1964年東京オリンピック
1964年東京オリンピック | |||
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第18回オリンピック競技大会 Games of the XVIII Olympiad | |||
開催都市 | 日本 東京 | ||
参加国・地域数 | 93 | ||
参加人数 | 5,133人(男子4,450人、女子683人) | ||
競技種目数 | 20競技163種目 | ||
開会式 | 1964年10月10日(開会式詳細) | ||
閉会式 | 1964年10月24日(閉会式詳細) | ||
開会宣言 | 昭和天皇 | ||
選手宣誓 | 小野喬 | ||
最終聖火ランナー | 坂井義則 | ||
主競技場 | 国立霞ヶ丘陸上競技場 | ||
夏季 | |||
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冬季 | |||
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Portal:オリンピック |
第18回オリンピック競技大会(だい18かいオリンピックきょうぎたいかい、仏: Jeux de la XVIIIe olympiade、英: Games of the XVIII Olympiad)は、1964年(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間、日本の東京で開かれたオリンピック競技大会。一般的に東京オリンピック(とうきょうオリンピック)と呼称され、東京五輪と略称される。公用文では第十八回オリンピック競技大会の表記もみられる。
目次
1 概要
2 大会開催までの経緯
3 実施競技と日程
3.1 公開競技
3.2 デモンストレーション
4 ハイライト
5 東京オリンピックのメダル
5.1 オリンピック・メダル
5.2 各国の獲得メダル
5.3 主なメダリスト
6 競技会場
6.1 東京23区内
6.2 周辺地域
6.2.1 東京都(23区を除く)
6.2.2 神奈川県
6.2.3 埼玉県
6.2.4 千葉県
6.2.5 長野県
7 選手団
8 開催に向けての整備
8.1 競技場等の施設
8.2 交通機関・道路等のインフラ
8.3 宿泊施設
9 聖火
10 計時
11 交通規制
12 東京オリンピック開催が日本にもたらした影響
13 「テレビ・オリンピック」
14 デザイン
14.1 ポスター
14.2 ピクトグラム
14.3 日本選手団のユニホーム
15 記録映画
15.1 『東京オリンピック』
15.2 『オリンピック東京大会 世紀の感動』
15.3 テレビドキュメンタリー
15.4 テレビの関連番組
16 楽曲
17 実況録音
18 記念発行物
19 その他
20 東京オリンピックを扱った小説
21 注釈
22 関連文献
23 参考文献
24 関連項目
25 外部リンク
概要
1940年東京オリンピックの開催権を返上した日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、また有色人種国家における史上初のオリンピックでもある。また、アジアやアフリカにおける植民地の独立が相次いだこともあり、過去最高の出場国数となった。
歴史的には、1940年東京オリンピックの開催権を返上した後に参戦した第二次世界大戦で敗戦したものの、その後急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つとされる。
開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行なわれた。開会式の10月10日は、1966年(昭和41年)以降「体育の日」として親しまれるようになったが、「体育の日」は2000年(平成12年)より10月の第2月曜日となっている。
大会開催までの経緯
1940年(昭和15年)夏季大会の開催権[1]を返上した東京は、連合国軍による占領を脱した2年後の1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した[2]。しかし、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。
次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が過半数を超える34票、アメリカ合衆国のデトロイトが10票、オーストリアのウィーンが9票、ベルギーのブリュッセルが5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。なお、和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。
1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用を2013年現在の価格に換算して1200億円掛かる事を懸念していた岸信介首相に、観光収入も見込めると直談判した[3]。
都市 | 国 | 投票数 |
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東京 | 日本 | 34 |
デトロイト | アメリカ合衆国 | 10 |
ウィーン | オーストリア | 9 |
ブリュッセル | ベルギー | 5 |
開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった[4]。
開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。1963年2月7日に、体調不良で大会組織委員会会長を辞任した津島寿一の辞任後、4か月間空席だった大会組織委員会会長に安川第五郎が決まった[5][6]。
実施競技と日程
各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。
競技名 / 日付 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
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開会式 | • | ||||||||||||||
陸上競技 | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
競泳競技 飛込競技 | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
水球 | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
体操 | • | • | • | • | • | • | |||||||||
柔道 | • | • | • | • | |||||||||||
レスリング | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
自転車競技 | • | • | • | • | • | • | |||||||||
バレーボール | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
バスケットボール | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
サッカー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||||
ボクシング | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | |||
ボート | • | • | • | • | • | ||||||||||
セーリング | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
カヌー | • | • | • | ||||||||||||
フェンシング | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
ウエイトリフティング | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
ホッケー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | |||
近代五種競技 | • | • | • | • | • | ||||||||||
馬術 | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
射撃 | • | • | • | • | • | ||||||||||
閉会式 | • |
公開競技
- 男子野球
デモンストレーション
- 武道
ハイライト
- 10月10日
- 開会式
- 10月11日
- 重量挙げバンタム級で一ノ関史郎が銅メダル獲得。日本勢初のメダル。
- 10月12日
- 重量挙げフェザー級で三宅義信が優勝。
- 10月13日
- 水泳競技男子100m自由形で、ドン・ショランダーが優勝。
- 10月14日
- 水泳競技女子100m自由形で、ドーン・フレーザーが三連覇。
- 陸上競技男子10000メートル競走で、伏兵ミルズが優勝。[7]
- レスリング、フリースタイルで吉田義勝、渡辺長武、上武洋次郎が優勝。
- 10月15日
- 陸上競技、男子100mでボブ・ヘイズが優勝。
- 10月16日
- 陸上競技、男子800mでピーター・スネルが二連覇を達成。
- 10月17日
- 陸上競技、棒高跳びで9時間半の熱闘の末、ハンセンが優勝。
- 10月18日
- 水泳競技で米国勢が活躍。ドン・ショランダーが金メダル4個。
- 水泳競技で日本勢は最後の種目で銅メダル獲得。
- 10月19日
- レスリング、グレコローマンで市川政光、花原勉が優勝。フリースタイルと合わせて5個の金メダル獲得。
- 10月20日
柔道軽量級で中谷雄英優勝。- 体操男子は、団体で金、個人総合で金・銀。体操女子も団体で銅メダル。女子個人総合でベラ・チャスラフスカが優勝。
- 10月21日
- 陸上競技マラソンでアベベの優勝、史上初の連覇。円谷幸吉が銅メダル。
柔道中量級で岡野功優勝。
- 10月22日
- 体操男子は、つり輪で早田卓次が金メダル。
柔道重量級で猪熊功が優勝。日本に3個目の金メダル。
- 10月23日
- 女子バレーボールで日本がソ連を破り優勝。男子は銅メダル。
- ボクシングのバンタム級で桜井孝雄が初の金メダル。ヘビー級はジョー・フレージャーが優勝。
- 体操女子は、平均台でベラ・チャスラフスカが優勝。3個目の金メダル獲得。
- 体操男子は、跳馬で山下治広が金、平行棒で遠藤幸雄が金、鶴見修治が銀。遠藤が団体・個人と合わせて3個目の金メダル獲得。
柔道無差別級でオランダのアントン・ヘーシンクに神永敗れる。
- 10月24日
- 閉会式
東京オリンピックのメダル
オリンピック・メダル
東京オリンピックの入賞メダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作り作成した。
デザインは金・銀・銅、共に、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、また「大会名、競技名」を記載してある欄があった。
サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。
重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。
製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。
価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。
参加メダルは岡本太郎(表)と田中一光(裏)によるデザインだった[8]。
各国の獲得メダル
順 | 国・地域 | 金 | 銀 | 銅 | 計 |
---|---|---|---|---|---|
1 | アメリカ合衆国 | 36 | 26 | 28 | 90 |
2 | ソビエト連邦 | 30 | 31 | 35 | 96 |
3 | 日本(開催国) | 16 | 5 | 8 | 29 |
4 | 東西統一ドイツ | 10 | 22 | 18 | 50 |
5 | イタリア | 10 | 10 | 7 | 27 |
6 | ハンガリー | 10 | 7 | 5 | 22 |
7 | ポーランド | 7 | 6 | 10 | 23 |
8 | オーストラリア | 6 | 2 | 10 | 18 |
9 | チェコスロバキア | 5 | 6 | 3 | 14 |
10 | イギリス | 4 | 12 | 2 | 18 |
主なメダリスト
1 金メダル
桜井孝雄(日本、ボクシングバンタム級)
三宅義信(日本、ウエイトリフティングフェザー級)
市口政光(日本、レスリンググレコローマンバンタム級)
花原勉(日本、レスリンググレコローマンフライ級)
上武洋次郎(日本、レスリングフリースタイルバンタム級)
渡辺長武(日本、レスリングフリースタイルフェザー級)
吉田義勝(日本、レスリングフリースタイルフライ級)
中谷雄英(日本、柔道軽量級)
猪熊功(日本、柔道重量級)
岡野功(日本、柔道中量級)
早田卓次(日本、体操男子つり輪)
山下治広(日本、体操男子跳馬)
遠藤幸雄(日本、体操男子平行棒、体操男子個人総合)
遠藤幸雄・小野喬・鶴見修治・早田卓次・三栗崇・山下治広(日本、体操男子団体総合)
磯辺サダ・河西昌枝・近藤雅子・佐々木節子・篠崎洋子・渋木綾乃・谷田絹子・半田百合子・藤本佑子・松村勝美・松村好子・宮本恵美子(日本、バレーボール女子)
ボブ・ヘイズ(アメリカ、陸上競技男子100m、4×100mリレー)
ピーター・スネル(ニュージーランド、陸上競技男子800m)- ピーター・スネル(ニュージーランド、陸上競技男子1500m)
ビリー・ミルズ(アメリカ、陸上競技男子10000m)
アベベ・ビキラ(エチオピア、陸上競技男子マラソン)
アル・オーター(アメリカ合衆国、陸上競技男子円盤投)
ベティ・カスバート(オーストラリア、陸上競技女子400m)
マリー・ランド(イギリス、陸上競技女子走幅跳)
ヨランダ・バラシュ(ルーマニア、陸上競技女子走高跳)- アメリカ(陸上競技男子4×100リレー)
ポーランド(陸上競技女子4×100リレー)
ドン・ショランダー(アメリカ、競泳男子100m自由形)- ドン・ショランダー(アメリカ、競泳男子400m自由形)
- アメリカ(競泳男子4×100mリレー)
- アメリカ(競泳男子4×200mリレー)
ドーン・フレーザー(オーストラリア、競泳女子100m自由形)- イングリッド・クレーマー(統一ドイツ、女子飛びこみ)
ヴァチェスラフ・イワーノフ(ソビエト連邦、ボート競技男子シングルスカル)- ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操鉄棒)
ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子平均台)- ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子平均台)
- ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子跳馬)
ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子ゆか)- ソビエト連邦(体操女子団体)
ドイツ(馬術馬場馬術団体)
アントン・ヘーシンク(オランダ、柔道男子無差別級)
ジョー・フレージャー(アメリカ、ボクシング・ヘビー級、後にプロボクシングで世界ヘビー級王者)
2 銀メダル
神永昭夫(日本、柔道無差別級)
鶴見修治(日本、体操男子あん馬、体操男子個人総合、体操男子平行棒)
遠藤幸雄(日本、体操男子床運動)
モハメド・ガムーディ(チュニジア、陸上競技男子10000m)
ベイジル・ヒートリー(イギリス、陸上競技男子マラソン)
イレーナ・シェビンスカ(ポーランド、陸上競技女子200m)- イレーナ・シェビンスカ(ポーランド、陸上競技女子走り幅跳)
- マリー・ランド(イギリス、陸上競技女子五種競技)
- オーストラリア(競泳女子4×100mリレー)
- ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子個人総合)
ソビエト連邦(体操男子団体)- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子個人総合)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子跳馬)
3 銅メダル
円谷幸吉(日本、陸上男子マラソン)
一ノ関史郎(日本、ウエイトリフティングバンタム級)
大内仁(日本、ウエイトリフティングミドル級)
堀内岩雄(日本、レスリングフリースタイルライト級)
吉川貴久(日本、ライフル射撃男子フリーピストル)
岩崎邦宏・岡部幸明・庄司敏夫・福井誠(日本、競泳男子800m自由形リレー)
相原俊子・池田敬子・小野清子・千葉吟子・辻宏子・中村多仁子(日本、体操女子団体)
池田尚弘・小瀬戸俊昭・小山勉・佐藤安孝・菅原貞敬・出町豊・猫田勝敏・南将之・森山輝久・中村祐造・樋口時彦(日本、バレーボール男子)
ロン・クラーク(オーストラリア、陸上競技男子10000m)
ウーベ・バイヤー(ドイツ、陸上競技ハンマー投げ)- イギリス(陸上競技女子4×100mリレー)
- ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子つり輪)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子平均台)
- ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子段違い平行棒)
ダニエル・モレロン(フランス、自転車競技スクラッチ)
競技会場
東京23区内
国立霞ヶ丘陸上競技場(新宿区):開閉会式、陸上競技(マラソンと50km競歩は甲州街道折り返しコース、20km競歩は明治神宮聖徳記念絵画館周回コースをいずれも競技場発着として使用)、サッカー、馬術
東京都体育館(渋谷区):体操
- 東京都体育館屋内水泳場(渋谷区):水球
秩父宮ラグビー場(港区):サッカー- 国立屋内総合競技場本館<国立代々木競技場第一体育館>(渋谷区):水泳、飛び込み、近代五種(水泳)
- 国立屋内総合競技場別館<国立代々木競技場第二体育館>(渋谷区):バスケットボール
渋谷公会堂(渋谷区):重量挙げ
駒沢陸上競技場(世田谷区):サッカー- 駒沢体育館(世田谷区):レスリング
- 駒沢バレーボールコート(世田谷区):バレーボール
駒沢オリンピック公園(世田谷区):ホッケー
後楽園アイスパレス(文京区):ボクシング
早稲田大学記念会堂(新宿区):フェンシング、近代五種(フェンシング)
日本武道館(千代田区):柔道
馬事公苑(世田谷区):馬術
周辺地域
東京都(23区を除く)
八王子自転車競技場(八王子市):自転車競技
神奈川県
横浜文化体育館(横浜市):バレーボール
三ツ沢蹴球場(横浜市):サッカー
相模湖(津久井郡相模湖町、現:相模原市):カヌー
湘南港(藤沢市江の島):セーリング
埼玉県
朝霞射撃場(北足立郡朝霞町、現:朝霞市):射撃、近代五種(射撃)
朝霞根津パーク(北足立郡朝霞町):近代五種(馬術)
戸田漕艇場(北足立郡戸田町、現:戸田市):ボート競技
大宮蹴球場(大宮市、現:さいたま市):サッカー- 所沢クレー射撃場(所沢市):クレー射撃
千葉県
東京大学検見川総合運動場(千葉市):近代五種(クロスカントリー)
長野県
- 軽井沢馬術場(北佐久郡軽井沢町):馬術
選手団
- 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日に釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。
選手村
- 全面返還された在日米軍施設であるワシントンハイツ内の独身士官向けの宿舎を本村(代々木選手村)として整備し[9]、他に八王子選手村(自転車競技)、相模湖選手村(カヌー)、大磯選手村(セーリング)、軽井沢選手村(総合馬術競技)の計4カ所の分村が開村された。[10]代々木選手村はオリンピック終了後、改修され国立オリンピック記念青少年総合センターとして翌年の1965年に開業した。
- 食事[11]
- 選手村では大会期間中、毎日7,000食もの食事が作られた。開村から閉村までの期間中に供された食事はのべ60万食にも及ぶ。
- 選手村の選手用食堂は男女別に分かれ2箇所あった。女子向けが「富士 (Fuji)」、男子向けは「桜 (Sakura)」だった。「富士食堂」の統括担当は帝国ホテルで村上信夫シェフ、「桜食堂」の統括担当は日活国際ホテルで馬場久シェフ。両名に率いられたコックは総勢306名。
- 選手村における選手の食費は「1人あたり1日6ドル以内(1ドル360円換算で2160円)」と決められていた。
イスラム教徒用の食事を調達するため日本在住でイスラムの屠殺免許と日本の調理師免許を持った人を探し出して(当時、この条件に合う人は日本で1人だけだった)その人に選手村でイスラム教徒向けの料理を作ってもらった。
フランス選手団は自前でフランス料理の調理人をフランス本国から連れてきた。- 選手食堂で開村から閉村までの期間中に消費された食材は、牛340頭、豚280頭、ヒツジ600頭、ニワトリ6万羽、えび・鮭・ヒラメ合計46トン、野菜356トン、鶏卵72万個、米16トン、食パン8万6千斤、牛乳50万本、だった。
- 大量の食事をまかなうために、冷凍食品の技術や解凍法や調理法が向上した。
- その他
- 選手村の警備は警視庁の他に陸上自衛隊も担当した。朝霞駐屯地の隊員約360名が7月16日より大会終了後まで交代で任務についた。
7月9日午後9時頃に選手村246号館から火災が発生して30平米を焼いた。原因はガス工事のためと推察された。
開催に向けての整備
この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。
東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円[12]との合計)[13]。
競技場等の施設
国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場、秩父宮ラグビー場、国立代々木競技場)- 日本武道館
- 駒沢オリンピック公園
- 岸記念体育会館
織田フィールド(当時の選手練習場、現在は代々木公園陸上競技場)
三ツ沢公園球技場[14]
選手村(その他内の記述を参照)
交通機関・道路等のインフラ
東海道新幹線の開業
東京モノレールの開業
東京国際空港のターミナルビル増築・滑走路拡張
首都高速道路・名神高速道路の整備
環七通り・六本木通りの拡幅・整備
宿泊施設
- ホテルニューオータニ
- ホテルオークラ(現・ホテルオークラ東京)
- 東京ヒルトンホテル(現・ザ・キャピトルホテル 東急)
- 東京プリンスホテル
- コープオリンピア
聖火
1964年8月21日にギリシャのオリンピア・ヘラ神殿で採火式が行われた。その後、アテネ(ギリシャ)、イスタンブール(トルコ)、ベイルート(レバノン)、テヘラン(イラン)、ラホール(パキスタン)、ニューデリー(インド)、ラングーン(ビルマ)、バンコク(タイ)、クアラルンプール(マレーシア)、マニラ(フィリピン)、香港(当時はイギリス領)、台北(中華民国台湾)、沖縄(当時はアメリカ合衆国の統治下)と、第二次世界大戦で日本軍が、それらの地域を植民地として支配していたヨーロッパ諸国やアメリカの軍隊と戦った地域を通り、平和のための聖火リレーを印象づけた。- アテネから沖縄までは日本航空のダグラスDC-6B[15]、コンベア880M[16]によって運搬された。
- 那覇から国内各地への輸送には、日本国産旅客機である日本航空機製造YS-11の全日空機が使用された[17]。その時の機体には「聖火号」と名づけられた[18]。鹿児島市、宮崎市、千歳市の3カ所から聖火リレーが行われた。
- 1964年9月7日に日本国内最初の地として沖縄に到着した聖火は、第一ランナーの宮城勇や戦災遺児ランナーの金城安秀を多くの日の丸の小旗が応援した。アメリカ合衆国の統治下の沖縄では、日の丸は祝祭日以外は掲げられなかったが、聖火歓迎は日の丸の小旗で埋まった[19]。
聖火リレーには、輪島大士、貴ノ花利彰、三遊亭小遊三、谷沢健一、山崎裕之(いずれも当時は中学生もしくは高校生)などの後の著名人もランナーとして参加・力走している。- 聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属、後にフジテレビ社員)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった[20]。なお、本来は陸上選手の後藤(後に東京海上火災の社員)が走る予定であったが、「原爆投下の日に生まれた」というエピソードからぎりぎりで坂井に変更された。
- 聖火ランナー総数は、10万713人だった[19]。
- 火の一部は大会終了後も鹿児島県立青少年研修センターにて希望の火として、職員らの手で2013年まで保管され続けた[21][22]。
計時
- セイコー(現セイコーホールディングス)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。
交通規制
東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷や代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。
そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。またそれ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。また、その他にマラソン、競歩、自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。
東京オリンピック開催が日本にもたらした影響
- 東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述の通り本大会には不参加)による初の核実験など、国際的事件が次々と起こった。これにより、「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。
- 史上初の3人乗り宇宙船であるソ連のボスホート1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。
キング牧師のノーベル平和賞受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(実際の受賞は12月10日)。- イギリス領北ローデシアは、閉会式の日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。選手村の国旗なども、同日をもって新国旗に付け替えられた。
- 東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国家としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が、敗戦を乗り越えて、再び先進国として復活した証明の一つともなった。
- 東京オリンピック開催を契機に、競技施設や日本国内の交通網の整備に、多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ受像機購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ受像機購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。その為、娯楽性の高い「バラエティ番組」が増えたといわれる。
- 特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、帝都高速度交通営団・東京モノレール羽田空港線・首都高速道路・ホテルなど、様々なインフラストラクチャーの整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して、大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した[23]。これらの殆どは、現在に至るまで改良やメンテナンスを重ねながら利用されている。
- 特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、東京国際空港(羽田空港)から国立競技場までつながり(その先の新宿まで開業)、途中で銀座・東京駅(呉服橋)・皇居周縁・国会議事堂・霞ヶ関官庁街など、主要施設を経由する首都高速都心環状線ルートが大会前に完成したが、用地買収の期間を省くため、日本橋川上空などが利用され、日本橋も首都高速道路の高架の下に隠れる事となり、東京都心部の親水空間は減少した。
- 「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入され、また、積水化学製のポリバケツが普及した。
- オリンピック組織委員会が、代々木選手村の整備期間中及び大会期間中の警備に際して、警察官の人員不足を考慮して、民間警備会社『日本警備保障』(現在のセコム)に警備の依頼を行った。この民間警備会社による警備が無事に終了したことを機に、日本の社会に民間警備が認知されるようになっていく[24]。
- 東京オリンピックで、初めてコンピュータによるリアルタイムでの記録管理が行なわれたことも、地味ではあるが特筆すべき事項である。それ以前のオリンピックでもコンピュータは使われていたが、あくまで記録管理はバッチ処理により行なわれており、最終的な公式記録の確定・レコードブックの作成には、大会終了後数ヶ月を要していた。
- しかし、東京オリンピックでは、プレスセンターのある日本青年館に設置されたコンピュータにより、リアルタイムで記録が管理され、全競技会場に置かれた端末で入力された各競技の記録が集められただけでなく、端末では他会場の競技結果も参照することが出来た。また公式記録の確定も速やかに行なわれ、大会最終日の閉会式において、全競技の記録を記した記録本が、当時のアベリー・ブランデージIOC会長に渡された。
- 同システムの構築は、日本アイ・ビー・エムが約2年半がかりで行なったもので、プロジェクトリーダーを務めた竹下亨(後に中部大学大学院経営情報学研究科教授)は、このシステム構築に関する論文をまとめた功績で、1988年(昭和63年)に山内業績賞を受賞している。
- 本システムの成功は、日本においてリアルタイムシステムが普及する大きな契機となり、同プロジェクトのメンバーは、その後三井銀行の第一次オンラインシステム、マツダの生産管理システムなど、多くのリアルタイムシステムを手がけていくことになる[25]。
森永卓郎(経済評論家)によると、チキン弁当は、外国人用の駅弁を考えていた時に、当時の食堂車のコックの洋食まかないを参考に考案され、福岡銘菓のひよ子も1964年に東京に進出して東京銘菓になった[26]。- それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。
「テレビ・オリンピック」
東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。
東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をリレー1号でヨーロッパへ送信するという方式で行われた。また当時初めてスローモーションの画像を使い、競技での微妙な結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。
東京大会の日本での中継放送は、映像は一本化された単一映像をNHKも民放も使ったが、競技実況はNHKと民放は別々にアナウンサーをおいたので、同じ映像で違う実況放送であった。民放はこのために地方局からアナウンサーを集めていた。また開会式と閉会式は各局とも独自にアナウンサーを置いて別々に実況を行った。
日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。メディアでの昭和世相史に関する記事等で「東京オリンピックの時期にカラーテレビが普及した」という趣旨の記述が見られることがあるが、1966年(昭和41年)まではカラーテレビの普及率は1%未満であり、1968年メキシコシティーオリンピックが行なわれた1968年(昭和43年)の調査でも5.4%で、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)である。
- 白黒テレビからカラーテレビへ(社会実情データ図録)
また当時、アメリカ合衆国による沖縄統治下では、当時の琉球政府の大田政作主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」[27]と関係各所に陳情、これによって、電電公社のマイクロ回線が那覇市まで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、現在の沖縄県でも同時に放送された。なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。NOCを作って、沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加は、アメリカ合衆国による沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり、結局設立されなかった。結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還へとつながっていった。
デザイン
開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮(赤坂迎賓館)に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった
[28]。
オリンピックに際して原弘が、「ノイエ・ハース・グロテスク(後のヘルベチカ)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された[29]。
ポスター
東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナーの亀倉雄策のデザイン(文字は原弘)、ストロボ写真演出早崎治、ディレクター村越襄で、オリンピックポスター初の写真ポスターである[30]。ポスターは全部で4種類が制作された[31]。
第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた[32][33][34]、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉の陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる[35][36]。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定もした[37]。
なお、1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった[38]。
ピクトグラム
案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語のフランス語や英語)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。競技種目ピクトグラムを制作したのは山下芳郎1人である。
日本選手団のユニホーム
東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。
- 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)
- 神田の洋服商であった望月靖之が4年以上掛けてデザインしたもの[39][40][41][42]。このユニホームの名称は「1964年オリンピック東京大会日本選手団ブレイザーコート」[39]、通称「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。帽子は純白地に赤いアクセントの付いたものが採用されている[39]。生地は大同毛織、製作は当時結成されたジャパンスポーツウェアクラブが担当し、全て手縫いで縫製されている[39][43]。靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。女子は白色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。石津謙介がデザインしたと言うのが通説となっていたが、研究者の調査によって望月靖之がデザインしたという多数の裏付けが可能な資料の存在が判明した[39][40]。
- 選手村などで着るユニホーム
- 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は黒色の紳士靴。女子も黒色のローヒール。また、前述の式典用と同様に女子だけ純白のショルダーバッグが採用されている。
- トレーニングウェア
- 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。素材は100%化学繊維で出来ていた。
記録映画
『東京オリンピック』
『オリンピック東京大会 世紀の感動』
市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。
- 『オリンピック東京大会 世紀の感動』
154分
- プロデューサー:田口助太郎
- 脚本:前田博、山岸達児
- 音楽:矢代秋雄、若杉弘
- 解説:岡田実、北出清五郎、鈴木文彌
- 監修:川本信正
テレビドキュメンタリー
2013年8月にNHK総合テレビジョンで3部作として放送。
テレビの関連番組
NHKテレビの放送開始60周年記念事業として、2013年に当時の映像記録を視聴者などから提供したもので構成した特別番組が編成されている。いずれもNHK BS1にて放送。
- 2013年1月1日 「伝説の名勝負・東洋の魔女 世紀の金メダルロード」
東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボール日本代表が金メダルを決定させるソビエト戦のノーカットフルタイムの映像が視聴者から提供された。この試合に関与した選手や、その試合を観戦した著名人各氏のインタビューを交えてその試合を振り返った。[44]
- 2013年12月31日 「よみがえる東京オリンピック1964→2020半世紀を経て発見!20時間の競技映像」
- NHKの取材班は2020年の東京五輪開催決定前の事前取材で、1964年に行われた同大会の記録映像となる16mmフィルムを発見した。この中にはNHKのライブラリーにも残されていない映像も多数発掘された。そこで、この映像にラジオのアーカイブス音源を絡ませ、この大会に参加した選手や当事者へのインタビューを交え、1964年五輪の記憶をよみがえらせる[45]
楽曲
東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた[46]。
- 「オリンピック東京大会ファンファーレ」 (作曲:今井光也)
- 「オリンピック東京大会讃歌(A)」(作詞:佐藤春夫、作曲:清水脩)
- 「オリンピック東京大会讃歌(B)」 (作詞:西条八十、作曲:小倉朗)
- 「オリンピック賛歌」(作詞:コスティス・パロマ、訳詞:野上彰、作曲:スピロ・サマラ)
- 「オリンピック・マーチ」(作曲:古関裕而)
「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった[46]。
オリンピック東京大会賛歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。
選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。
なおこの他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。
また国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会、東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された[46]。
- 「東京五輪音頭」(作詞:宮田隆、作曲:古賀政男、歌:三波春夫・橋幸夫・つくば兄弟・神楽坂浮子・三橋美智也・坂本九・北島三郎・畠山みどり・大木伸夫・司富子)
- 「海をこえて友よきたれ」(作詞:土井一郎、作曲:飯田三郎)
これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省、日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。
- 「東京オリンピックの歌「この日のために」」(作詞:鈴木義夫、補作:勝承夫、作曲:福井文彦、編曲:飯田信夫、歌:三浦洸一・安西愛子・ビクター合唱団)ビクターレコードVS-693 (JES-3408)
- 「東京オリンピック音頭」(作詞:山川茂男、補作:佐伯孝夫、作曲:馬飼野曻、編曲:寺岡真三、歌:橋幸夫・市丸・松島アキラ・神楽坂浮子・ビクター少年民謡会)VS-693 (JES-3409)
実況録音
大会終了後、日本放送協会 (NHK) から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録LPレコードやフォノシートが製作された。またこのNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の円谷幸吉とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、ピンク・ピクルスの歌う「一人の道」の冒頭に使用されている。
記念発行物
記念切手
- 5+5円付加金付きが20種類、1961年10月11日三種、1962年6月23日三種、10月10日三種、1963年6月23日三種、11月11日四種、1964年6月23日四種の七次にわたり発行された。
- 5円・10円・30円・40円・50円の五種類が1964年9月9日(5円のみ)、1970年10月10日(残り四種)に発行された。
- 「出場記念」として東京オリンピック記念切手を発行した国としては中華民国(台湾)、韓国、ソ連、北朝鮮(ボイコット)などがある。
記念貨幣
- 100円銀貨が1964年9月21日(11月24日追加発行)、1000円銀貨が1964年10月2日(10月29日追加発行)に発行された。詳細は東京オリンピック記念貨幣を参照。
その他
新興国競技大会 (GANEFO) への参加選手への資格停止処分をめぐり、国際陸上競技連盟と国際水泳連盟と対立していた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とインドネシアは、組織委員会が両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けるも対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加しなかった[47]。- 当時アパルトヘイト政策を行っていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対、抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受けて、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、アフリカ各国のボイコットは回避された。
中華民国と「中国を代表する国家」の地位をめぐって対立していた中華人民共和国は、独立したNOCとしてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定は無かった(新興国競技大会の項目も参照)。また会期中の10月16日に同国初の核実験(原子爆弾実験)を行ってアジア初の核保有国となってる。- 会期中に使用された国立代々木競技場や選手村の本村、代々木選手村は、第二次世界大戦での日本の敗戦後に日本を占領下に置いた連合国軍の1つであるアメリカ軍によって設けられたワシントンハイツが返還された跡地に建設された。選手村で新築された4階建ての中層共同住宅形式の宿舎は1965年(昭和40年)以降、国立オリンピック記念青少年総合センターとなった。
- 開会式では、1年半を海の上で訓練したブルーインパルスのF-86が貴賓席から見えるよう、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼ぶ[19]。
- 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行った。
- 当時、ボディビルや剣道に勤しみスポーツに関心を持っていた作家の三島由紀夫が期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を毎日新聞、報知新聞、朝日新聞などに分載形式で連載した[48]。三島はオリンピック開会の感想として、「やつぱりこれをやつてよかつた。これをやらなかつたら日本人は病気になる」[49]、「小泉八雲が日本人を〈東洋のギリシャ人〉と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい」とコメントしている[49]。
- 選手村においてブルガリア人選手同士が結婚式を挙げた。これは史上初のことであった。
池田勇人首相は、この前の9月に精密検査の結果ガンが見つかり、入院治療をしていて10月10日の開会式は出席したが、閉会式は欠席して、そして閉会式翌日の10月25日に辞任を発表した。翌年夏に死去。- 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、ローマ大会に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの1つだけである。他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた[50]。
- 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。ただし国別に選手が入場しなかったのは1956年メルボルンオリンピックが先である。
マラソン競技は全コースが生中継されたが、オリンピックのマラソン競技が全コース生中継されたのはこの東京オリンピックが世界最初である。なお、この生中継はNHKが担当したが、全コースを生中継するためにNHKはテレビ中継車7台、ヘリコプター1機、を投入し放送用カメラは全部で26台もあった。また沿道にカメラを設置し、移動中継車やヘリコプターなどを経てNHK放送センターへ画像を送るなどして見事に全コースの生中継を全世界へ送り届けた。- 当時の日本の報道カメラマンはモータードライブを素人の道具として否定的に捉えていたが、海外のカメラマンがモータードライブを使用しているのを目の当たりにしたことで、国内でも広まりを見せた。
- 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームは1964年東京オリンピックのバレーボール競技でメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。
- 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するためのコンパニオンを30名採用した。このコンパニオンは一般公募などされたが総理大臣の次女と三女、日本オリンピック委員会長の長女、日立製作所顧問の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。そのうちの一人の西村亜希子は報知新聞の企画で対談したプロ野球・読売ジャイアンツの長嶋茂雄と1965年(昭和40年)に結婚した。
- 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。名古屋の中学生の作品。
- 柔道会場の日本武道館には日本古来の稲藁やシチトウを用いた畳が敷かれた。その後のオリンピックではビニール・プラスティック素材のマットに変わる。
1966年、アメリカ映画『歩け走るな!』(コロムビア映画、チャールズ・ウォルタース監督、ケーリー・グラント主演)が制作・公開された。オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。- 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。当初の割り当て分を全て完売したのは大韓民国(韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという[51]。なお、日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが[52]、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。
- 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、日本選手権シリーズの日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、南海ホークスと阪神タイガースの関西圏チーム同士で争われた実際の1964年の日本シリーズは10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、阪神甲子園球場で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった[53]。
- 日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった[54]。
東西統一ドイツ選手団が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され交響曲第9番 (ベートーヴェン)が演奏された。- 開催期間中に国立霞ヶ丘陸上競技場の織田ポールに翻った五輪旗は、アベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈されたのち、安川が母校の福岡県立修猷館高等学校に寄贈した。かつては運動会の入場行進に使用されたが、現在はレプリカを使用して現物は同校の資料館に額入りで展示されている。
2005年(平成17年)に東京都の石原慎太郎知事は、2016年(平成28年)の夏季オリンピック開催地に立候補する意向を表明した。1964年大会で使用した施設の中では国立霞ヶ丘競技場がマラソンコースの起点となり、代々木体育館や日本武道館も使用されるが、競技の中心は新設の東京オリンピックスタジアムなどの臨海部で開催される計画案を作成したが、2009年のIOC総会による投票で2016年のオリンピックはブラジルのリオデジャネイロで開催されることが決定された(2016年東京オリンピック構想も参照)。
東京オリンピックを扱った小説
オリンピックの身代金
奥田英朗著のフィクション。東京だけが日本中の富と繁栄を独占し、地方はいまだ貧困から抜け出せない現状に憤った秋田出身の主人公島崎国男が「東京オリンピック」を人質に国家から金を強請るストーリー。庶民には手の届かないカラーテレビ、東京の開発に駆り出され命を落とす労働者たち、郊外へ移り住む団地族など日本の高度経済成長時代当時が詳しく描写している。2013年、テレビ朝日によりテレビドラマ化された。
注釈
^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
^ 朝日新聞.1954年(昭和29年)10月10日,6面.
^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
^ JOC年表 1961 - 1970
^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダ(ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
^ 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p205
^ 日本オリンピック委員会ホームページ内のメモリアルプレイスの記事[1]
^ 選手村の調理に携わった調理師のエピソードは、『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の題材になっている(第94回「料理人たち 炎の東京オリンピック」、2002年8月27日放映)。
^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
^ vol.3 紛糾したアジア競技大会とGANEFO。そしてインドネシアと北朝鮮の引き揚げ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技の為に改装工事が行われた。
^ JAL's History | DC-4「City of Tokyo号」(3) - 日本航空
^ vol.1 開会式そして日本中を走った聖火リレー - 日本オリンピック委員会
^ 運航機材の歴史 - 全日本空輸
^ その後も聖火輸送を記念して、全日空のYS-11には「オリンピア」の愛称が付けられていた
- ^ abc2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
^ トラックから聖火台までの階段の段数については、文献によって163や182など複数の説がある。坂井自身は167段と聞かされていた(小沢剛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年5月11日、20面)。
^ “東京五輪の聖火、鹿児島に今も 絶えることなく49年”. 朝日新聞. (2013年10月10日). http://www.asahi.com/special/2020hostcity/articles/SEB201310100004.html 2017年10月17日閲覧。
^ “1964年東京五輪の「聖火の火」、4年前に消えていたことが発覚”. AFPBB News (フランス通信社). (2017年10月16日). http://www.afpbb.com/articles/-/3146915?pid=19468888 2017年10月17日閲覧。
^ 突貫工事による開業だったため、日本国有鉄道(国鉄)は路盤の安定に時間がかかるとして一部区間での徐行運転を実施し、東京駅-新大阪駅間は超特急「ひかり」でも所要時間が4時間ちょうどに設定された。13年後の1977年(昭和52年)10月10日からは190時間に短縮された。
^ 第7回 東京オリンピックの警備を受注 セコムオフィシャルサイト『創業物語』
^ NHKスペシャル『新・電子立国』第5巻「驚異の巨大システム」(相田洋著、日本放送出版協会、1997年)pp.48 - 95
^ 「2020五輪で東京はこう変わる!大胆予測SPマル秘公開」テレビ朝日 2013年9月8日放送
^ 2011年7月25日、琉球放送「RBC ザ・ニュース アナログ放送半世紀の歴史に幕」
^ オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
^ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
^ “美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
^ オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日[リンク切れ]
^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
- ^ abcde安城寿子 (2016年9月6日). “64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か”. Yahoo!ニュース編集部. Yahoo! JAPAN. 2016年9月6日閲覧。
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^ 遠山周平 (2016年9月2日). “1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?”. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。
^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2016年9月6日閲覧。
^ “町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月6日閲覧。
^ 伝説の名勝負紹介サイト
^ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」
- ^ abc朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
^ 内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166 [要ページ番号]
^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171-196に所収
- ^ ab三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171-174に所収
^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(日本オリンピック委員会 日本オリンピアンズ協会)
^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」
関連文献
- 東京オリンピックへの遙かな道―招致活動の軌跡1930 - 1964(波多野勝 2004年7月 草思社) ISBN 978-4794213358
参考文献
『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』 新潮社、2003年8月。ISBN 978-4106425738。
- 浜田幸絵『〈東京オリンピック〉の誕生: 一九四〇年から二〇二〇年へ』(吉川弘文館、2018年)978-4642038812
関連項目
- 国際オリンピック委員会
- 日本オリンピック委員会
- オリンピック賛歌
- 夏季オリンピック
- 1964年東京オリンピックの日本選手団
- 1964年東京オリンピックの開会式
- 1964年東京オリンピックの閉会式
- 東京パラリンピック
- 東京オリンピック支援集団
- プロジェクト:オリンピック
- 池田勇人
- 鈴木俊一
- オリンピック景気
外部リンク
- Tokyo 1964 Summer Olympics - results & video highlights
- 東京オリンピック1964 - JOC
- オリンピック聖火リレー実施要領 1964 聖火リレー鹿児島県実行委員会
- 特集 なつかしの番組 東京オリンピック 制作者座談会_NHKアーカイブス
The Official Report of the Games of the XVIII Olympiad, Tokyo 1964 Volume I LA84 Foundation
闘魂の記録-オリンピック東京大会を目指して1963年 イーストマンカラー 34分、科学映像館
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