サマセット公










サマセット公の紋章


サマセット公(Duke of Somerset)は、イングランド貴族の公爵位である。その名前はサマセットに由来する。


過去に四回創設されており、現存する第4期のサマセット公爵位は1547年にエドワード・シーモアが叙されたのに始まる。彼は大逆罪で処刑されたため、1世紀以上にわたって爵位が失われたが、曽孫ウィリアム・シーモアの代の1660年に爵位が復活し、以降2016年現在まで続いている。




目次






  • 1 サマセット公の歴史


    • 1.1 皇后マティルダによる創設


    • 1.2 ボーフォート家


    • 1.3 ボーフォート家以降


    • 1.4 シーモア家




  • 2 現当主の保有爵位/準男爵位


    • 2.1 かつての従属爵位




  • 3 サマセット伯、サマセット公一覧


    • 3.1 サマセット伯 第1期(1141年)


    • 3.2 サマセット伯 第2期(1397年)


    • 3.3 サマセット公 第1期(1443年)


    • 3.4 サマセット公 第2期(1499年)


    • 3.5 サマセット公 第3期(1525年)


    • 3.6 サマセット公 第4期(1547年)


    • 3.7 サマセット伯 第3期 (1613年)


    • 3.8 サマセット公 第4期(1547年)


    • 3.9 サンモール伯(1863年)




  • 4 家系図


  • 5 脚注


    • 5.1 注釈


    • 5.2 出典




  • 6 参考文献





サマセット公の歴史



皇后マティルダによる創設


ウィリアム・ドゥ・モーン・オブ・ダンスターは、神聖ローマ皇后マティルダ(ヘンリー1世の娘)のお気に入りで、彼女が国王スティーヴンと王位を争った時にもウィリアムはマティルダを支援していた。彼はその功績によって1141年にサマセット伯に叙せられた。もっともこの称号は、スティーヴンにもヘンリー2世(マティルダの息子)にも承認されなかったため、ウィリアムの子孫はこの称号を使わなかった。



ボーフォート家


ジョン・ボーフォート(1371年頃 - 1410年)は、ジョン・オブ・ゴーントとキャサリン・スウィンフォードの息子である。彼は1397年2月10日にサマセット伯に叙せられた[注釈 1]。死後、爵位は長男ヘンリー(1401年 - 1418年)が継承するが夭折してしまったため、次男ジョン(1404年 - 1444年)が継承する。1443年8月28日にジョンはサマセット公、ケンダル伯に叙せられる。しかし翌1444年に急死(自殺説もあり)、公爵位もケンダル伯爵位も消滅してしまう。


サマセット伯爵位は急死したジョンの弟エドマンド(1406年 - 1455年)が継承した。エドマンドは既に1442年にはドーセット伯に、1443年にはドーセット侯に叙せられていたが、新たにサマセットの所領も継承し、1448年3月31日にサマセット公に叙せられている。エドマンドがサマセット公の時にヨーク公リチャードがランカスター朝の国王ヘンリー6世に反旗を翻し、国内を二分する薔薇戦争が勃発する。エドマンドはヘンリー6世の側近かつヨーク公の政敵であることから当然ランカスター派に与したが、1455年の第一次セント・オールバンズの戦いで戦死した。


爵位は息子ヘンリー(1436年 - 1464年)が継承する。ヘンリーは1461年3月のタウトンの戦いの敗戦でスコットランドに逃走し、1461年11月4日にヨーク朝のエドワード4世から反逆罪を理由に私権剥奪され、爵位も所領も没収される。1463年3月にスコットランドから戻ったヘンリーは、エドワード4世と和解して爵位・所領共に返還されているが、間もなく再びランカスター派に復帰し、1464年5月のヘクサムの戦いで捕らえられ、処刑された。ヘンリーにはチャールズ・サマセットという子供がいたが、ヘンリー自身未婚だったため嫡子として認められず、サマセット伯を継がせる事はできなかった[注釈 2]


議会はヨーク朝に反逆したサマセット公の爵位消滅を議会法によって宣言したが、ランカスター派ではヘンリーの弟エドマンド(1439年頃 - 1471年)を第4代サマセット公とした。彼は1471年のテュークスベリーの戦いで敗退し、そこで処刑された。彼の死によってボーフォート家の家系は途絶えてしまった。



ボーフォート家以降


1499年にヘンリー7世は彼の息子エドマンドがまだ幼い洗礼の際に、サマセット公に指名した。だがエドマンドはわずか1歳で亡くなってしまったため、恐らくは公式に叙せられたわけではない。


ヘンリー8世の私生児ヘンリー・フィッツロイ(1519年 - 1536年)は1525年6月18日にノッティンガム伯、リッチモンド公、サマセット公に叙せられた。彼は1536年7月22日に亡くなった時に跡継ぎがいなかったため、爵位は消滅した。


ロバート・カーはジェームズ1世のお気に入りだった。1611年3月25日にロチェスター子爵に叙せられ、その後枢密院議員に任命された。1612年にソールズベリー伯が亡くなると国王の秘書役を務め始め、1613年11月3日にサマセット伯に叙せられた。1645年に妻フランセスとの間にできた一人娘を残して亡くなると、称号は消滅した。



シーモア家




初代サマセット公エドワード・シーモア


エドワード・シーモア(初代)(1506年頃 - 1552年)は一介のナイトの息子であったが、妹ジェーン・シーモアが国王ヘンリー8世のお手付きとなり、1537年に3番目の王妃となって、その間に皇太子エドワード(エドワード6世)を儲けたことで急速に出世する。ジェーンが王妃となったのを機として1536年6月5日にビーチャム子爵(Viscount Beauchamp)に叙され、ついで皇太子エドワード誕生を機として1537年10月18日にハートフォード伯爵(Earl of Hertford)に叙された。そして1547年1月に甥エドワード6世が10歳で即位すると、護国卿(1547年 - 1549年)として後見することになり、1547年2月16日にサマセット公(Duke of Somerset)とアッシュのシーモア男爵(Baron Seymour of Hache)に叙せられた。しかし後に政敵ウォリック伯ジョン・ダドリー(後の初代ノーサンバーランド公)との政争に敗れ、1552年1月22日に大逆罪で処刑され、爵位は剥奪された[1][2]


その息子であるエドワード・シーモア(1539年–1621年)は、1559年1月13日にハートフォード伯爵(Earl of Hertford)とビーチャム男爵(Baron Beauchamp)を新規に与えられている[3]。彼は1560年にキャサリン・グレイ(英語版)(ジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したことで知られる[4]


その孫である第2代ハートフォード伯ウィリアム・シーモア(1588年-1660年)は、1640年6月3日にハートフォード侯爵(Marquess of Hertford)に叙された。彼は王政復古直後の1660年9月13日の議会の制定法によって曽祖父の爵位サマセット公爵位とアッシュのシーモア男爵位の復権が認められた[2]


長命だった2代公の死後、子供たちは長男・次男・3男まで既に死去していたため、爵位は3男の子のウィリアム・シーモア(第3代)(1654-1671)が継承した。だがこの3代公も早世してしまったため、爵位は叔父(先代ウィリアムの4男)のジョン・シーモア(第4代)(1646年以前 - 1675年)が継承した[5]。1675年に4代公が死去すると、ハートフォード侯の爵位は消滅した[2]


サマセット公爵位を継承したのは、4代公の従兄弟にあたる第3代トローブリッジのシーモア男爵(英語版)フランシス・シーモア(1658年 - 1678年)である。しかし彼も1678年に未婚のままイタリアで暗殺された[5][2]


爵位は弟のチャールズ・シーモア(第6代)(1662年 - 1748年)が継承する。彼は高慢な性格で威張り散らしたので「高慢な公爵(The Proud Duke)」とあだ名された[6][7]。政治的野心も強かったが、トーリー党とホイッグ党双方のこうもりをしていたため、どちらの党派からも信用されず、主馬頭(英語版)以上には出世しなかった[7]。しかし彼は男子後継者のいない第11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーの跡取娘エリザベス・パーシーと結婚してパーシー家の広大な所領を手にすることに成功した[8][9]。エリザベスが死去すると彼は再婚したが、彼が1748年に86歳で天寿を全うすると、爵位は先妻エリザベスとの子であるアルジャーノン・シーモア(第7代)(1684年 - 1750年)が継承した[10]


7代公はそれ以前の1722年1月21日に母方の家系に伝わっていたパーシー男爵(英語版)に叙せられていた[2]。64歳と当時にしては高齢でサマセット公爵位を継承したが、その時点で彼の長男は死去しており、男子の爵位継承者が残っていなかった。そこで彼は翌1749年に所領の大分割を行い、娘エリザベスとその婿ヒュー・スミソンに遺産の多くを与えた[11]。それに合わせて同年10月2日には特別継承権で娘婿ヒュー・スミソンに継承可能なノーサンバーランド伯爵ノーサンバーランド州におけるワークワース城のワークワース男爵(Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland)に叙され、さらに同年10月3日に妹の子供のチャールズ・ウィンダムに継承可能なイグリモント伯(英語版)カンバーランド州におけるコッカマス城のコッカマス男爵(Baron Cockermouth, of Cockermouth Castle in the County of Cumberland)に叙せられた[2]


こうして1750年にアルジャーノンが亡くなると、残った所領がルールに従って継承された。ハートフォード伯爵位とビーチャム男爵位とトローブリッジのシーモア男爵位は消滅し[2]、サマセット公爵位は初代公爵にさかのぼっての分流である第6代ベリー・ポメロイ準男爵エドワード・シーモア(第8代)(英語版)が継承した[10]


8代公の死後、爵位は長男のエドワード・シーモア(第9代)(1717年 - 1792年)が継承したが、未婚のまま亡くなったために次男のウェッブ・シーモア(第10代)(1718年 - 1793年)が継承した。10代公も間もなく死去し、爵位は長男で有名な数学者のエドワード・アドルファス・サンモール(第11代)(1775年 - 1855年)が継承する[12]。彼は洗礼を受けて名前をシーモアからサンモール(St. Maur)に変えているが、その後もシーモアはしばしば使われる。


1855年に11代公が死去すると、爵位は長男のエドワード・アドルファス・サンモール(第12代)(1804年 - 1885年)が継承する。彼は自分が単にサマセット公の子孫であるだけでなく、フランスの旧家サンモール家の末裔にもあたると主張してヴィクトリア女王にその爵位を求め[13]、1863年6月19日にデヴォン州におけるベリー・ポメロイのサンモール伯爵(Earl St Maur, of Berry Pomeroy in the County of Devon)に叙せられた[2]。この時以降、長男エドワード・アドルファス・フェルディナンド・サンモール[注釈 3]はサンモール伯を儀礼称号としている。


1885年に12代公が81歳で死去した時、既に息子たちに先立たれていたために、サンモール伯爵位は廃絶し[2]、一方サマセット公爵位は弟のアーチボルド・ヘンリー・アルジャーノン・サンモール(第13代)(1810年 - 1891年)が継承した。しかしこの際に12代公は自分の長男の非嫡出子2人と自分の娘3人に巨額の財産を残したため公爵家の財産は散逸した[15]


13代公が死去するとその弟アルジャーノン・パーシー・バンクス・サンモール(第14代)(1813年 - 1894年)が継承した。3年後にアルジャーノンも亡くなると、その息子のアルジャーノン・サンモール(第15代)(1846年 - 1923年)が爵位を継承した[16]


1923年に15代公が死去すると、彼にも子供がいなかったために遠縁にあたるエドワード・ハミルトン・シーモア(第16代)(1860年 - 1931年)が爵位を継承した。エドワードは第8代サマセット公の末子の子孫であり、実に170年前に枝分かれした家系である[注釈 4]。エドワードの爵位は息子のエバリン・フランシス・シーモア(第17代)(1882年 - 1954年)が継承し、その子パーシー・ハミルトン・シーモア(第18代)(1910年 - 1984年)へと引き継がれた[2]


現在、サマセット公爵位は1952年に生まれたジョン・マイケル・エドワード・シーモア(第19代)が保有している。また、法定推定相続人は1982年に生まれたシーモア男爵セバスチャン・シーモアである[2]


家訓は「義務による信頼(Foy Pour Devoir)」[2]。所有邸宅は南デヴォンにあるベリー・ポメロイ(英語版)[2]とサマセット・メイデン・ブラッドレイ(英語版)にあるブラッドレイ・ハウス(英語版)である[18]



現当主の保有爵位/準男爵位


現当主の第19代サマセット公爵ジョン・シーモア(英語版)は以下の爵位・準男爵位を保有している[2]




  • 第19代サマセット公爵 (19th Duke of Somerset)
    (1547年2月15日の勅許状によるイングランド貴族爵位)



  • アッシュの第19代シーモア男爵 (19th Baron Seymour of Hache)
    (1547年2月15日の勅許状によるイングランド貴族爵位)



  • (デヴォン州におけるベリー・ポメロイの)第17代準男爵 (17th Baronet, styled "of Berry Pomeroy, co. Devon")
    (1611年6月29日の勅許状によるイングランド準男爵位)



シーモア男爵位が法定推定相続人の儀礼称号である。他の公爵家が(マンチェスター公を除いて)儀礼称号に侯爵もしくは伯爵を用いるのに対して、サマセット公だけは他に従属称号を持たないため、最も低い称号を儀礼称号として用いている。



かつての従属爵位


かつての従属称号は以下の通り。




  • ケンダル伯(1443年創設、1444年消滅)

  • ロチェスター子爵(1611年創設、1645年消滅)

  • アッシュのビーチャム子爵(1536年創設、1552年剥奪)


  • ハートフォード伯(1537年創設、1552年消滅、1559年再創設、1750年消滅)


  • ハートフォード侯(1640年創設、1675年消滅)

  • トローブリッジのシーモア男爵(1641年創設、1750年消滅)


  • パーシー男爵(1722年創設、1750年分離)

  • コッカマス男爵(1749年創設、1750年分離)

  • イグリモント伯(1749年創設、1750年分離)

  • サンモール伯(1863年創設、1885年消滅)



サマセット伯、サマセット公一覧



サマセット伯 第1期(1141年)



  • ウィリアム・ドゥ・モーン (初代サマセット伯)(英語版) (? - 1155年頃)


サマセット伯 第2期(1397年)




  • ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯) (1371年/1373年 - 1410年)


  • ヘンリー・ボーフォート (第2代サマセット伯) (1401年 - 1418年)


  • ジョン・ボーフォート (第3代サマセット伯) (1404年 - 1444年、1443年サマセット公に昇爵)


  • エドマンド・ボーフォート (第4代サマセット伯) (1448年サマセット公に昇爵)



サマセット公 第1期(1443年)




  • ジョン・ボーフォート (初代サマセット公) (1404年 - 1444年、1444年 消滅)


  • エドムンド・ボーフォート (第2代サマセット公) (1406年頃 - 1455年、1448年 再興)


  • ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公) (1436年 - 1464年、称号剥奪)


  • エドムンド・ボーフォート (第4代サマセット公) (1439年頃 - 1471年、ランカスター派による自称)



サマセット公 第2期(1499年)



  • エドムンド・テューダー (サマセット公)(英語版) (1499年 - 1500年)


サマセット公 第3期(1525年)



  • ヘンリー・フィッツロイ (初代リッチモンド・サマセット公) (1519年 - 1536年、消滅)


サマセット公 第4期(1547年)



  • エドワード・シーモア (初代サマセット公) (1500年頃 - 1552年、剥奪1552年)


サマセット伯 第3期 (1613年)



  • ロバート・カー (初代サマセット伯) (1590年頃 - 1645年、消滅)


サマセット公 第4期(1547年)




  • ウィリアム・シーモア (第2代サマセット公) (1588年 - 1660年、再興1660年)


  • ウィリアム・シーモア (第3代サマセット公)(英語版) (1654年 - 1671年)


  • ジョン・シーモア (第4代サマセット公)(英語版) (1646年以前 - 1675年)


  • フランシス・シーモア (第5代サマセット公)(英語版) (1658年 - 1678年)


  • チャールズ・シーモア (第6代サマセット公) (1662年 - 1748年)


  • アルジャーノン・シーモア (第7代サマセット公) (1684年 - 1750年)


  • エドワード・シーモア (第8代サマセット公)(英語版) (1701年 - 1757年)


  • エドワード・シーモア (第9代サマセット公)(英語版) (1717年 - 1792年)


  • ウェッブ・シーモア (第10代サマセット公)(英語版) (1718年 - 1793年)


  • エドワード・アドルファス・サンモール (第11代サマセット公)(英語版) (1775年-1855年)


  • エドワード・アドルファス・サンモール (第12代サマセット公)(英語版) (1804年-1885年)


  • アーチボルド・ヘンリー・アルジャーノン・サンモール (第13代サマセット公)(英語版) (1810年 - 1891年)


  • アルジャーノン・パーシー・バンクス・サンモール (第14代サマセット公)(英語版) (1813年 - 1894年)


  • アルジャーノン・サンモール (第15代サマセット公)(英語版) (1846年 - 1923年)


  • エドワード・ハミルトン・シーモア (第16代サマセット公)(英語版) (1860年 - 1931年)


  • イヴリン・フランシス・シーモア (第17代サマセット公)(英語版) (1882年 - 1954年)


  • パーシー・ハミルトン・シーモア (第18代サマセット公)(英語版) (1910年 - 1984年)


  • ジョン・マイケル・エドワード・シーモア (第19代サマセット公)(英語版) (1952年 - )

    • 法定推定相続人はセバスチャン・エドワード・シーモア (シーモア卿) (1982年2月3日 - )




サンモール伯(1863年)


  • エドワード・アドルファス・サンモール (初代サンモール伯・第12代サマセット公)(英語版)


家系図





脚注


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注釈





  1. ^ この年の9月9日にはサマセット侯に、9月29日にはドーセット侯に叙せられている。だが政権がランカスター朝に移った1399年には当時のヘンリー4世によって侯爵位は無効とされている。


  2. ^ その後清教徒革命のイングランド内戦期に、当時の国王チャールズ1世がチャールズ・サマセットの子孫であるウスター侯エドワード・サマセットにアイルランド軍の支援の代償としてサマセット公への復帰を約束している。しかし1649年にチャールズ1世が処刑、イングランドが共和制に移行するとエドワード自身が国外追放になるのでそれどころではなくなり、1660年の王政復古と共に帰国したエドワードはチャールズ1世の息子チャールズ2世に約束の履行を求めたが、貴族院議会に拒絶されサマセット公への復帰は果たされなかった。但し、22年後の1682年にエドワードの息子のヘンリー・サマセットがチャールズ2世にボーフォート公に叙爵され、子孫はボーフォート公家として続いていった。


  3. ^ 彼は「フェルディ」の名で知られており、リチャード・サースフィールド大尉という偽名で義勇兵としてガリバルディと共に戦っている。後に家政婦のロジーナ・スワンと恋に落ち、2人の子供をもうけてすぐに亡くなった。もしフェルディとロジーナが正式に結婚していれば、サマセット公の称号継承権はフェルディの子ハロルド(1869年 - 1927年)のものだったので、一時期ハロルドは両親が結婚していたことを証明しようとしたが結局失敗し、爵位の継承はできなかった。ハロルドの子孫は現在でもサマセット公爵位の継承権を主張している[14]


  4. ^ しかしこの際にさらにさかのぼっての分流である第7代ハートフォード侯爵ジョージ・シーモア(英語版)が16代公エドワードの曽祖父フランシスとその妻とされるレオノーラは正規の結婚関係になかったと主張した。つまりエドワードは庶子の子孫であるのでサマセット公爵位の継承権がなく、真の第16代サマセット公爵は自分であるという主張であった。この論争と調査は長く続き、貴族院にも持ち込まれたが、2年後にハートフォード侯の主張は退けられ、16代公エドワードの継承が確定した[17]




出典





  1. ^ 森護 1987, p. 60-61.

  2. ^ abcdefghijklmnHeraldic Media Limited. “Somerset, Duke of (E, 1546/7)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。


  3. ^ Heraldic Media Limited. “Hertford, Earl of (E, 1558/9 - 1750)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。


  4. ^ 海保眞夫 1999, p. 32.

  5. ^ ab森護 1987, p. 64.


  6. ^ 森護 1987, p. 64-68.

  7. ^ ab海保眞夫 1999, p. 96.


  8. ^ 森護 1987, p. 65-67.


  9. ^ 海保眞夫 1999, p. 95.

  10. ^ ab森護 1987, p. 69.


  11. ^ 森護 1987, p. 70.


  12. ^ 森護 1987, p. 72-73.


  13. ^ 森護 1987, p. 78.


  14. ^ 森護 1987, p. 78-79.


  15. ^ 森護 1987, p. 76-78.


  16. ^ 森護 1987, p. 80.


  17. ^ 森護 1987, p. 80-82.


  18. ^ 森護 1987, p. 82.




参考文献



  • 海保眞夫 『イギリスの大貴族』 平凡社〈平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208。

  • 森護 『英国の貴族 遅れてきた公爵』 大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。




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