監督、野球解説者。
岡山県児島郡福田町(現:倉敷市)出身[2]。選手時代のポジションは投手。中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。
目次
1 経歴
1.1 プロ入りまで
1.2 プロ選手時代
1.3 引退後
1.3.1 中日監督時代
1.3.2 阪神監督時代
1.3.3 阪神監督退任後
1.3.4 北京五輪監督
1.3.5 楽天監督時代
1.3.6 楽天監督退任後
2 人物
2.1 監督として
2.2 親族
2.3 交友関係
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 打撃成績
3.3 年度別監督成績
3.4 タイトル
3.5 表彰
3.6 記録
3.7 背番号
4 関連情報
4.1 野球以外での表彰
4.2 著書
4.2.1 単著
4.2.2 共編著
4.3 出演
4.3.1 テレビ番組
4.3.2 ラジオ番組
4.3.3 CM
4.4 ディスコグラフィ
4.5 星野仙一役を演じた俳優・声優
4.5.1 ドラマ
4.5.2 アニメ
5 脚注
6 参考資料
7 関連項目
8 外部リンク
経歴
プロ入りまで
高校進学に際しては、当時は岡山東商とともに2強と呼ばれていた岡山県立倉敷工業高等学校への進学を当初希望していた。しかし当時はまだ数回しか甲子園に出場していなかった岡山県立倉敷商業高等学校の野球部部長・角田有三教諭から「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて進学した。しかし星野が入学して以降の倉敷商はどんどんと力を付け、志望していた倉敷工以上の成績を残すようになった。
星野が3年生の時に、甲子園を目指して、1964年東中国大会決勝まで進んだが、鳥取県の米子南高校に敗れ、甲子園出場は叶わなかった[3]。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズに入る岡山東商・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の1年後輩にあたる。星野が卒業して松岡がエースとなった翌年も夏の県大会準決勝まで進んだが平松擁する岡山東商に日没引き分け再試合で敗れ、倉敷商は甲子園出場を逃している。当時広島東洋カープのエースだった池田英俊のピッチングフォームの分解写真を見て、自分のフォームを研究し、写真を通してではあるが高校時代の目標であり、恩師のような存在と記している[4]。
高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学[5]、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが[5]、倉敷商の矢吹怗一監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという[5]。野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振[6]。1968年度主将。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学や、谷沢健一、荒川尭らを擁する早稲田大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。
大学時代は監督・島岡吉郎の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。その反面、鉄拳制裁も辞さない島岡から殴られることがなかったという。星野曰く、「俺は要領がよかったから」とのことだが、島岡自身は「星野は殴ると理屈をこねそうだったから」と、星野を殴らなかった理由を語っている。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという[7]。
プロ選手時代
1968年のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。自身は阪神ファンであったが[8] 阪神と明治大学の仲が悪く阪神から指名された場合、社会人野球に行くこととなっていた。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。入団1年目は5月8日の巨人戦で黒江透修からサヨナラ二塁打、7月10日の滝安治からサヨナラ二塁打を打たれるも、49試合に登板し8勝を挙げる[8]。入団3年目の1971年に中日のエースナンバーである20へ変更した[8]。
1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍、チーム事情もあり、14年間の選手生活の中で、先発中心で起用されたのは5年ほどしかない[8]。現役通算で8回の二ケタ勝利(うち15勝以上4回)、2回の二ケタセーブをマークしている。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった[9]。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、最終戦となった第6戦目には弘田澄男に決勝タイムリーを打たれ、チームも2勝4敗で敗れた。
1977年は自身最多の18勝を挙げる[8]。
1978年は8月17日に大洋戦で福嶋久晃からサヨナラヒット、9月19日のヤクルト戦で船田和英、9月20日のヤクルト戦で杉浦亨から2試合連続でサヨナラ本塁打[10] を打たれた。
1981年からは投手コーチ補佐を兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。引退理由としては体力の限界もあったが監督の近藤貞雄と確執も要因となりリーグ優勝祝勝会の時点ではコーチ就任が濃厚と言われていたがコーチとしても残る事も無くチームを離れ、11月21日のファン感謝デーで「長い間ありがとうございました。私はついに燃え尽きました」と挨拶した[11] 同年の日本シリーズでは出場はなくコーチ補佐として出場したが西武ライオンズに2勝4敗で敗れた[12]。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている」と記している[13]。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった[14]。
ドラフトに際しては、巨人との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった[15]。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという[15]。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主催試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治(当時の巨人監督)から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著[要出典]に記している。王貞治には対戦成績195打数62安打、打率3割1分8厘、被本塁打は24本と打ち込まれた一方で、長嶋茂雄は111打数26安打、打率2割3分4厘に抑え込んでいる[16]。
巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし、阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した(星野自身も、試合途中で髙木守道に「こんなチームに勝たすことはない」とその無気力投球を咎められ、以後は気持ちを入れ替えて真剣に投げたという)[要出典]。
珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)[17]。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた[17]。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)[17]。
星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している[18]。近藤は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と記している[19]。
引退後
中日監督時代
1983年から1986年までNHKで野球解説者、日刊スポーツ[20]、Number[20] の野球評論家を務め、1985年には大塚範一、野中ともよとともにNHK総合テレビ『サンデースポーツスペシャル』の初代キャスターに就任[21]。
1986年シーズンオフの10月29日に同年途中で休養した山内一弘の後任として、中日の監督に就任。背番号は77(川上哲治が巨人監督としてこの背番号でV9を達成したことに肖ったもの)。NPB史上初の戦後生まれの監督となった[22]。球団からの監督要請を受ける時、「召集令状がきた」と感じたといい[23]、「笑ってください」と注文をつけてきたカメラマンに対し「これから戦場へ行くのだ。笑えるか」と真剣に怒ったというエピソードが存在する[23]。総合コーチに木俣達彦[23]、投手コーチに池田英俊[4]、二軍監督兼寮長に岡田英津也[24] を招聘した。就任後は谷沢健一に水面下で引退を勧告し[25]、谷沢は引退。ロッテから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。今中慎二、山崎武司、上原晃、音重鎮、大豊泰昭など主力級が3年間で入団する[26]。投手では川畑泰博、江本晃一、宮下昌己、打者では仁村徹、彦野利勝、小松崎善久、中村武志といった実績のない若手を次々と起用して成功した[27]。山本昌をアメリカ合衆国への留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手の宇野を二塁手に、捕手の中尾を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新する。特にレギュラー捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、試合中に星野に殴られた中村が鼻血を出してプレーしているということもあったという[要出典]。山本によると第一政権で抜擢された若手で鉄拳を浴びていないのはおそらく立浪和義ぐらいではないかと記している[28][29]。選手を怒鳴りまくりプレッシャーをかけ、星野曰く「俺のプレッシャーに負けるような奴が、ここぞの時に踏ん張れるか、そんな奴は要らねぇ」と述べている[30]。
1987年5月2日の広島戦では正田耕三のタッチプレーを巡り両軍乱闘し広島のコーチ伊勢孝夫と揉み合い回し蹴りして[31]、伊勢と共に退場処分となり[32]、現役通して初の退場となった。監督1年目の退場は宇野光雄、金田正一、ジョー・ルーツに次いで4人目[31]。
1988年4月19日の阪神戦(岡山球場)で宇野勝のタッチプレーの判定に抗議し二塁塁審の友寄正人にバカ野郎と暴言を吐き[31],退場処分[33]、2年連続で両リーグで最初の退場処分を受けている[31]。上記2試合の監督代行は木俣[33]。
監督一年目1987年は2年連続5位のチームを2位にした。開幕投手は杉本正を星野は起用したが、近藤貞雄はこれに対して「開幕投手の指名は“今年のエースはお前だ。シーズンを通して頼りにしてるぞ”という監督の意思表示だ。とすれば小松しかいない。それが杉本だった。杉本もいい投手だが、シーズン通して頼れる投手ではない」と述べている [34]。杉本は2本本塁打打たれ負け投手。打線も西本聖に抑えられた。監督としてのは初勝利は巨人戦の3戦目(勝ち投手は小松)。この年は仁村徹は規定打席に達しレギュラーになった。同年6月11日、熊本・藤崎台県営野球場での対巨人戦で、宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。王に「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのが当たり前じゃないですか。」と言い返した[31]。後年その際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している[35]。同年オフ大島康徳、平野謙、曽田康二を放出し、大宮龍男、田中富生、小野和幸を獲得した。巨人を自由契約となった仁村薫も獲得した。
1988年は小野、小松の先発2本柱が活躍したが完投数は12球団最少18だった。抑えの郭、鹿島忠、川畑の中継ぎ陣、米村明、山本昌、上原晃の若手投手陣に、彦野、立浪、ゲーリー・レーシッチ、落合、宇野、仁村、川又米利、中村の恐竜打線が好調で、1点差試合が34勝15敗を記録した。郭がMVP,、小野が最多勝、立浪が新人王を獲得した。西武ライオンズとの日本シリーズは1戦目、5戦目先発登板した小野、山本、杉本と先発投手が打ち込まれ、打線も4番落合、5番宇野が低迷し西武に1勝4敗で敗れた。西武の監督森祇晶は「星野監督は選手たちに相当にらみを利かせていた。勢いで公式戦を乗り切ったが、私は負ける相手ではない。中日は前年まで西武にいた(第一戦先発の)小野が、清原、に特大の一発を浴びた。(第1戦に)小松が来たらイヤだなと思っていた。」と見ていたと述べている[36]。中日生え抜きで優勝した監督は星野だけである。同年オフに巨人とのトレードで中尾孝義を放出し、西本聖を獲得した。監督1年目の開幕戦で西本のピッチングを見ていつか獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた[37]。
1989年は小松、郭、立浪と怪我人が続出し、前年最多勝の小野が振るわなかったが西本が20勝あげるも3位に終わる。
1990年は新人の与田剛が抑えで活躍し新人王獲得、落合2冠、新外国人のバンス・ローの活躍、今中初の二桁勝利もチーム防御率が5位と低迷し4位に終わり、監督生活初のBクラスに終わる。
1991年は開幕戦監督として初めて勝利し、オールスター前首位に立つも、失速し優勝した広島の3ゲーム差の2位。新人の森田幸一は抑えで活躍し球団初の2年連続で新人王輩出した。同年9月24日「健康上の理由」(表向きの理由であり、実際には夫人の白血病発症が大きく関係していた)で辞意を表明。辞任後は、1992年に中部日本放送(CBC)の客員解説者、1993年から1995年に再びNHK解説者を務め、並行して1992年から1995年まで中日スポーツ客員。また、沢村賞の選考委員を務めていた(1994年から1995年まで)。
1995年9月20日に中日への監督復帰が発表され[38]、同年オフに再任。直後に愛甲猛を無償トレードで獲得、更に前田幸長・村田勝喜も交換トレードで獲得。宣銅烈を獲得した[8]。第二次政権1年目は前年の5位から2位になった。同年は巨人に目の前で優勝を決められ監督としては初の相手球団の胴上げを見ることになった。
1996年、9月20日の対巨人戦(東京ドーム)の試合終了後引き揚げてくる審判団を持ち受け[39]、上本孝一審判員に「誰に頼まれた。公平にやれ」と暴言を吐き[39]、もみ合いになった際に田中俊幸審判員に蹴るという暴行を働いた[39]。翌日セ・リーグは星野に厳重戒告と制裁金100万の処分が科された[39]。同年オフレオ・ゴメスを獲得した[8]。
1997年1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことでチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。チーム打率リーグ最下位、チーム防御率5位と投打共に振るわなかった。同年オフ、関川浩一・久慈照嘉を交換トレードで獲得し、大豊泰昭・矢野輝弘を放出し、アロンゾ・パウエルは退団した。投手コーチの小松辰雄は退団し後任に宮田征典を招聘[40]、打撃コーチに水谷実雄、外野守備走塁コーチに二宮至、二軍監督には仁村徹、二軍投手コーチに梶本隆夫が就任した。外国人選手では李鍾範、サムソン・リーを獲得し、南渕時高も獲得、大学の後輩川上憲伸をドラフト1位で指名した。投手陣は肩の故障から伸び悩んでいた野口茂樹がエース級へ育ち[41]、14勝し最優秀防御率、川上も14勝で新人王、中継ぎ陣では落合英二が最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、新人の正津英志も活躍した。チーム防御率は12球団トップ。盗塁はリーグトップだったもの打率はリーグ5位に終わった。1998年は2位となった。明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩をFAで獲得した。宮田は一年で辞任し[42]、後任に山田久志が就任し[43]、内野守備走塁コーチには高代延博[44] を招聘した。ドラフトでは福留孝介、岩瀬仁紀が入団。1999年は、1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。昨年に引き続きチーム防御率は12球団一位。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズは前評判では中日圧倒的優位だったが[45]、1勝4敗で敗れた。
2000年、宣は引退し、サムソンは退団した。メルビン・バンチは最多勝、エディ・ギャラードは最優秀救援投手、岩瀬は2年連続で最優秀中継ぎ投手と投手陣のタイトルホルダーを多く輩出したものチーム防御率4.19でリーグ5位に低迷した。5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、立浪和義が自身への投球をストライクと判定されたことへの不満から球審を務めていた橘高淳を両手で突いて退場処分となり、立浪の退場が宣告された直後に星野は橘高に体でぶつかっていったため暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では二人のほか、別の審判員に蹴りを入れた大西崇之も退場処分となり、後日星野・立浪・大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。出場停止5日間となり監督代行はヘッドコーチの島野育夫が務めた。同年は2位、優勝した巨人に9勝18敗と大きく負け越した。2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラスに転落。広島以外の4球団に負け越した。井端弘和は規定打席到達。5位に終わった責任をとる形で同年9月25日辞任を表明し、記者会見で「成績不振が理由のすべてではない。初監督の時は5年、今回は6年目。同じ人間が長い間権力の座に座ることは、組織上好ましくない」などと述べた[46]。
中日のオーナーを長く務めた加藤巳一郎からの全面的に信頼を受けていた[47]。
著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している[48]。
監督時代、第一製薬(現:第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライス(田淵幸一・山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップス、ナショナル・シャーボなどのCMに登場[要出典]。
阪神監督時代
中日監督を退任した直後NHKから解説者としての打診を受けていたが[49]、2001年オフの12月17日に低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。背番号は中日監督時代と同じ77。ヘッドコーチには中日時代からの片腕的存在島野育夫[8]、打撃チーフコーチに田淵幸一[50] を招聘した。島野は10月に中日に二軍監督に就任し複数年契約しており、中日の交渉は難航、最終的には星野が中日のトップ白井文吾オーナー、西川順之助球団社長らと会い話をつけた(西川は最初難色を示し野崎も私が逆の立場なら難色を示してただろうと述べている)[51]。田淵が阪神のコーチ断った場合星野は阪神の監督を引き受けなかったと田淵に語っている[52]。
阪神と初交渉を控えた同年12月11日に巨人監督を勇退したばかりの長嶋茂雄とスポーツ報知の新年企画で対談した際に阪神のユニフォームを着るよう説得された。長嶋から「安芸キャンプでコーヒー飲ませてよ」と言われた際には返す言葉がなかったという。[53]。
星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した[54]。球団社長の野崎勝義も著書の中で星野新監督誕生させたのは野村克也さんの直言がキーワードになったと著書に記している[55]
星野は著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ[56]。野村さんといえばご存知ID野球[56]。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ[56]。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している[56]。
同年オフ、オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史を獲得した[57]。就任1年目の2002年には4年連続最下位だったチームを開幕からいきなりチーム史上2度目の7連勝を記録し、5月・6月首位を走ったが故障者が出始めて息切れ[58]、結果的に4位に終わる。同年オフには、広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らをトレードで獲得するなど、投打の大型補強を行った。首脳陣とフロント陣では一軍ブルペンコーチに西本聖[59]、一軍バッテリーコーチに達川光男[60]、二軍投手コーチに山口高志[61]、編成部顧問に岡田英津也、伊藤菊雄[62] を招聘した。
翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡、井川慶、アリアス、ジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠、赤星憲広、藤本敦士、吉野誠ら若手が急成長し首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たす[63] が、ダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。
しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年は野崎が覚えているだけで試合中4回倒れており、その都度島野ヘッドが敵陣にバレないよう指揮を執っていた[64]。7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮を島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという[要出典]。
日本シリーズ前日の10月16日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ[要出典]、シリーズ終了後の10月28日に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。星野は後任に田淵を推薦するが固辞した為[52]、守備走塁コーチの岡田彰布が昇格[65]。
2010年に行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布に倍以上の差をつけ1位になっている[66]。
阪神監督退任後
2004年1月1日に阪神のオーナー付シニアディレクター(SD)に就任した。また、同年には兵庫県芸術文化協会より「県勢高揚功労」の表彰を受けた[67]。
SDを務める傍ら、アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのテレビコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務める。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。また、特定の放送局と専属契約をしないフリーランスの野球解説者として各テレビ放送局のプロ野球中継に出演していた[要出典]。
2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタート(2008年閉鎖)。
2005年8月~9月にかけて同シーズンBクラスに低迷し、3年連続で優勝を逃していた巨人の次期監督候補として名前が挙がった。巨人の球団幹部が星野と水面下で複数回にわたり極秘接触し就任要請を行ったと報道されたが、同年9月10日に大阪市内のホテルで自ら会見し阪神残留を正式表明した。「老舗中の老舗チーム(巨人)の幹部の皆様からお褒めの言葉を頂く事はありがたい」としながらも正式な監督就任要請は「なかった」と否定し、“巨人・星野仙一”は幻に終わった。[68]。
2006年10月よりスタートした、日本テレビ系列のニュース番組『NEWS ZERO』のスペシャルコメンテーターへ就任。
北京五輪監督
2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。
北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した[69]。一方で、選手との意思疎通を欠いたことや、参加国が同一条件であるにも関わらず、日本と違うストライクゾーンや日本と違う午前中の試合を言い訳として挙げたことや、「批判は甘んじて受ける」と言いながら、帰国会見では「日本はすぐたたきにかかる。そんなことをしたら若い人が夢を語れなくなる。たたくのは時間が止まった人間だろう」といった発言が批判の対象となった[70]。
北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人監督の原辰徳が引き受けることとなった。
楽天監督時代
2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティ番組『星野仙一の熱血・仙一夜』がMBSラジオにて放送される。
同年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神退団を発表[71]。その後、同27日に宮城県仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った[72]。選手・監督通じて初めてパシフィック・リーグ加盟球団に所属することとなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。ヘッド兼打撃コーチに再び田淵を招き、バッテリーコーチには大学の後輩三輪隆、二軍コーチに仁村薫、関川、種田仁を招聘した[73]。メジャーリーグ経験者の岩村明憲や松井稼頭央を獲得。
初年度となった2011年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地・クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)が損壊した事もあり、公式戦開幕が2週間延期され、開幕当初は代替で阪神甲子園球場など関西地方でホーム試合を行なっていた。成績は仙台に戻ってからの5月以降に本拠地で5連敗するなど下降し、8月には7連敗で5位まで落ち込むが、同月後半には逆に7連勝するなどあって一時は3位に浮上し、オリックス、西武とのクライマックスシリーズ進出争いに加わったが、最終的には3位西武と3ゲーム差の5位に終わる。楽天の監督として日本野球機構の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたこの年のオールスター第3戦がKスタ宮城で開催されることになった。オフには創設当初から4番としてチームを牽引してきた山崎武司に星野自ら戦力外通告を行い退団させた。この年の山崎は故障で離脱し、2004年以来7年ぶりに規定打席を逃したものの統一球が導入され本塁打が減少する中でチームトップの11本塁打を打っていたが若返りを図るために戦力外を通告した。また、チームトップのフロントで星野の右腕的存在福田功[74]、スカウトで早川実[75]、二軍打撃コーチには田代富雄[76] を招聘した。
2012年5月11日、対オリックス7回戦(京セラドーム)において、投手出身監督[77]、及び戦後生まれの監督としては初となる監督通算1000勝(876敗42分、2012年5月11日当時)を達成した[78][79]。2004年の王貞治以来、史上12人目の記録となった。ちなみに翌12日も勝利し、自身の名「仙一」と同じ1001勝目となった際、「おーっ、2000勝まであと999勝か」とコメントして報道陣を笑わせた[80]。戦力外にした山崎、岩隈久志の退団に加え、前半戦は田中将大、松井稼頭央、嶋基宏、ルイス・ガルシアら主力の離脱が目立ち戦力低下が不安視されていた。しかし、釜田佳直、辛島航、枡田慎太郎、銀次などの生え抜きの若手を抜擢、リリーフだった美馬学を先発に転向させるなど、徐々に頭角を現す。これらの若手選手は「星野チルドレン」とも呼ばれた[81][82]。5月20日、福岡ソフトバンクホークスと入れ替わりで3位に浮上。その後も上位争いを続け、7月18日に球団創設8年目で初の前半戦を勝率5割以上、Aクラスターン入りの3位で終えた。後半戦は復帰したベテランが不調で引き分けを挟み、8連敗で5位に転落。8月中旬の西武戦では開幕戦以来となる同一カード3連敗を喫した。しかし9月に入ると勢いを取り戻し、7日からの西武戦で3連勝して4位に浮上。最終的に3位ソフトバンクと1ゲーム差の4位となった。最終戦に勝利し、勝率はちょうど5割となった。同年をもってヘッドコーチの田淵は解任されたが[83]、「楽天にオーナーと仲良くてデーブ大久保が来て、俺は彼にかき回された。星野が板挟みなるから身を引いた。(星野から)後でお前を守れなくてごめんと言われた」と述べている[52]。
2013年、星野がオーナーの三木谷浩史に昨年オフ食事した際に「外国人にカネを掛けないと勝てないですよ、それが野球の有効投資。強くなれば人気も出る」と直言し、球団社長の立花陽三が編成を担当していたアマ・スカウトグループマネジャー楠城徹ら五人を一斉解雇、野村克也の名誉監督を更新せず[84]。現役メジャーリーガーのアンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギー、斎藤隆を獲得し、ドラフトでは2位に則本昂大を指名し、その則本を開幕直前に行われたWBCに出場していた田中の疲労を考慮し開幕投手に抜擢した。4月19日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)の8回表二死一塁の場面で、ジョーンズの打席、二死一塁カウント1ボール2ストライクから成瀬善久の投じた外角低めいっぱいのストレートを見逃し三振と判定される。これを不服とし球審の橋本信治に暴言を吐いたとして2002年8月23日の対巨人戦以来3892日ぶりとなる退場処分を受けた(通算6度目、楽天監督就任後初の退場処分)。前半戦は球団初の首位で終えた。9月26日の対西武戦(西武ドーム)で球団史上初のリーグ優勝を達成した。異なる3球団をリーグ優勝させた監督は三原脩、西本幸雄に続き史上3人目。セ・パ両リーグ優勝に導いた監督は三原脩、水原茂、広岡達郎、野村克也、王貞治に続き史上6人目、2013年の巨人との日本シリーズでは4勝3敗で日本シリーズ制覇を達成し、楽天初と同時に自身初の日本一になった(自身唯一の日本一でもある)。66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録である。
2014年、5月26日に持病の腰痛が悪化、この日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を休養。同戦は一軍投手コーチの佐藤義則が指揮を執った[85][86]。その後の検査で難病(=特定疾患)の一種である腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症と診断され、翌27日、球団は星野の同日以降の休養を発表し、佐藤義則が監督代行を務めることを発表した[87]。その後手術を受け、無事に終了したことが6月17日球団から発表されている[88]。6月30日にはこの年監督として指揮を執るはずであった、オールスターゲームの出場を辞退、星野は総監督に就き、佐藤がオールスターゲームの監督代行をつとめることになった[89] が、7月2日付で楽天の監督代行に大久保博元がついたことから(佐藤は一軍投手コーチに専念)、オールスターゲームの監督はいったん白紙に戻された。NPBは星野にオールスターゲームの監督を要請し、7月3日に星野がオールスターゲームで指揮を執ることが発表したが[90]、7月12日に球団から体調の回復が間に合わないとして、指揮を辞退することが発表された[91]。最終的には、千葉ロッテマリーンズ監督伊東勤が監督を務めることになった。7月24日の楽天の全体練習から監督に復帰[92]、翌25日の対日本ハム戦(楽天Koboスタジアム宮城)から試合に復帰したが[93]、この年はチームは低迷。9月18日に今季限りでの監督退任を発表、同日行われた記者会見で星野は退任の理由を成績不振とこの年2カ月離れていたことを挙げている[94]。シーズン最終戦の10月7日の対オリックス戦に敗れ、最下位が確定。前年優勝チームの最下位は史上5度目で、星野は飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁、野村克也に次いで史上6人目の両リーグで最下位の監督となった[95]。
楽天監督退任後
2014年11月9日、楽天のシニアアドバイザー就任が発表された[96]。2015年9月、株式会社楽天野球団取締役副会長に就任[97](死去まで - [98] 参照)。
2017年1月16日、2017年度野球殿堂顕彰者(エキスパート表彰)に選出された[99]。
2016年7月に急性膵炎を発症した際に膵臓がんが発覚したが、星野の意向で病については一切公にされなかった。この時点で肺に転移しており、手術はせずに抗癌剤治療を受けた[100]。2017年11月28日と12月1日には自身の「野球殿堂入りを祝う会」に出席していたが、その後体調が悪化し、年が明けた2018年1月4日午前5時25分に死去した。70歳没。同月6日に楽天球団から正式に訃報が発表された[1][98]。楽天球団は、突然の訃報となったのは「星野の意向であったこと、人前で強気であることを貫き“星野仙一”のスタイルを最後まで全うしようとした結果である」として理解を求めた。星野の葬儀は1月6日に故人の生前の遺志で密葬として三重県津市で執り行われたという[101]。1月8日には楽天の本拠地である楽天生命パーク宮城に献花台が設置され、楽天ファンらが訪れ花を手向けた。この日の来場者は9527人に上ったという[102]。
星野が監督を務めた中日と阪神の両球団は、3月10日に阪神主催で実施された阪神甲子園球場での両チームのオープン戦を星野の追悼試合とし、半旗が掲げられた。阪神は星野の監督時代の背番号「77」を、中日は中日選手時代の「20」の背番号をつけた特別ユニホームでプレーした[103]。
星野のお別れの会を、楽天球団は同年3月19日にグランドプリンスホテル新高輪にて執り行い、会長兼オーナー三木谷浩史が謝辞と弔辞を読んだ[104]。一方、阪神球団は同月28日にハービスOSAKAでお別れの会を執り行った[105]。
さらに楽天は同月26日に、星野が監督時代につけていた背番号「77」を永久欠番にすると発表した[1][106]。
人物
愛称は「仙ちゃん」「仙さん」「セン」など。
小学4年生の時、姉に高校野球を見に連れて行かれたことをきっかけに野球を始める。後述の通り母子家庭で生活が苦しい中、母が生活費から1000円を捻出、仙一のグローブ購入に充てた[107]。
小学6年生の時には同じ学年の障害を持った友人を1年間毎日、おんぶして学校まで登校していたと自著で述べている[108]。
子供の頃から熱烈な阪神ファンで、阪神が負けた翌日は悔し紛れに巨人ファンの人と喧嘩した。
ボランティア活動に熱心で、選手には「人生の1%をボランティアに捧げ」と説いている。実際自身は毎年のように地元岡山の障害者施設に寄付を行っている。ボランティアの重要性は自著[要出典]でも述べている。1984年から岡山市にある福祉施設旭川荘に訪れティーバッティングなど、多くの野球用具を寄付した。旭川荘ではティーボールチームが発足し、星野の名を冠したティーボール大会が毎年11月に開催されている。倉敷で秋季キャンプをしているため星野自身もこの大会に出向いて選手を激励してる。
「今の若い者は」という言い方を嫌い、「今の若い者には若い者の良さがある。今の選手には今の選手なりの接し方があるんだよ」と述べている[109]。
上記のように卒業しても明治大学に熱い愛情を持っており携帯の着信メロディには明治大学校歌を使用していたという[110]。
現役時代・監督時代を通じて6回日本シリーズに挑戦しており、いずれも巨人出身監督と対戦し5回連続して敗退〈1974年(現役)金田正一(ロッテ)、1982年(現役)広岡達郎(西武)、1988年(監督)森祇晶(西武)、1999・2003年(監督)王貞治(福岡ダイエー)〉していたが、6回目の2013年(監督)原辰徳(巨人)で初優勝した。
グラウンドでは闘志を剥き出しにする激しい気性であったが、グラウンドを離れると気配りを欠かさない人物であった[111]。
監督として
監督としては「闘将」「燃える男」の異名を持つ程の熱血漢として知られ、時には「鉄拳制裁」と称して選手を殴るなど指導のために暴力を用いることも辞さなかった。特に、中日での監督時代は緩慢なプレーをした選手を容赦なく殴っており、中村武志はほとんど毎日のように殴られ、小島弘務は血だらけになった口元をタオルで押さえていたこともあったという[112]。1997年には、星野の行き過ぎた暴力行為を見かねたアロンゾ・パウエルから、「自分がそんなに強いと思うなら、私を殴ったらどうだ。救急車で病院行きになるのはあなたのほうだぞ。これ以上、ほかの選手を殴るのはやめてくれ!」と直接抗議を受けている[113]。
良い監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており[114]、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた[115]。週刊誌AERAは「マスコミを味方に付けた状況判断と手際のよさは天才的」と評し、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評する[116]。
山本昌は星野が中日の監督を務めていた頃を「要するに打たれたら、いつだって叱られた」と振り返っており、星野が試合後に行っていたミーティングにおいて自身は「叱られ役」であったと話している。一方で「言葉のフォローなんかしてくれない人だけど、僕を試合で使ってくれた」と感謝の意を述べてもいる[117]。
中日では2度、阪神・楽天では1度ずつリーグ優勝に導ているがすべて前年5位以下の低迷時に引き受けており、31年間の監督生活の中で毎年代(1988年、1999年、2003年、2013年)優勝監督になっているのは星野だけである[109]。
星野曰く「ワシはな、何と言うか完成されたチームを任されるのはいやなんや。中日時もそうやった。戦力を整備して、チームを立て直す。これに快感を覚えるんや」とのこと[118]。
選手の心をつかむ人心掌握術には定評があり、半面、選手は威圧的なその振る舞いを非常に恐れていたともいわれる[119]。
選手を入れ替えることが多く中日監督時代は第一次政権で39人放出し28人を入団させ、第二次政権でも平均9人を放出し[120]、阪神監督時代の2002年オフには球団に選手70人のうち3分の1は入れ替えないとダメだと述べ、入れ替わった選手は27人を数えた[121]。
阪神の球団社長だった野崎勝義は「戦力を現場に与えるのはフロントの仕事である。星野監督はトレードもFA選手の獲得交渉も、自ら出馬してまとめてしまう。試合での存在感はもとより、コーチや選手を集める能力が秀でていた。優勝するチームを作れる。GM的な監督であった。」と著書の中で記している[121]。
一方、上記のように中日監督時代に2度、阪神監督時代に1度リーグ優勝しながら日本シリーズではいずれも敗退し、北京五輪でもメダルを逃したことで「短期決戦に弱い」との評価もされていた[116] が、楽天監督としてリーグ優勝した2013年にはクライマックスシリーズを4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で、日本シリーズを4勝3敗でそれぞれ制し、自身初の日本一となった。
中日監督時代より数多くの激しい抗議をしていたが、元セ・リーグ審判員の谷博によればほとんどがファンを盛り上げるための演技で、審判に断りを入れてから開始していたという。監督として中日(4回)、阪神(1回)、楽天(1回)合わせて6度の退場処分を受けているが現役時代に退場になった事は1回も無い。
また中日監督時代から先述の中村武志を初めとした高卒ルーキーの抜擢や若手の育成に定評がある[122]。
- 中日監督時代
1987年にルーキーの近藤真一を先発に抜擢。近藤はプロ野球史上初となる初登板・初先発ノーヒットノーランを達成した[123]。結果的に現役生活は6年だったが、18歳11か月での史上最年少記録で月間MVPを受賞。翌年も8勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。
1988年は高卒ルーキーの立浪和義を、当時は打撃に難があったものの守備力を買い、遊撃手としてレギュラーに抜擢。開幕戦でも先発「2番・遊撃手」でフル出場(高卒新人としては球団史上唯一)させる[124]。打率.223と低調ながらも、辛抱強く起用し続けレギュラーシーズン110試合出場、22盗塁、21犠打を記録し、リーグ優勝に貢献した他、守備・走塁技術を高く評価されて新人王と高卒新人初のゴールデングラブ賞を受賞した。後にミスタードラゴンズと呼ばれるまでに成長。
山本昌は入団4年目まで一軍登板4試合、0勝だったが、入団5年目の1988年2月、業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い若手選手5人と共に野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる[125]。実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために選手を派遣する必要があり、その年の戦力にならない選手が選ばれていたが、星野は山本については「手足は長いし、体も大きい。本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一抹の期待を掛けられてのものだった。山本はベロビーチで腐りかけていた野球への情熱を取り戻し、先発陣の柱に君臨、防御率1点台で1A のオールスターにも文句なしで選ばれた。帰国後に5勝を挙げてリーグ優勝に貢献。その後200勝を達成したほか、最多奪三振、最優秀防御率、沢村賞など投手タイトルのほとんどを獲る大投手となった。
中村武志は1986年のシーズンオフにはフロントの整理対象選手に挙げられていたという。星野は、ドラフト1位選手でありながら高卒2年での戦力外に納得いかず、当時のバッテリーコーチの加藤安雄(倉敷商業高校、明治大学の後輩)に「壊れてもいいからとにかく練習させろ」と指示した。中村は2001年のシーズンオフに横浜に移籍するまで、中日の正捕手として活躍し、捕手として規定試合数出場し、盗塁阻止率5割以上を2度記録した数少ない選手となった。
- 西武とのトレードで獲得した小野和幸は1988年投の柱として活躍し、最多勝を獲得、同年のリーグ優勝に貢献。巨人とのトレードで獲得した西本聖も小野同様最多勝を獲得しBクラス転落を食い止めたことから星野がトレードで獲得した選手は活躍することが多い[126]。
1999年は新人の福留孝介を積極的にスタメンに起用し、また福留も2割8分4厘、16本塁打とこれによく応え、新人としては上々の成績を収めリーグ優勝に貢献した。しかし三振数リーグ1位を記録するなど粗さも目立ち加えて守備には難があった。9月4日の広島市民球場での広島戦、0-0で迎えた9回裏二死一・二塁の場面には左翼手の守備に就いていたがフライ性の打球を落球。ランナーを返しサヨナラ試合にした。この試合を始め、ペナントレースや日本シリーズでも敗因に繋がるミスが続出し、試合終盤は交代させられた。その後、福留はゴールデングラブ賞を4回受賞する球界屈指の外野手に成長した[127][128]。- ファンからの「大豊、少しは打て! この給料泥棒!」というヤジに対して、ベンチで「その通りじゃ!」と叫んだ。また、1988年のシーズンが始まって2カ月が過ぎた頃、ミーティングで「落合! 何月だと思っとるんや!」と調子の上がらない落合を叱り飛ばしたこともある[129]。
- 半面、前述の近藤のほか上原晃、与田剛や1988年に西武から移籍していきなり最多勝に輝き同年のリーグ制覇に貢献した小野のように、酷使によって好調を持続できず結果的に故障等を発生させて短命に終わるケースも目立った。
- 阪神監督時代
2002年、前任の野村克也に才能を認められながらも伸び悩んでいた井川慶を開幕投手に抜擢。3-1で勝っていたが9回裏、松井秀喜のセンター前と清原和博の内野安打で無死一、二塁のピンチを迎える。変えるべきか投手コーチの佐藤義則に相談されたが星野は振り向きもせず「勝っとるんや。そのままいけっ」とマウンドに行こうともせず続投させた。井川は後続を抑えて完投勝利。206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。井川は翌年、リーグ最多の20勝を達成してリーグ優勝に貢献したほか、2005年以外毎年200イニングを投げ、5年連続二桁勝利を挙げて日本を代表するエース投手となる。星野は「普通、ピッチャーはホームランを打たれると気後れが出てスピードが3,4キロ落ちるけどこの日の井川にはそれがなかった。4回に清原に一発を打たれても臆することなく、8回まではヒット1本だ。9回の松井のセンター前もポテンヒットだったし、清原のヒットも内野への当たり損ねや。ピンチだからってバタバタする必要はなかった」と振り返っている[130]。
2003年に金本知憲がFAで広島から移籍。春季キャンプ中、星野は事あるごとに金本・桧山進次郎・濱中治の3人の外野手の名を挙げ、俊足の外野手として頭角を現していたものの、前年度に骨折で3か月以上欠場し、前半戦をほぼ棒に振っていた赤星憲広に対しては「赤星は控えで、代走要員」とコメント。キャンプにおいて赤星は必死に存在をアピールした[131]。実際には星野の構想の中で赤星の中堅手レギュラーは確定しており[131]、「赤星はガンガン言って、向かってこさせて伸びるタイプだから、あえてそういう発言をした」ものだった。赤星は5年連続盗塁王を獲得するなどリーグを代表する選手に成長した。
親族
- 父・仙蔵は1898年に兵庫県神戸市で生まれ、岡山県邑久郡長船町(現:瀬戸内市)で育つ。もともとは大樫姓で、正田(まさだ)家の養子となった[132][133]。後に名古屋市に出て航空技術者となり[134]、三菱重工業名古屋航空機製作所(三菱自動車工業の前身)に勤めていた。1943年、当時の岡山県児島郡福田町水島に三菱重工業水島航空機製作所が開設されると工長に昇格し、家族そろって郷里の岡山県に戻り福田町に移り住んだ。仙一が誕生する約3か月前の1946年10月、脳腫瘍により48歳で亡くなっている[135]。なお福田町は1953年6月1日付で倉敷市に編入されている。
- 母・敏子は1912年に星野嘉市(尾張藩の藩医・浅野春道の曾孫)・まき夫妻の娘として愛知県幡豆郡に生まれ、豊橋市で育つ。2歳のころに母・まきが病死し、父・嘉市とともに上京して浅草の紙問屋の娘となったが、関東大震災で損害を受けたため名古屋市に避難した[132][133]。名古屋市立第二高等女学校(名古屋市立向陽高等学校の前身の1つ)を出て、名古屋市内の病院で看護婦を勤め、1935年に敏子が勤務する病院に入院していた仙蔵と出会い結婚した(ただし、双方とも後継ぎだったため入籍はしていない)[132][133]。仙蔵が亡くなった後の敏子は、農家の手伝いなど力仕事を経て三菱重工水島工場(のちに三菱自動車水島工場)の寮母として働く傍ら、女手一つで仙一と2人の姉を育てた[136][137]。「最後に生まれた子供が(母方の)星野姓を継ぐ」という条件で結婚を認められたため、末っ子の仙一が星野姓を継ぐことになった[132][133]。仙一が阪神監督としてリーグ優勝する2日前の2003年9月13日、91歳で亡くなった。
- 姉2人は仙一と実の姉弟でありながら姓が違い、結婚まで父方の正田姓を名乗っていた[132][133]。
- 亡妻の扶沙子は、来栖三郎の孫(つまり星野から見れば来栖は義理の祖父に当たる)で[138]、慶應義塾大学卒。妻との間に2人の娘を儲けた[139]。次女が結婚する際、夫の実家から「星野家が途絶えるのは惜しい」と言うことで、次女の夫が星野家に婿養子に入ることを提案された。仙一もこれを受け入れたため、現在は次女の夫が星野の姓を継いでいる[140]。
筒井壮は甥[141][142]。
交友関係
野球関係では、中日時代の先輩にあたる板東英二、東京6大学時代の同学年生である田淵幸一・山本浩二(二人は法政大学)などとの親交が有名。北京オリンピック野球日本代表では田淵・山本がコーチとして入閣したほか、2010年に星野が楽天監督となった際には田淵をヘッドコーチに招聘した。田淵は「仙ちゃん」と呼んでいたが、阪神の監督、コーチの関係になって以降は「監督」と呼んでいた[52]。
歌手の小田和正とは現役時代から[143] 30年来の友人で「仙ちゃん」、「和正」と呼ぶ仲で星野が楽天監督時代の2013年4月2日の本拠地開幕戦(対オリックス戦)では小田が始球式を務めたり[14]、笑っていいとも!のテレフォンショッキングでは小田からの紹介で1984年2月15日に出演した[144]。
元三井住友FG・日本郵政社長の西川善文、ファッションデザイナーのコシノヒロコと交友があった。星野の大阪後援会では西川が会長、コシノが副会長(婦人部部長)を務めていた[145]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969 | 中日 | 49 | 16 | 6 | 1 | 1 | 8 | 9 | -- | -- | .471 | 754 | 187.2 | 157 | 24 | 45 | 3 | 9 | 99 | 0 | 1 | 72 | 65 | 3.12 | 1.08 |
1970 | 41 | 24 | 6 | 1 | 0 | 10 | 14 | -- | -- | .417 | 835 | 205.0 | 172 | 19 | 63 | 4 | 4 | 146 | 3 | 0 | 90 | 83 | 3.64 | 1.15 | |
1971 | 35 | 6 | 0 | 0 | 0 | 9 | 5 | -- | -- | .643 | 419 | 103.2 | 99 | 11 | 20 | 2 | 1 | 72 | 0 | 0 | 46 | 40 | 3.47 | 1.15 | |
1972 | 48 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 8 | -- | -- | .529 | 404 | 98.2 | 71 | 12 | 39 | 9 | 5 | 70 | 1 | 0 | 33 | 22 | 2.01 | 1.11 | |
1973 | 44 | 15 | 7 | 1 | 3 | 16 | 11 | -- | -- | .593 | 676 | 166.0 | 134 | 16 | 55 | 9 | 3 | 96 | 2 | 1 | 57 | 56 | 3.04 | 1.14 | |
1974 | 49 | 17 | 7 | 1 | 1 | 15 | 9 | 10 | -- | .625 | 758 | 188.0 | 149 | 19 | 50 | 8 | 7 | 137 | 3 | 0 | 67 | 60 | 2.87 | 1.06 | |
1975 | 40 | 26 | 6 | 3 | 1 | 17 | 5 | 4 | -- | .773 | 883 | 217.2 | 208 | 20 | 48 | 9 | 11 | 112 | 2 | 0 | 71 | 67 | 2.77 | 1.18 | |
1976 | 20 | 20 | 6 | 3 | 1 | 10 | 6 | 0 | -- | .625 | 557 | 132.2 | 141 | 20 | 26 | 0 | 8 | 60 | 1 | 1 | 64 | 58 | 3.93 | 1.26 | |
1977 | 42 | 30 | 13 | 3 | 1 | 18 | 13 | 5 | -- | .581 | 1029 | 245.2 | 245 | 26 | 71 | 2 | 12 | 125 | 4 | 0 | 105 | 96 | 3.52 | 1.29 | |
1978 | 34 | 9 | 2 | 0 | 0 | 5 | 8 | 14 | -- | .385 | 404 | 92.0 | 106 | 10 | 36 | 6 | 2 | 47 | 0 | 0 | 55 | 50 | 4.89 | 1.54 | |
1979 | 28 | 25 | 4 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 665 | 154.1 | 168 | 29 | 51 | 3 | 7 | 85 | 1 | 0 | 90 | 80 | 4.67 | 1.42 | |
1980 | 29 | 22 | 4 | 1 | 0 | 6 | 12 | 1 | -- | .333 | 573 | 129.2 | 143 | 25 | 44 | 3 | 6 | 70 | 2 | 1 | 79 | 73 | 5.07 | 1.44 | |
1981 | 23 | 23 | 4 | 0 | 0 | 10 | 9 | 0 | -- | .526 | 602 | 142.0 | 152 | 20 | 37 | 4 | 4 | 69 | 3 | 0 | 67 | 62 | 3.93 | 1.33 | |
1982 | 18 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 303 | 66.0 | 77 | 15 | 21 | 0 | 3 | 37 | 0 | 0 | 43 | 39 | 5.32 | 1.48 | |
通算:14年 | 500 | 243 | 66 | 15 | 8 | 146 | 121 | 34 | -- | .547 | 8862 | 2128.2 | 2022 | 266 | 606 | 62 | 82 | 1225 | 22 | 4 | 939 | 851 | 3.60 | 1.23 |
- 各年度の太字はリーグ最高
打撃成績
654打数134安打(.205)15本 59打点
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 | チーム 打率 | チーム 防御率 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | 中日 | 2位 | 130 | 68 | 51 | 11 | .571 | 8.0 | 168 | .265 | 3.64 | 40歳 |
1988年 | 1位 | 130 | 79 | 46 | 5 | .632 | (12.0) | 131 | .258 | 3.20 | 41歳 | |
1989年 | 3位 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 15.5 | 149 | .256 | 3.68 | 42歳 | |
1990年 | 4位 | 131 | 62 | 68 | 1 | .477 | 26.0 | 162 | .264 | 4.26 | 43歳 | |
1991年 | 2位 | 131 | 71 | 59 | 1 | .546 | 3.0 | 178 | .262 | 3.59 | 44歳 | |
1996年 | 2位 | 130 | 72 | 58 | 0 | .554 | 5.0 | 179 | .278 | 4.01 | 49歳 | |
1997年 | 6位 | 136 | 59 | 76 | 1 | .437 | 24.0 | 115 | .243 | 4.33 | 50歳 | |
1998年 | 2位 | 136 | 75 | 60 | 1 | .556 | 4.0 | 100 | .248 | 3.14 | 51歳 | |
1999年 | 1位 | 135 | 81 | 54 | 0 | .600 | (6.0) | 120 | .263 | 3.39 | 52歳 | |
2000年 | 2位 | 132 | 69 | 63 | 0 | .523 | 8.0 | 111 | .266 | 4.19 | 53歳 | |
2001年 | 5位 | 140 | 62 | 74 | 4 | .456 | 15.0 | 98 | .253 | 3.48 | 54歳 | |
2002年 | 阪神 | 4位 | 140 | 66 | 70 | 4 | .485 | 19.0 | 122 | .253 | 3.41 | 55歳 |
2003年 | 1位 | 140 | 87 | 51 | 2 | .630 | (14.5) | 141 | .287 | 3.53 | 56歳 | |
2011年 | 楽天 | 5位 | 144 | 66 | 71 | 7 | .482 | 23.5 | 53 | .245 | 2.85 | 64歳 |
2012年 | 4位 | 144 | 67 | 67 | 10 | .500 | 7.5 | 52 | .252 | 2.99 | 65歳 | |
2013年 | 1位 | 144 | 82 | 59 | 3 | .582 | (7.5) | 97 | .267 | 3.51 | 66歳 | |
2014年 | 6位 | 104 | 47 | 57 | 0 | .451 | 17.0 | 78 | .255 | 3.97 | 67歳 | |
通算:17年 | 2277 | 1181 | 1043 | 53 | .531 | Aクラス10回、Bクラス7回 |
- 2000年、出場停止5日間の3試合(1勝2敗)は通算成績に含まない(監督代行は島野育夫)
- 1987年から1996年は130試合制、1997年から2000年は135試合制(引き分けは再試合)、2001年から2004年は140試合制、2007年から144試合制
太字は日本一- 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
- 2014年、病気療養期間59日間の40試合(17勝23敗)は通算成績に含まない(監督代行は佐藤義則→大久保博元)
- ポストシーズン
年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
1988年 | 中日 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ (パ・リーグ1位) | 1勝4敗=敗退 |
1999年 | 日本シリーズ | 福岡ダイエーホークス (パ・リーグ1位) | 1勝4敗=敗退 | |
2003年 | 阪神 | 日本シリーズ | 福岡ダイエーホークス (パ・リーグ1位) | 3勝4敗=敗退 |
2013年 | 楽天 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ(※1) | 千葉ロッテマリーンズ (パ・リーグ3位) | 4勝1敗=日本シリーズ進出(※2) |
日本シリーズ | 読売ジャイアンツ (セ・リーグ1位) | 4勝3敗=日本一 |
- 勝敗の太字は勝利したシリーズ
- ※1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
- ※2 アドバンテージの1勝を含む
- オリンピックにおける野球競技
2008年に行われた北京オリンピック野球競技では、監督として日本代表を指揮した。
年度 | 大会名 | チーム名 | 勝敗 |
---|---|---|---|
2008年 | 北京オリンピック | 日本代表 | 4位 |
アジア予選 決勝リーグ
- 12月1日 ○ 10-0 フィリピン
- 12月2日 ○ 4-3 韓国
- 12月3日 ○ 10-2 台湾(チャイニーズ・タイペイ)
- 予選リーグ
- 8月13日 ● 2-4 キューバ
- 8月14日 ○ 6-1 台湾
- 8月15日 ○ 6-0 オランダ
- 8月16日 ● 3-5 韓国
- 8月18日 ○ 1-0 カナダ
- 8月19日 ○ 10-0 中国
- 8月20日 ● 2-4 アメリカ
- 8月13日 ● 2-4 キューバ
- 準決勝
- 8月22日 ● 2-6 韓国
- 3位決定戦
- 8月23日 ● 4-8 アメリカ
タイトル
最多セーブ投手:1回 (1974年) ※セ・リーグの初代最多セーブ投手
最高勝率:1回 (1975年) ※当時連盟表彰なし[146]
表彰
沢村賞:1回 (1974年)
月間MVP:2回 (1975年9月、1977年8月)
正力松太郎賞:2回 (2003年、2013年)- パ・リーグ最優秀監督賞 (2013年)
報知プロスポーツ大賞特別功労賞 (2003年)
記録
- 初記録
- 初登板・初先発:1969年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、2回3失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:1969年5月5日、対広島東洋カープ6回戦(福井県営球場)、6回2/3を1失点
- 初奪三振:同上、1回裏に山本浩司から
- 初完投:1969年5月22日、対大洋ホエールズ9回戦(川崎球場)、8回3失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1969年9月3日、対広島東洋カープ20回戦(中日スタヂアム)、9回2失点
- 初完封勝利:1969年9月14日、対アトムズ24回戦(中日スタヂアム)
- 初セーブ:1974年4月22日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、8回裏2死に2番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 節目の記録
- 100勝:1977年7月8日、対阪神タイガース12回戦(ナゴヤ球場)、9回3失点完投勝利 ※史上69人目
- 1000奪三振:1979年6月26日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、1回裏にマイク・ラインバックから ※史上57人目
- 500試合登板:1982年10月12日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤ球場)、8回表に6番手で救援登板、1回3失点 ※史上50人目
- その他の記録
オールスターゲーム出場:6回 (1969年、1974年 - 1976年、1979年、1981年)
背番号
22 (1969年 - 1970年)
20 (1971年 - 1982年)
77 (1987年 - 1991年、1996年 - 2003年、2011年 - 2014年)
関連情報
野球以外での表彰
- ファッション関連
日本メガネベストドレッサー賞(スポーツ界部門:1993年)
ベストドレッサー賞 (スポーツ・芸能部門:2003年)
- その他
新語・流行語大賞 トップテン (2003年、「勝ちたいんや!」)
ハッピーハンド (2003年) ※手形を寄贈[147]
倉敷市市民栄誉賞:2回 (2003年、2013年)- 倉敷市スポーツ特別功労章 (2014年)[148]
- 倉敷市文化章 (2017年11月) 贈呈者は倉敷市長の伊東香織[149]
岡山県スポーツ特別顕賞:1回 (2017年11月) 贈呈者は岡山県知事の伊原木隆太[150]
ベスト・ファーザー賞 in 関西 特別部門 (2018年) ※没後受賞
著書
単著
- 『星野仙一の巨人軍と面白く戦う本』(文藝春秋、1983年4月)
- 『星野仙一のすばらしき野球野郎』(日刊スポーツ出版社、1983年9月)
- 『野球スペシャル』(文藝春秋、1986年7月)
- 『燃えて勝つ:我れ再び巨人と闘わん』(実業之日本社、1987年1月、ISBN 4408130826)
- 『星野仙一のインターネット熱闘譜』(ごま書房、1996年11月)
- 『燃えた、信じた、勝った!:'99・V奪回までの「炎のことば」』(東京新聞出版局、1999年11月、ISBN 4808306921)
- 『ハードプレイ・ハード―勝利への道』(2000年3月、文藝春秋)
- 『勝利への道』(2002年4月、文春文庫、文藝春秋、前出の『ハードプレイ・ハード―勝利への道』の文庫化及び一部改定版)
- 『迷ったときは、前に出ろ!:タイガース再生への道、険しくとも』(2002年10月、主婦と生活社)
- 『星野仙一闘将日記』(2003年9月、実業之日本社)
- 『完全燃焼:闘将日記完結編』(2003年11月、実業之日本社)
- 『夢:命を懸けたV達成への647日』(2003年10月3日、角川書店)ISBN 978-4-0488-3851-1
- 『人を動かす組織を動かす』(2004年7月、NHK人間講座、NHK出版)
- 『シンプル・リーダー論:命を懸けたV達成への647日』(2005年4月、文春文庫、文藝春秋)
- 『やるだけやったら、それでいい。:愛と勇気のリーダー語録』(2007年3月2日、PHP研究所)
- 『星野流』(2007年11月8日、世界文化社/改訂版、2011年1月28日)
- 内容の大半が『ハードプレイ・ハード―勝利への道』と重複。
共編著
- 『闘将・星野ドラゴンズV1五つの秘密』(中日番記者グループ共著、未来出版、1988年10月、ISBN 4943901190)
- 『人を動かす人を活かす』(山本七平共著、かんき出版、1989年1月、ISBN 4761252545)
- 『こころのキャッチボール:星野仙一「夢」対談』(編著、エフエー出版、1993年10月、ISBN 4872080491)
- 『選手たちよくやった!』(NHK衛星ハイビジョン局「星野仙一」取材班共著、2003年10月、日本放送出版協会)
出演
テレビ番組
プロ野球中継(解説)
NHKプロ野球(NHK総合orNHK衛星第1)
CBCテレビプロ野球中継(CBC客員解説者だった1992年に出演)
元気を日本に 日本プロ野球(日本テレビ系列。『1球の緊張感 THE LIVE』時代の2004年から2010年までの間、不定期で出演[151][152])
- 次の瞬間、熱くなれ。THE BASEBALL(広島テレビ 〈日本テレビ系列、ミヤギテレビとの2局ネット〉。楽天監督退任後の日テレ系列の全国中継への出演は無いものの、楽天戦のローカル中継には本数契約で出演していた)
サンデースポーツスペシャル(NHK総合。1985年4月の開始から1986年11月まで司会者として出演し、2015年4月はマンスリーキャスターとして出演)
サンデードラゴンズ(CBC客員解説者の1992年に出演、中日監督時代も出演したことがある)
NHKスペシャル
- 「阪神を変えた男〜星野監督・改革の舞台裏〜」 (2003年9月20日)※死去後の2018年1月11日『BS特集』にて再放送。
- 「監督 星野仙一 知られざる戦略〜北京五輪への道〜」(2007年12月8日)[153]。
- 「東北楽天 被災地に誓った初優勝」(2013年10月2日)
第54回NHK紅白歌合戦(NHK、2003年12月31日)
NHK人間講座(NHK教育、2004年8月-9月期) - 月曜枠に於いて、「人を動かす 組織を動かす」をテーマに講師を務める。
BS特集「大リーグを復活させた男たち~星野仙一・アメリカ野球紀行~」(NHK BS1、2005年7月9日)
課外授業 ようこそ先輩(NHK総合、2005年1月30日)- 居酒屋の星野仙一(NHK BS2)ゲスト、篠田正浩、小沢征爾、山本寛斎、小田和正、渡辺謙。小田の回は大豊泰昭が経営する台湾料理店で収録した。
- 東北を熱く 星野監督 4年間を語る(NHK仙台、2014年10月7日)
ファミリーヒストリー (NHK総合、2015年5月22日、6月5日) ※死去後の2018年1月10日に再放送。
NEWS ZERO(日本テレビ系列)- 2006年の番組開始から楽天監督就任までは、スペシャルキャスターとして不定期で出演。監督就任後も、プロ野球シーズンには、スポーツコーナーで試合終了後のコメントを「闘将、語る。Hoshino Voice」とのタイトルで放送することがある。
世界に誇る50人の日本人 成功の遺伝史(日本テレビ、2013年12月30日) - スペシャルゲスト
明石家ジャパン(ABC・テレビ朝日系列)
徹子の部屋(テレビ朝日系列、2010年1月8日[154] 他)
SMAP×SMAP(関西テレビ・フジテレビ系列、2003年12月29日) - 「ビストロSMAP」ゲスト
ボクらの時代 (フジテレビ、2017年9月3日) -「星野仙一×ビートたけし×松尾雄治」の対談。三人の母校である明治大学の駿河台キャンパスで行われた。
日経スペシャル カンブリア宮殿「強いリーダーとは?“カミナリ親父”星野仙一が吠える!」(テレビ東京系列、2008年4月7日)
他多数
ラジオ番組
- プロ野球中継(解説)
- NHKプロ野球(NHKラジオ第1)
CBCラジオナイター(CBCラジオ。CBC客員解説者だった1992年に出演)
星野仙一の熱血・仙一夜(MBSラジオ。パーソナリティ)
ドラ魂KING(CBCラジオ) 2017年12月12日にゲスト出演。生前最後のラジオ生出演となった[155]。
CM
郵政省(現・日本郵便)- レタックス(1986年)
大京観光(現・大京) - ライオンズマンション(1986年)- 大和證券
- キリンビール
- キリンビバレッジ
- 日刊スポーツ
- アメリカンホームダイレクト
- 上新電機
- 佐鳴学院
- 佐鳴予備校
セントラル警備保障(CSP)(2008年~未定)- イオン
- サトウ製薬
- 関西電力
- ハウス食品
- フィリップス
第一製薬(現・第一三共ヘルスケア) - センロック
松下電器(現・パナソニック) - ディスクロード(アルフレッド・ヒッチコックと共演)
ディスコグラフィ
- しのび逢い(作詞:山口洋子・作曲:小谷充) JASRAC作品コード:040-5205-6
- 街の灯が揺れる(作詞:山口洋子・作曲:曽根幸明) JASRAC作品コード:080-5886-5
星野仙一役を演じた俳優・声優
ドラマ
東幹久:泣くなセン!燃える男 星野仙一物語(1988年12月31日、TBS系)
石橋貴明:星野仙一物語 〜亡き妻へ贈る言葉(2005年1月2日、TBS系)
アニメ
土師孝也:『勝利投手』
大塚明夫:『ミラクルジャイアンツ童夢くん』
脚注
- ^ abc“星野仙一氏死去 死因はすい臓がん 楽天が発表「最期は昼寝でもしているような安らかな表情」”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2018年1月6日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/06/kiji/20180106s00001173071000c.html 2018年1月6日閲覧。
^ 星野仙一氏、70歳で死去 選手として監督として球史に刻んだ足跡 - 野球ニュースサイト「full-count」、2018年1月6日発信、同年同月12日閲覧。
^ 当時は現行の1都道府県に1校(北海道と東京都は2校)と言う出場枠の制度ではなく、一部地域では隣接の都道府県との合区となっていた。現行の制度となったのは1978年からである。
- ^ abハードプレイ・ハード―勝利への道、2000年、文藝春秋、P75
- ^ abc夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P29
^ 『明治大学野球部 - 「人間力野球」の軌跡』(ベースボール・マガジン社)P21。 ISBN 978-4583621197
^ 夢 命を懸けたV達成への647日、P37
- ^ abcdefgh、『週刊プロ野球データファイル』2011年1号、ベースボール・マガジン社、P21-P24
^ “【10月12日】1974年(昭49) 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明” (2011年10月12日). 2018年1月6日閲覧。
^ 東京ヤクルトスワローズ球団アーカイブサヨナラ本塁打
^ プロ野球回顧録(6)引退特集 引き際の美学 2017年 01 月号 [雑誌]: ベースボールマガジン 別冊、2016年、48頁
^ [1]
^ 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P37-P38
- ^ ab“小田和正 仙ちゃんおめでとう”. デイリースポーツ (2013年11月3日). 2013年11月3日閲覧。
- ^ ab週刊ベースボール2013年12月2日号 P36
^ ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」
- ^ abc“【8月26日】1981年(昭56) 宇野勝ヘディング事件 星野仙一が怒ったもう一つの理由”. スポーツニッポン (2007年8月26日). 2012年9月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年8月23日閲覧。
^ 稲尾については、『神様、仏様、稲尾様』(日経ビジネス人文庫版)よりP229-234「気持ちで投げる星野仙一」を参照。
^ 近藤貞雄「野球はダンディズム」朝日新聞社、1988年、p66
- ^ ab夢 命を懸けたV達成への647日、P110
^ “「サンデースポーツ」の歴代キャスター”. NHKアーカイブス (2009年12月11日). 2018年1月6日閲覧。
^ 星野と同じ年にロッテの監督に就任した有藤道世は星野と同学年
- ^ abc木俣達彦著、ザ・捕手~私が出会った監督・選手たち、中日新聞社、2011年、P267
^ ハードプレイ・ハード 勝利への道、P45
^ ベースボールマガジン2015年3月号、P18、指揮官だってルーキーだ 監督1年目の群像
^ ザ・捕手~私が出会った監督・選手たち、P274
^ 「野球はダンディズム」、p149
^ 山本昌著、奇跡の投手人生50の告白、ベースボールマガジン社、P168ー169
^ 週刊文春2015年12月31日、2016年1月7日号、「阿川佐和子のこの人に会いたい」阿川「歴代の監督さんはどうでしたか?」山本「星野監督にはボコボコに殴られました。引退後はすぐ報告しましたが」と述べている
^ ザ・捕手~私が出会った監督・選手たち、P277
- ^ abcdeサンケイスポーツ 1988年4月20日7版
^ 「野球はダンディズム」、p82
- ^ ab木俣達彦著、ザ・捕手~私が出会った監督・選手たち、中日新聞社、2011年
^ 『野球はダンディズム』、1988年、65、66頁
^ サンケイスポーツ 1991年12月30日 10版
^ Hawks vs.Dragons99日本シリーズ/旧敵将森氏、両監督を語る◆王監督/選手の輪に入った、星野監督/激情家が我慢した 日刊スポーツ
^ 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボール・マガジン社、2001年、116頁
^ 当時、中日はシーズン途中で高木守道が休養、代行を務めたヘッドコーチの徳武定祐も同じくシーズン途中で解任となり、シーズン終了までは二軍監督の島野育夫が監督代行代理を務めていた。
- ^ abcd日本プロ野球事件史―1934ー2013、ベースボール・マガジン社、2013年、P100
^ 伊藤和雄、咲本淳一著、勝利護身の神星野仙一 文芸社、2003年、P134
^ ハードプレイ・ハード―勝利への道、2000年、文藝春秋、P63
^ ハードプレイ・ハード―勝利への道、2000年、文藝春秋、P64.体調不良で一年で辞めたものの、翌年巨人のコーチに復活。星野によると、巨人の上層部がなぜ中日のピッチャーが急によくなったんだ。なぜ追い出した奪い返せと大号令があったという。
^ ハードプレイ・ハード―勝利への道、P62,65-67。1997年オフに宮田の前にコーチ要請したが、巨人からコーチ要請断った事情と夫人の体調が思わしくなかった時期があり断れた。
^ ハードプレイ・ハード―勝利への道、P79。96年オフ、97年オフと2年連続でコーチ要請したが高代が当時コーチだった広島に断られ三村敏之の監督辞任に伴い就任に至った
^ ホークス75年史―南海、ダイエー、ソフトバンクー継承される栄光の歴史ベースボール・マガジン社、2013年
^ 星野仙一氏 写真特集、退任セレモニーで、花束を手にあいさつをする。 時事通信
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^ 現役時代の登録がすべて投手という意味。投手経験のある通算1000勝以上の監督は川上哲治など、他に4人いる
^ 1000勝は通過点…星野監督2000勝まで燃え続ける スポーツニッポン 2012年5月12日
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^ 開幕戦先発出場のセ・リーグ高卒新人は、阪神の並木輝男、巨人の王貞治以来29年ぶり3人目。パ・リーグを含めても、近鉄の飯田幸夫以来22年ぶり。また、立浪以降の高卒新人開幕スタメンはセでは皆無、パで2006年西武の捕手・炭谷銀仁朗・2011年オリックス・バファローズの右翼手・駿太のみ。また、立浪以後、高卒新人で規定打席に達した選手はいない。
^ 山本昌、74-75頁。
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^ 但し、外野手としての功績は後任の山田久志や落合博満によるものが大きい
^ 落合すら叱った星野仙一さんの「優しさ」…コーチに破格のご褒美、一般人を叱責後に一緒に写真 - 2018年3月29日
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^ 『ドラゴンズファンブック '97』 中日新聞社、1997年
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^ 当時は最高勝率の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト [3] には、1975年の「最高勝率」として星野の名前が記載されている。なお、タイトルとしての「最優秀勝率投手」および「勝率第一位投手」については、「最高勝率 (野球)」を参照のこと。
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^ 2010年当時、各種プロ野球名鑑で日本テレビの野球解説者として紹介。
- 『2010プロ野球全選手カラー写真名鑑』(『週刊ベースボール別冊』桜花号。2010年4月20日、ベースボール・マガジン社発行)…「日本テレビ(スポット)」と明記。
- 『12球団全選手カラー百科名鑑2010』(『廣済堂ベストムック』151号。2010年2月17日発売、廣済堂あかつき発行。ISBN 4331801543)…「日本テレビほか」と明記。
^ 江川いよいよクビ? 日テレ解説陣決定ウラ事情(『ZAKZAK』2010年2月1日付。インターネットアーカイブ2010年2月1日付保存キャッシュ)より、2010年度の日本テレビプロ野球中継解説者一覧表(リンク先には、JPG画像=同2014年5月5日付保存キャッシュ として掲載) ※一覧内では、レギュラーとスポットが明記されており、星野はスポットに分類。
^ 監督 星野仙一 知られざる戦略~北京五輪への道~
^ 今週の徹子の部屋 2010年1月8日 星野仙一「孫にメロメロ闘将の素顔…」
^ [4] RadiChubu(CBCラジオインフォメーション スポーツ)2017年1月6日
参考資料
- 『週刊ベースボール』バックナンバー
- 『月刊ドラゴンズ』バックナンバー
- 各種外部リンク
関連項目
- 岡山県出身の人物一覧
- 明治大学の人物一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- セブンルール
外部リンク
個人年度別成績 星野仙一 - NPB.jp 日本野球機構- 野球殿堂博物館 星野仙一
- 星野仙一記念館
- 星野ドリームズプロジェクト
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監督歴 | ||||||||||||||||||||
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