細川護熙
日本の政治家 ほそかわ もりひろ | |
---|---|
細川護熙(1993年8月撮影、当時55歳) 出典:首相官邸ホームページ | |
生年月日 | (1938-01-14) 1938年1月14日(80歳) |
出生地 | 日本 東京府東京市 |
出身校 | 上智大学法学部卒業 |
前職 | 朝日新聞社社員 |
現職 | 芸術家 陶芸家 永青文庫理事長 東北芸術工科大学学園長 京都造形芸術大学学園長 |
所属政党 | (無所属→) (自由民主党→) (日本新党→) (新進党→) (フロム・ファイブ→) (民政党→) (民主党→) 無所属 |
称号 | 法学士(上智大学・1963年) |
親族 | 細川護久(曾祖父) 池田詮政(曾祖父) 近衞篤麿(曾祖父) 細川護立(祖父) 近衞文麿(祖父) 細川護成(大伯父) 近衞秀麿(大叔父) 南部利英(従伯父) |
公式サイト | 細川護熙 公式ホームページ |
第79代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
天皇 | 今上天皇 |
衆議院議員 | |
選挙区 | (旧熊本1区→) 熊本1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1993年7月18日 - 1998年5月7日 |
参議院議員 | |
選挙区 | (旧全国区→) (熊本県選挙区→) 比例区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1971年7月4日 - 1983年2月 1992年7月26日 - 1993年7月 |
第45-46代 熊本県知事 | |
在任期間 | 1983年2月11日 - 1991年2月10日 |
細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年(昭和13年)1月14日 - )は、日本の元政治家・陶芸家・茶人。朝日新聞記者を経て政治家となり、参議院議員(3期)、熊本県知事(第45・46代)、衆議院議員(2期)、内閣総理大臣(第79代)、日本新党代表(初代)、フロム・ファイブ代表(初代)などを歴任した。
目次
1 概要
2 経歴
2.1 生い立ち
2.2 政界へ
2.3 地方自治へ
2.4 新党結成
2.5 細川内閣
2.6 首相退陣後
2.7 政界引退後
2.8 2014年東京都知事選挙
3 人物
3.1 人物像
3.2 主張
3.2.1 日韓関係
3.2.2 在日外国人参政権
3.2.3 原発関連
3.2.4 春画
3.2.5 その他
4 家族・親族
5 系譜
6 略年譜
7 文献
7.1 著書
7.2 芸術活動の著作(政界引退後)
8 出演番組
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 参考資料
11 関連項目
12 外部リンク
概要
肥後熊本藩主だった肥後細川家の第18代当主。
上智大学法学部卒業。学位は法学士。朝日新聞社の記者を経て第9回参議院議員通常選挙に自由民主党公認候補として全国区から立候補し初当選。その後、熊本県知事に転じ、2期8年務めた。知事退任後、日本新党を結成して代表に就任し、参議院議員として再び国政に戻る。
1993年7月の第40回衆議院議員総選挙に鞍替え立候補し、衆議院議員に初当選。非自民・非共産連立政権の首班となり、38年ぶりに自由民主党からの政権交代を実現させ、「新党ブーム」を巻き起こして55年体制を崩壊させた。佐川急便より一億円借り入れ事件を追及され総辞職[1]。内閣総辞職後、新進党の結党に参加するものちに離党、フロム・ファイブを起ち上げた。以降、民政党を経て民主党に合流。還暦を機に議員辞職し、政界引退後は陶芸家として活動する。
経歴
生い立ち
関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国大名・細川忠興の直系子孫で、旧熊本藩主細川家第17代当主・細川護貞と、五摂家筆頭近衛家の第30代当主で昭和初期に貴族院議長や内閣総理大臣を歴任した近衛文麿の次女・温子との間の長男として、東京府東京市(現在の東京都千代田区)に生まれる(ただし本籍地は熊本県熊本市に置いている)。
清泉女学院小学校から栄光学園中学校、学習院高等科卒業。学習院高等科での同級生に菅孝行がいる。大学入試では京都大学を受験するが失敗。一浪して再び京大を受験するがまたも失敗し、上智大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社。鹿児島支局では鹿児島県警察記者室に入っていたが、ある時記者室で財布を無くしたことがあった。「当時の金銭感覚では考えられない大金」だったが、細川は「財布は買い直せば良い」という表情だった」という[2][リンク切れ][要出典]。その後本社に戻って社会部記者となり、金嬉老事件などを取材した。
政界へ
その後、朝日新聞社を退職。かねてから政界進出の意志を持っていたが、松前重義(日本社会党)に「自分は次の選挙に出ない。いい機会だから、胆(はら)を決めて出たらどうか」と勧められ、1969年に行われた第32回衆議院議員総選挙に旧熊本1区から無所属で出馬した。しかし父の護貞は政界入りに反対し、「そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」と勘当を言い渡した。文芸春秋での実弟・忠煇の発言によれば、護煕は細川家次期当主と言えど、当時三笠宮家の長女甯子内親王と結婚したばかりの忠煇より知名度が低く、忠煇自身も政界進出には否定的だったという。
細川自身は保守系無所属としての出馬を選んだ(社会党は松前の後継に藤崎久男を擁立したが落選)。首相の佐藤栄作に面会すると、田中角栄に会うよう勧められ、田中には「当選ラインは6万票。選挙までに3万軒、戸別訪問しろ」と言われ、いわゆるどぶ板選挙を行った。しかし細川家の末裔とはいえ、家の支援は望めず、有権者にとっては無名に近い存在だった。結果、戸別訪問も目標の半分しかできず38,632票で落選したが、戸別訪問で回った地域は、不思議なくらい票が伸びたという[3]。1971年の第9回参議院議員通常選挙では全国区から自由民主党公認で出馬し、石原慎太郎などの支援を得て当選するが、後に石原とは袂を分かち田中角栄の七日会(田中派)の旗揚げに参加する。2期目は熊本県選挙区から出馬し当選、官職では大蔵政務次官などを歴任。党職では自由民主党の参議院副幹事長を務めている[4]。
地方自治へ
その後、熊本県知事選挙への出馬を表明。現職の沢田一精と自民党の公認を争った末に調整で公認候補となり、1983年に当選、2期8年勤める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進。NHKアナウンサーを退職した鈴木健二を熊本県立劇場館長として迎えた。
また、知事在任中、何をするにも国(中央省庁)に権限を握られていることを痛感し、地方分権を推進するためには国の中枢に入って改革をする必要があると考えるようになる。引き合いとしてよく使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」という例は話題になった。
新党結成
熊本県知事3選も確実視されていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え、2期8年で知事を退任。1991年2月に活動の本拠を東京に移して、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務めた。
1992年、文藝春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。東西冷戦終結の国際潮流とリクルート事件をはじめとする政治腐敗、既成政党不信、政治改革・行政改革の遅滞を背景に、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自由民主党)と革新政党(日本社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。新党は公募により党名を「日本新党」とし、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年、第16回参議院議員通常選挙に比例区から立候補し、日本新党は細川を含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得した。
宮澤内閣の下で政治腐敗防止のために政治資金規正や政権交代を容易にする小選挙区制度導入といった政治改革実現の目途は立たず、1993年5月、ついに首相の宮澤喜一がテレビの特別番組で「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と断言し、決意を示したものの党内の根強い反対論を覆せず、再び断念に追い込まれた。その結果、宮澤内閣に対する不信任決議案が政治改革を推進する羽田派の賛成により衆議院で可決され、宮澤は解散総選挙を決断。羽田孜、小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また不信任決議案には反対票を投じた武村正義、鳩山由紀夫らも離党し、新党さきがけを結成した。
この間、細川は日本新党代表として全国を遊説して政治改革・地方分権を訴え、無党派層の支持を集めていった。6月、総選挙の前哨戦と位置付けられた1993年東京都議会議員選挙で、一気に20議席獲得と大躍進した。またこの頃、武村正義や田中秀征が主導した、行政の制度改革を勉強する会である「制度改革研究会」に運営委員として参加している。
細川内閣
衆議院の解散による第40回衆議院議員総選挙で日本新党は躍進、細川は小池百合子と共に衆議院に鞍替えし、旧熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選した(小池も旧兵庫2区で当選)。この選挙で羽田派の離党により単独過半数を割っていた第1党の自民党は単独過半数を回復できず、社会党、公明党、民社党などの既存の野党だけでも過半数に達しなかったため、旧羽田派の新生党、日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。新党さきがけ代表の武村正義は、細川とは滋賀県知事時代以来のつきあいがあり、その縁で日本新党を引き込み自民党との連立政権を模索したが、新生党代表幹事の小沢一郎がこれに対抗して「細川首相」を内々に提示する。「自民党政権」か「非自民政権」のどちらにつくか注目される中、日本新党と会派を組む新党さきがけの田中秀征が、思想信条の違う政党の連立政権は臨時・緊急の事態にしか通用しないとして、経済対策など懸案事項を遅らせている政治改革を早期に処理する「特命政権」として、院内会派「さきがけ日本新党」が「政治改革政権の提唱をする」という第三の選択肢を打ち出す。7月23日に細川が提唱文を読み上げると、各党の対応が明確になり、小沢一郎の動きとは別に、細川内閣樹立の理論的構築がなされた[5][6]。この提唱に、江田五月は、「よかった、これで野合と言われずに済む。」と感想を言ったという[7]。双方とも条件の受け入れを表明したが、「細川首相」を提示した非自民側が結局取り込みに成功し、細川を首班とする新政権の発足が決まった。このような動きの中、細川は、非自民・非共産連立政権の首班となることを受諾した。
1993年8月9日、政治改革を最大の使命として掲げる細川連立政権が誕生した。公選知事経験者の首相就任は史上初であり、2018年現在も唯一の例である。また衆議院議員当選1回での首相就任は1948年の吉田茂以来45年ぶり、閣僚を経験していない政治家の首相就任としては1947年の片山哲以来46年ぶりである。日本新党・新生党・新党さきがけ・社会党・公明党・民社党・社会民主連合の7党に、参議院院内会派の民主改革連合を加えた8党派からなる連立では政策の調整に困難が予想され、「8頭立ての馬車」「ガラス細工の連立」などと皮肉られることもあった。その一方で、内閣発足直後に行われた世論調査では内閣支持率が軒並み70%を超え、これは当時としては空前の高支持率となった。
1993年8月15日に、日本武道館の「戦没者追悼式典」で首相として初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明する文言を挿入した辞を述べた。この年は極端な冷夏で記録的な米不足が発生したことを背景に、食糧管理法を改正してヤミ米を合法化し、自民党政権下でも長年の懸案でもあったコメ市場の部分開放を決断した。ただし米糧のブレンド米の緊急輸入に関しては、就任直後には慎重な姿勢を見せていたのにも関わらず結局認めて、記者会見で「断腸の思いだ」とコメントしたものの、一部からは批判を浴びた。11月にはアメリカでのAPEC首脳会議に参加した。
その一方で政治改革四法案の成立は難航した。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、当初の小選挙区250、比例代表(全国区)250、計500議席を、小選挙区274、比例代表(全国区)226と自民党へ譲歩したものの受け容れられず、小選挙区制の導入に民意を正確に反映しないとして反対する社会党の一部参議院議員も造反したため、1994年1月に廃案となる。ここで細川は、一度否決されたにもかかわらず、自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、再び改革案成立への意欲をアピールした。細川は、自民党総裁・河野洋平との党首会談で修正を話し合い、今までよりもさらに自民党案に近い小選挙区300、比例代表(地域ブロック)200の小選挙区比例代表並立制とする案を呑むことで合意を取り付けた。こうして長年にわたり何度も頓挫してきた新たな選挙制度を実現させた。結果的には、羽田孜や小沢一郎が自民党を割って出てまで推進してきたこの政治改革の成就が、9か月の細川内閣におけるほとんど唯一の実績だが、この時導入された小選挙区制や政党交付金制度は、後の政治のあり方を大きく変えていくことになる。
1994年2月、冷戦終結後の日本における安全保障のあり方の見直しを提起し、防衛問題懇談会を設置した。
政治改革関連法案が曲がりなりにも成立し、高い内閣支持率もそのまま維持した。2月3日、これに意を強くした小沢一郎と大蔵事務次官の斎藤次郎のラインに乗った細川は、消費税を福祉目的税に改め税率を3%から7%に引き上げる国民福祉税構想を発表した。しかし、これは深夜の記者会見で唐突に行われたもので連立与党内でも十分議論されていないものであったため、世論はもとより内閣官房長官の武村正義や社会保障を所管する厚生大臣で民社党委員長の大内啓伍、社会党委員長の村山富市ら、与党内からも反対の声が沸き上がり、結局翌2月4日に連立与党代表者会議で白紙撤回に追い込まれた。
その後、政権を支える新生党代表幹事の小沢一郎と、内閣官房長官の武村との対立が表面化。細川は内閣改造による武村の排除を図るがこれも実現できず、さらに細川自身が佐川急便からの借入金を未返済のままとしているという疑惑を野党となった自民党に追及されることになる。細川は熊本の自宅の門・塀の修理のための借入金で既に返済している(現在ではこの際の「借用書」[8]も公開されている)と釈明したが、返済の証拠を提出することが出来ず、国会は空転し、細川は与党内でも四面楚歌の苦境に陥った。4月5日、参議院議員のコロムビア・トップ及び西川きよしとの会食の席で「辞めたい」と漏らしたことが報じられ、一旦は否定したものの政権はもはや死に体となってしまい、8日に退陣を表明。総予算審議に入る前に予算編成時の首相が辞任するのは極めて異例の事態である。こうして国民の大きな期待を背負って誕生した細川内閣は、1年に満たない短命政権に終わった。細川の退陣に伴い、かねてから細川との関係が悪化していた武村が率いる新党さきがけは、将来的な合流を見据えて組んでいた日本新党との統一会派を解消し、連立内閣からも離脱して次期政権では閣外協力に転じる意向を早々と表明した。この背景に、日本新党で小池百合子は、北朝鮮有事に際し、アメリカ側から北朝鮮に宥和的な社会党や武村の存在を問題視されたのも、武村更迭の一因であり、細川が政権を投げ出した遠因だと後に述懐している[9]。
首相退陣後
28日には、細川内閣で外務大臣兼副総理を務めていた羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。このとき社会党と公明党を除く連立与党が新選挙制度への対応と政権安定化のために院内統一会派「改新」を結成した(公明党は遅れて参加を表明)が、これに社会党が猛反発し、連立政権からの離脱を表明。与党第1党であった社会党の離脱により、羽田内閣は少数与党政権に転落し、不穏の船出となった。与党が少数となった国会は借入金未返済についての細川の証人喚問を決定、6月に喚問を受けた。羽田内閣は社会党に連立政権への復帰を促し、社会党内にも連立復帰に前向きな意見があったものの実現しなかった。
1994年6月、羽田内閣総辞職・村山内閣誕生により、統一会派「改新」に参加する日本新党・新生党・公明党・民社党などは野党に転落したが、新選挙制度の下では中小政党は不利になることに鑑みて、12月、新進党を結成した。1995年7月の第17回参議院議員通常選挙では、細川は党首海部俊樹、羽田孜とともに首相経験者3人組で政権交代可能な二大政党の一つであることをアピール(三総理作戦)、勝利に導いた。しかし、この選挙で新進党比例候補として当選した友部達夫がオレンジ共済組合事件で逮捕されると、その比例名簿順位の決定に関わった細川は追及を受けることとなる。
新進党では12月に新たに党首に就任した小沢一郎の党運営が強権的であるとの不満が大きくなり、1996年の第41回衆議院議員総選挙前には鳩山邦夫・船田元・石破茂らが離党し、敗北後はさらに離党者が続出。細川も1997年6月に離党、新進党解党直前の同年12月には新党「フロム・ファイブ」を立ち上げた。
さらに1998年1月には、旧民主党、新党友愛、太陽党、国民の声、民主改革連合とともに野党共闘を目指す勢力として院内会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」を結成。それからまもなく同じ民友連を構成する羽田孜らの太陽党、国民の声との三党合併により民政党を結成。その後も、新進党解党後の二大政党の一翼を担いうる新党の結成を目指し、旧民主党、新党友愛、民主改革連合との新党設立を協議する政権戦略会議の議長を務める。協議は難航したが、4月、「民主党」の名称を受け入れることでとりまとめ、面目を保った。
新民主党の結党を見届けた後の1998年5月7日、還暦(60歳)を迎えたことを区切りとして政界を引退した。
政界引退後
政界引退後は主に陶芸家、茶人として活動し、祖母の住まいがあった神奈川県足柄下郡湯河原町宮上の邸宅に、工房と茶室「不東庵」を設えている。茶室の設計は建築史家の藤森照信がした。陶芸の師は辻村史朗[10]。
創作・執筆活動をしながら、2001年から、主に春から秋にかけ茶器・書・画等の「作品個展」を開いている。また、1999年10月から2002年9月までの間、TBSラジオの『細川護煕・この人に会いたい』でパーソナリティを務めたこともある。
細川家当主として公益財団法人永青文庫の理事長を務めている。また、母の姉が活元運動の提唱者・野口晴哉の妻である縁から社団法人整体協会会長理事に就任している。
現在唯一政治に関わる活動としては、「女性のための政治スクール」顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。2011年2月1日から東北芸術工科大学と京都造形芸術大学の初代学園長に就任することが発表された[11][12][13]。両大学を運営する学校法人東北芸術工科大学と学校法人瓜生山学園は統合を予定しているが、その統合計画について「誠に時宜を得たもの」[14]と評しており、「両校はこれまでも、『藝術による平和の希求と日本の再生に向けた運動』に取り組んできましたが、今回の法人統合が実現したならば、その運動は更に力を増し、様々な分野で、具体的な展開を図っていく可能性が拓けていく」[14]と主張し、法人統合に寄せる期待を表明している。
2010年5月、首相在任中に書き留めていた日記を、『内訟録 細川護熙総理大臣日記』として日本経済新聞社から出版。
2010年9月に行われた民主党代表選挙に際しては、「(首相を)やれるのは小沢さんしかいない。わたしも一生懸命応援します」[15]と述べ、小沢一郎への支持を表明したが、小沢は現職の菅直人に敗れた。しかし、その後も菅の政権運営に批判的なスタンスを取っており、2011年4月8日には「菅は日本のためにいてはならない。絶対に辞めさせなければならない」[16]と宣言した。2011年8月の民主党代表選挙では、選挙前に行われた小沢と野田佳彦との会談の仲介役を買って出た。細川は今回は小沢を支援せず、野田も細川に支援を要請しなかった[17]。
2012年、一般財団法人瓦礫を活かす森の長城プロジェクトを設立し、理事長となる。これらの貢献により、第6回後藤新平賞を受賞。
2017年10月10日付で公益財団法人日本美術刀剣保存協会の名誉顧問に就任。
2014年東京都知事選挙
小泉純一郎(第87-89代内閣総理大臣)から推薦を受けて、2014年1月10日、「出馬を決断する状況になった」[18]と語り、14日に正式に無所属での出馬を表明。衆議院議員選挙以外の公職選挙に総理大臣経験者が立候補したのは日本国憲法下で唯一の例となる。
小泉純一郎の息子である小泉進次郎政務官は、父が細川を全面支援する事への批判について「批判は当たらない。舛添要一は自民党本部の支援(推薦)ではない」と述べ、父による細川への支援を容認している[19]小泉純一郎のほかに、吉岡達也(ピースボート共同代表)[20]、民主党都連[21]、鳩山由紀夫(元民主党・第93代内閣総理大臣)、菅直人(民主党・第94代内閣総理大臣)、小沢一郎(生活の党代表)が支援の動きを見せている[22][23]。また、市民活動家のあいだでは、広瀬隆[24]、瀬戸内寂聴[25]、鎌田慧[26]、土井敏邦[27]、増山麗奈[28]などは細川への支持を表明した。
かつて総理辞任の一因となった東京佐川急便からの政治資金借入金1億円について、夫人の細川佳代子は全額返金済みで影響はないことを表明している[29][30]。当初予定されていた1月15日の出馬会見は延期を重ね[31]、告示前日に予定されていた日本記者クラブ主催の共同会見も中止になったため、宇都宮健児は「政策論争、公開討論会が全く行われない異常な中で選挙戦に突入する。これは非常に残念」[32]と不満を表明した。
東京新聞(中日新聞)が2014年1月10-12日に実施し1月13日に発表した世論調査によると、次の都知事にふさわしいと思うのは舛添要一に次ぐ2番目の評価であった(次いで3番目に宇都宮健児)[33]。
政策では、舛添要一・宇都宮健児・吉田重信・鈴木達夫らが掲げる脱原発[34]に加え、東京電力への再生可能エネルギー基地設置要求や、都による発電業者からの再生可能エネルギー直接買い付けなどを含め、都内で必要とする電力は都内で供給する『地産地消』を掲げる[35]。2020年東京オリンピックについては、2013年末に発売された池上彰の著書において原発事故に伴う五輪返上論を主張したことが報じられている[36][37]。
2月9日に行われた投票の結果、舛添が当選し、細川は得票率20%弱・惜敗率45%強で、次点の宇都宮に僅かに及ばず3位となった[38]。
人物
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年1月) |
人物像
- 身長176cm、血液型O。
- 座右の銘は「一日生涯」「悠々堂々」。
- 尊敬する人物は西郷隆盛。
- 熊本県知事時代の1986年、第41回冬季国民体育大会でアルペンスキー競技の大回転に出場したことがある。
- 1989年には勅使河原宏監督の映画『利休』に織田有楽斎役で1カットのみカメオ出演している。
- 首相就任時に密室とのイメージを避けるために「料亭政治」の廃止と国会の外では議員バッジを外すと宣言した。これに対し、料亭業界からは「料亭というのは悪いところじゃございませんからね。細川さんによくおっしゃっておいて下さい」と苦言を呈され、バッジ業界からは「特定の業界の存在意義を否定するかのごとき発言は許されない」と抗議された。またこの影響で料亭には閑古鳥が鳴いたという[39]。
- 1993年8月10日、歴代首相で初めて記者会見を立ったままで行なった。また、プロンプターを導入(こちらは1993年12月14日の会見時)してマスコミの注目を集めた。自ら記者(質問者)を指名するスタイルも国民の目には斬新に映り、ボールペンや手で記者を指名する仕草が有名だった。(立ったままで行う記者会見スタイルは、細川内閣以降の歴代内閣でも引き継がれている。)細川首相以前の従来の首相記者会見は椅子に着席し机上のメモを読むスタイルで行われていたため、当時はこれ一つだけでも大きく取り上げられた。この一連の動作は嘉門達夫の『ハンバーガーショップ(国会篇)』でネタにされている。
- 1993年8月9日の組閣時記念撮影を歴代内閣で初めて首相官邸の中庭で行った。本来は、首相官邸内の階段で行われるのが通例だった。
- 好物はショートケーキ。いちごショートケーキには一家言もつ。
立川俊之が代表を務める芸能・音楽事務所 株式会社Ts Office が運営するキャスティング事業部門に所属している[40]。
主張
日韓関係
日韓併合は日本の武力によって強制されたものであると主張する。また、天皇がアメリカやヨーロッパ、中国や東南アジアを訪問しながら韓国のみ訪問しなかったことは順序を誤った判断であり、速やかに訪韓すべきだと主張した[41]。
在日外国人参政権
- 納税者に選挙権が与えられていないことには問題があるとし、特に戦前・戦中に来日した韓国人の子孫には投票権を与えなければならないと主張した[42]。
原発関連
福島第一原子力発電所事故後は、脱原発を主張している。「脱原発をとにかく明確にすべきだ」と述べ、毎日新聞の岸井成格との対談では、「(汚染水の)垂れ流しについて、政府は場当たり的ではなく、前面に出てやると言うが、東京電力はとうの昔に国有化しているわけだから、何を今さらという感じですね。これはもう犯罪ですね。とてもオリンピックどころではない」「トップセールスで外国にも原発の売り込みをやっている。とんでもないと思いますね」と首相・安倍晋三の原発政策を批判している[43]。
春画
ロンドンの大英博物館で2013年秋に開催された特別展「春画-日本美術における性とたのしみ」を受けて[44]、春画展日本開催実行委員会の淺木正勝らが日本でも春画展を開催しようと各方面に働きかけたが、18禁の問題から開催の目処が立たずにいた[45]。細川はこの春画展開催に深い理解を示し、細川家伝来の文化財を公開している永青文庫(東京都)にて2015年9月19日から12月23日の期間での開催を決めた[45]。細川はこの春画展で細川家伝来のものも公開に供し、「今回の展覧会が起爆剤になって、扉を開くきっかけになれば、と願います」と語った[45]。実際、京都の細見美術館でも2016年初頭から開催された[46]。
その他
2005年郵政解散直後のインタビューで、長年の沈黙を破って時評を行い、当時の首相小泉純一郎に対し「私は議員在任中は中国との軋轢を避けるため一度も靖国参拝していない」「郵政解散は政治的空白を作る」「小泉君はアメリカのいいなりだ。私は決していいなりにはならなかった」などの批判を行う一方で、リーダーシップそのものは評価するとも語った。その後2014年には、その小泉から推薦を受けて、東京都知事選へ出馬している(前述参照)。選挙では敗れたものの、その後も「脱原発」で一致する小泉と「一般社団法人自然エネルギー推進会議」なる脱原発法人を設立している[47]。
家族・親族
細川氏は足利氏の支流で本姓は源氏。河内源氏の棟梁として知られる鎮守府将軍源義家の子、源義国の庶長子、矢田義清の子、広沢義実の次男である細川義季を祖とする。足利氏の有力一族の一つであり、室町時代には細川家宗家嫡流(京兆家)の細川頼之・細川勝元・細川政元らが管領として力をふるったが、生涯独身を貫いた政元が細川家の2人と近臣の1人を養子とした際には諍いが起き、政元本人も巻き込まれ殺害されてしまい、細川氏は一旦没落してしまう。江戸時代に熊本藩主となった細川家は、近世初期の文化人武将として知られる細川藤孝(細川幽斎)を祖とし、その子の細川忠興を初代藩主とする。藤孝は細川家の分家である和泉上守護家(細川頼之の弟細川頼有の子孫)の出身であるが、子の忠興は一族である奥州家の養子に入ったこともある。忠興の妻はオペラなどで知られる細川ガラシャであり、護熙は系図上の子孫に当たるが、養子を経たためにガラシャの子孫ではない(ただし女系ではガラシャの血を引いている)。遠い親戚には評論家の細川隆一郎(細川忠興・ガラシャ夫妻の長男で当初嫡男だった細川忠隆の子孫)がいる。以降熊本藩主家は明治期には華族・侯爵家となった。なお養子を男系親族からのみ迎えており、源義家以来、男系で続いている。
父の細川護貞は、公爵近衛文麿の娘を最初の夫人とし、第二次近衛文麿内閣時代には内閣総理大臣秘書官を務めた。従って護熙は近衛文麿の孫に当たる。この縁で護熙の弟忠煇は五摂家筆頭の近衛家を相続し、国際赤十字赤新月社連盟会長、日本赤十字社社長などを務めている。異母妹の明子は表千家家元の十四世千宗左而妙斎に嫁いでいる。
妻・佳代子との間に一男二女を儲ける。佳代子はボランティア活動などで知られ、NPO法人世界の子どもにワクチンを日本委員会代表、スペシャルオリンピックス日本理事長を務める。長男の細川護光(もりみつ)は大学時代に興味を覚えて父親と同時期に陶芸の道に入り福森雅武に師事した後、現在は熊本県南阿蘇村を拠点に活動している。
同じく内閣総理大臣を務めた麻生太郎の妹は寬仁親王妃信子であり、三笠宮崇仁親王の娘で、護熙の弟・忠煇の妻近衞甯子の義妹にあたる。
そのほかにも遠縁の著名人が多数いるが、下記では細川護熙の親族に該当する者のみを記載する。括弧内は続柄、ハイフン以降は代表的な役職を示す。
近衛忠房(高祖父) - 国事御用掛
近衛忠煕(高祖父) - 公卿、近衛忠房の祖父・近衛篤麿の養父
池田章政(高祖父) - 岡山藩藩主
前田慶寧(高祖父) - 加賀藩藩主
細川行真(高祖父) - 宇土藩藩主
毛利高謙(高祖父) - 佐伯藩藩主、毛利高範の養父
細川護久(曾祖父) - 熊本藩藩知事、白川県知事、貴族院議員
池田詮政(曾祖父) - 貴族院議員
近衛篤麿(曾祖父) - 貴族院議長
毛利高範(曾祖父) - 貴族院議員、細川護立の再従兄弟
細川護立(祖父) - 貴族院議員
近衛文麿(祖父) - 貴族院議長、内閣総理大臣
細川護成(大伯父) - 貴族院議員
近衛秀麿(大叔父) - 指揮者、貴族院議員、日本芸術院会員
細川護貞(父) - 内閣総理大臣秘書官
近衛文隆(伯父) - 陸軍軍人
近衛通隆(叔父) - 東京大学史料編纂所教授
南部利英(従伯父) - 貴族院議員
博義王妃朝子(従伯母) - 旧皇族
春仁王妃直子(従伯母) - 旧皇族
細川佳代子(妻) - スペシャルオリンピックス日本名誉会長
細川護光(長男) - 陶芸家
近衛忠煇(弟) - 五摂家筆頭近衛家当主、日本赤十字社社長、国際赤十字赤新月社連盟会長
近衛甯子(義妹) - 日本赤十字社副総裁
十四世千宗左(義弟) - 表千家十四世家元
南部利昭(再従兄) - 靖國神社宮司
伏見宮博明王(再従兄) - 旧皇族、モービル石油顧問
水谷川優子(再従妹) - チェリスト
近衛忠大(甥) - 映像作家
細川護熙の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
系譜
細川氏(清和源氏足利氏流、元熊本藩主家)(凡例:━は実子、=は養子、*=は実弟で養子 を示す。二段目は実際の血縁関係に基づいた系図である。)
清和天皇…<略>…細川藤孝(幽斎)━忠興(奥州家・輝経の養子)━忠利━光尚━綱利=宣紀━宗孝*=重賢━治年=斉茲━斉樹=斉護━韶邦*=護久━護成*=護立━護貞━護熙━護光- 清和天皇…<略>…細川藤孝(幽斎)━忠興(奥州家・輝経の養子)━立孝(忠利の弟)…<略>(宇土藩主家)…立禮(斉茲)━立之(斉樹の兄)━立政(斉護)━護久━護立━護貞━護熙━護光
- 別説(足利将軍家落胤説)
- 清和天皇━貞純親王━源経基…<略>…義国━足利義康…<略>…義晴━細川藤孝(幽斎)━忠興…<略>(同上)…斉護━護久━護立━護貞━護熙━護光
明智光秀の子孫としては
明智光秀━細川ガラシャ━細川忠隆━徳姫━西園寺公満━久我通名室━長松院━池田継政室━池田宗政━相良長寛━相良頼徳━相良頼之━池田章政━池田詮政━細川博子━護貞━護熙━護光
略年譜
1938年
1月14日 - 出生(父・護貞、母・温子)。
1953年
3月 - 栄光学園中学校卒業[48]。
1956年
- 3月 - 学習院高等科卒業。
1963年
- 3月 - 上智大学法学部卒業。
4月 - 朝日新聞社入社。
1968年
11月 - 朝日新聞社退社。
1969年
12月27日 - 第32回衆議院議員総選挙(旧熊本1区・無所属)落選。
1971年
6月22日 - 第9回参議院議員通常選挙(全国区・自由民主党公認)当選。
1975年
12月 - 大蔵政務次官就任。
1977年
7月10日 - 第11回参議院議員通常選挙(熊本地方区・自由民主党公認)2期目当選。
1983年
2月 - 熊本県知事選挙(無所属)当選。
1987年
2月 - 熊本県知事選挙(無所属)再選。
1991年
2月 - 熊本県知事(無所属)退任。
4月 - 東海大学客員教授就任。
4月 - 総合研究開発機構(NIRA)特別研究員就任(1992年6月まで)。
10月 - 上智大学非常勤講師就任(1992年2月まで)。
1992年
5月22日 - 日本新党結成、党代表就任。
7月26日 - 第16回参議院議員通常選挙(比例区・日本新党公認)3期目当選。
1993年
7月18日 - 第40回衆議院議員総選挙(旧熊本1区・日本新党公認)当選。
8月9日 - 内閣総理大臣就任、細川内閣発足。
1994年
4月28日 - 細川内閣総辞職。
12月9日 - 日本新党解散。
12月10日 - 新進党結党。
1996年
10月20日 - 第41回衆議院議員総選挙(熊本1区・新進党公認)当選。
1997年
6月18日 - 新進党離党。
12月26日 - フロムファイブ結成、党代表就任。
1998年
1月23日 - フロムファイブ解散、民政党結成、政権構想委員会委員長就任。
4月27日 - 民政党解散、民主党結成。
5月7日 - 衆議院議員辞職。
7月1日 - ジャパンタイムズ特別顧問就任。
2011年
2月 - 東北芸術工科大学、京都造形芸術大学学園長就任。
2012年
5月25日 - 瓦礫を活かす森の長城プロジェクト設立、理事長就任。
文献
著書
- 『景観づくりを考える』中村良夫との共著、技報堂出版、1989年10月、ISBN 4-7655-1498-6
- 『地方の経営 : シナリオとその戦略』内外情勢調査会、1989年
- 『鄙(ひな)の論理』 岩國哲人と共著、光文社、1991年1月、ISBN 4-334-05180-4
- 『明日はござなくそうろう リーダーの条件』 ダイヤモンド社、1991年3月、ISBN 4-478-70061-3
- 『権不十年』 日本放送出版協会、1992年1月、ISBN 4-14-008803-6
- 『日本新党責任ある変革』 東洋経済新報社、1993年4月、ISBN 4-492-21048-2
- 『The time to act is now thoughts for a new Japan』 NTT Mediascope、1993年
- 『細川内閣総理大臣演説集』日本広報協会、1996年12月
- 『内訟録 細川護熙総理大臣日記』 伊集院敦構成 2010年5月、日本経済新聞出版社-編者は日本経済新聞記者。
芸術活動の著作(政界引退後)
- 『不東庵日常』 小学館、2004年6月、ISBN 4-09-387507-3
- 『ことばを旅する』 文藝春秋、2008年8月、ISBN 4-16-370500-7。文春文庫、2011年1月
- 『跡無き工夫-削ぎ落とした生き方』 角川書店[角川oneテーマ21新書]、2009年11月、ISBN 4-04-710204-0
- 『閑居の庭から 不東庵日常 続』 小学館、2009年12月、ISBN 4-09-387866-8
- 『胸中の山水』 青草書房、2011年10月、ISBN 4-903735-18-4
- 『中国 詩心を旅する』 文藝春秋、2013年3月、ISBN 4-16-376180-2。文春文庫、2016年5月
- 『晴耕雨読 細川護煕作品集』 新潮社、2007年、ISBN 4-10-304331-8。茶器などの作品写真集。以下は、主な「作品図録」
- 『細川護煕展』壺中居、2003年[注釈 1]
- 『細川護熙展』壺中居、2004年
- 『五周年記念 細川護熙の作陶』 茶道資料館、2005年
- 『細川護煕展』壺中居、2006年
- 『細川護熙 数寄の世界展』高島屋日本橋店、2007年4月
- 『細川護熙展』壺中居、2009年
- 『細川護熙展』三越、2010年3月-9月、パリ三越エトワールと全国数ヶ所の展覧会で開いた。
※以下は、各.編著
- 『Seeing Japan 日本 うるわしき姿』 チャールス・ウィプル(Charles Whipple)-英文ビジュアル本「序文」
Kodansha International(講談社インターナショナル)、2005年、ISBN 4-7700-2337-5
- 『美に生きた細川護立の眼』 求龍堂、2010年6月、ISBN 4-7630-1001-8
出演番組
- 細川護熙・この人に会いたい(1999年10月10日 - 2002年10月6日、日曜日22:30 - 23:00→23:00 - 23:30[注釈 2]、TBSラジオ放送[注釈 3]。ジャンプコーポレーション制作[49])
脚注
注釈
^ 作陶のほか、書、水墨、茶杓、漆芸なども手がける。「個展」を2001年より毎年日本各地で、海外でも2003年にパリ、2007年にニューヨークで行った。
^ 最後の半年間は、『平尾昌晃・マイソングマイウェイ』と枠交換する形で放送時間を変更した。
^ 放送開始日時・放送時間(2002年3月まで)については、『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』ラジオ番組データベースより、「ラジオ番組」→「出演者別リスト」→「ほ」→「細川護熙」節→『細川護熙この人に会いたい』番組情報を参照。
出典
^ “地方選 > 細川元首相の動向注目、小泉氏と連携で「勝機」”. 読売新聞. (2014年1月10日). オリジナルの2014年1月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140113083853/http://www.yomiuri.co.jp/election/local/news/20140110-OYT1T00178.htm 2014年1月14日閲覧。
^ 「毎日新聞」鹿児島版2010年11月29日号 ペン&ぺん:県警余話 /鹿児島
^ 「産經新聞」 【わたしの失敗】元首相・細川護熙さん(69)(1) (2/2ページ) 2007.9.25 07:27
^ 細川護煕; 岩国哲人 『鄙(ひな)の論理』 光文社〈カッパ・ホームス〉、1991年、240頁。ISBN 4334051804。
^ 田中秀征「判断力と決断力」第4章 細川内閣を生んだ決断
^ 週刊文春2005年31号P190~191(ワイド大特集 戦後60年重大事件の目撃者 私は現場にいた!) 「細川政権誕生を決定づけた田中秀征「この指とまれ」作戦」
^ 田中秀征「判断力と決断力」第4章 細川内閣を生んだ決断P107
^ “細川氏、小泉氏の協力頼み 猪瀬氏より決定的な"過去"も 都知事選”. ZAKZAK(夕刊フジ). オリジナルの2014年1月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140113030843/http://news.livedoor.com/article/image_detail/8421157/?img_id=5886230 2014年1月13日閲覧。
^ 細川首相退陣の引き金は「北朝鮮有事」だった (正論2002年7月号)
^ 『細川護煕 : 閑居に生きる』 小学館〈和樂ムック〉、2009年。ISBN 9784091054531。 に詳しく紹介されている。
^ 「12日の理事会で本学学園長に元首相 細川護熙氏の選任を決定」東北芸術工科大学。
^ 「細川元首相、東北芸工大と京都造形大の学園長に就任」朝日新聞社、2011年1月13日。[リンク切れ]
^ “元首相の細川氏、学園長ポストに 東北芸工大が新設、学内外へ提言”. 山形新聞. (2011年1月8日). オリジナルの2011年1月10日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110110005828/http://yamagata-np.jp/news/201101/08/kj_2011010800099.php 2018年8月15日閲覧。
- ^ ab「学校法人東北芸術工科大学の統合について――両法人の統合契約書を両理事会で承認し、7月下旬までに文部科学大臣に申請へ」『学校法人東北芸術工科大学と学校法人瓜生山学園の法人統合に関しまして』東北芸術工科大学、2011年6月16日。
^ “『首相やれるのは小沢氏だけ』=細川元首相が電話で激励”. 時事通信. (2010年9月7日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010090700967 [リンク切れ]
^ 赤坂太郎「『菅抜き連立』主役たちの同床異夢――小沢は森・大島に秋波を送り、前原は安倍と気脈を通じる。ポスト菅を巡る蠢動」、『文藝春秋』第89巻第6号、2011年6月1日、 225頁。
^ “野田、小沢会談を仲介 細川元首相”. 産経新聞社. (2011年9月3日) [リンク切れ]
^ 都知事選 細川元首相、出馬へ 来週、正式表明、小泉氏とも会談産経新聞(2014年1月10日)2014年1月10日閲覧
^ “進次郎氏、小泉元首相の細川氏支援に理解「そうだろうなと」”. 産経新聞. (2014年1月15日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140115/stt14011513430005-n1.htm 2014年1月15日閲覧。
^ “細川護熙氏支持を表明した「脱原発都知事を実現する会」記者会見 -「これは宇都宮氏との戦いではない」”. IWJ Independent Web Journal (2014年1月20日). 2014年1月23日閲覧。
^ 細川氏を「勝手連」支援=民主都連が方針-都知事選時事ドットコム 2014年1月11日
^ 細川元首相を支援する迷惑な「トロイカ」自民は“期待感” 夕刊フジ 2014年1月11日(2014年1月14日閲覧)
^ 板垣英憲 2014年01月14日 02:30 細川護煕元首相が、東京都知事選挙出馬、小沢一郎代表が「潤沢な軍資金」でタップリ支援し当選させる BLOGOS 2014年1月11日(2014年1月15日閲覧)
^ 都知事選における脱原発候補統一について(2014年7月5日閲覧)
^ 都知事選における脱原発候補統一について(2014年7月5日閲覧)
^ 都知事選における脱原発候補統一について(2014年7月5日閲覧)
^ 日々の雑感 310:(都知事選)私は鎌田慧氏の主張を支持する(2014年7月5日閲覧)
^ 都知事選総括(2014年7月5日閲覧)
^ “過去の佐川急便1億円借入問題がぶり返す 細川元首相側「全額返した」に疑問の声も - 「猪瀬直樹前都知事と同じ状況ではないか」”. J-CASTニュース (2014年1月14日). 2014年1月15日閲覧。
^ “過去の佐川急便1億円借入問題がぶり返す 細川元首相側「全額返した」に疑問の声も - 問題が再燃するかは、細川氏の釈明次第に”. J-CASTニュース (2014年1月14日). 2014年1月15日閲覧。
^ 細川氏の出馬表明会見、告示前日に…政策遅れで読売新聞 2014年1月18日
^ 都知事選告示まであと2日、公の議論ない異例の事態にTBS 2014年1月21日
^ 【社会】都民調査「投票行く」93% 都知事選 舛添氏、細川氏、宇都宮氏に支持 東京新聞・中日新聞 2014年1月13日(2014年1月15日閲覧)
^ 舛添氏、都知事選出馬を正式表明「五輪成功させる」 朝日新聞 2014年1月14日15時33分(2014年1月14日閲覧)
^ “【都知事選】東京「省エネ都市」宣言 細川氏公約案 東電に拠点建設要求”. 産経新聞 (2014年1月15日). 2014年1月15日閲覧。
^ “過去に五輪返上論…細川氏、発言の一貫性苦慮”. 読売新聞. (2014年1月16日). http://www.yomiuri.co.jp/election/local/news/20140116-OYT1T00211.htm 2014年1月16日閲覧。
^ “細川護煕氏「オリンピックは辞退するべきだった」 都知事選、各候補者の五輪政策とは”. ハフィントン・ポスト. (2014年1月18日). http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/17/hosokawa-anti-tokyo-olympic_n_4621112.html 2014年1月21日閲覧。
^ 東京都知事選挙(平成26年2月9日執行) 投開票結果 | 東京都選挙管理委員会
^ 2007年9月26日付 産経新聞「わたしの失敗(2)」より
^ 細川護煕(ほそかわもりひろ) - Tsキャスティング。
^ 2010年8月14日東京=聯合ニュース
^ 2010年8月14日東京=聯合ニュース
^ “特集:新・幸福論 対談 岸井成格×細川護熙氏 脱成長、質実求めて-毎日jp” (2013年9月19日). 2014年1月9日閲覧。
^ 春画の価値と魅力を再評価 大英博物館で初の特別展 2013年9月30日 iZa産経デジタル。
- ^ abc「タブーは破って…」日本初の春画展、18禁で今秋開催へ 2015年5月22日(まとめ) iZa産経デジタル。
^ 世界が先に驚いた「春画展」、京都に上陸 2016年2月28日 ADC文化通信。
^ 一般社団法人自然エネルギー推進会議
^ 卒業が1年遅れているのは数学で赤点を取って落第したためである。産経ニュース2007年9月27日【わたしの失敗】元首相・細川護熙さん(69)(3)を参照。
^ 株式会社ジャンプコーポレーション公式サイト内ラジオ制作部ページ[リンク切れ] - 2001年1月15日現在の情報が掲載。放送時間は日曜22:30 - 23:00となっている。
参考資料
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
DVD-ROM『ハイブリッド検索編』
関連項目
- フォーリン・アフェアーズ
- 松野頼三
- 松岡満寿男
- 小池百合子
外部リンク
- 細川護熙 公式ホームページ
細川護熙 (@morihirotokyo) - Twitter
歴代総理の写真と経歴 - 細川を紹介する総理大臣官邸のページ
京都造形芸術大学:学園長 メッセージ - 細川を紹介する京都造形芸術大学のページ
細川護煕 プロフィール - 細川を紹介するオーディックのページ- 細川氏系譜
- 細川氏系譜2
TBSラジオの公式サイト内に配信されていたプロフィール - インターネットアーカイブ2002年7月1日付保存キャッシュ
公職 | ||
---|---|---|
先代: 宮澤喜一 | 内閣総理大臣 第79代:1993年 - 1994年 | 次代: 羽田孜 |
党職 | ||
先代: 結成 | フロム・ファイブ代表 初代:1997年 - 1998年 | 次代: 民政党へ |
先代: 結成 | 日本新党代表 初代:1992年 - 1994年 | 次代: 新進党へ |
名誉職 | ||
先代: 峯山昭範 | 最年少参議院議員 1971年7月 - 1972年10月 | 次代: 斎藤十朗 |
学職 | ||
先代: 新設 | 東北芸術工科大学学園長 初代:2011年 - 2014年 | 次代: 空席 |
先代: 新設 | 京都造形芸術大学学園長 初代:2011年 -2014年 | 次代: 徳山詳直 |
文化 | ||
先代: 細川護貞 | 永青文庫理事長 2005年 - | 次代: 現職 |
歴代内閣総理大臣 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第78代 宮澤喜一 | 第79代 1993年 - 1994年 | 第80代 羽田孜 | ||||||
伊藤博文 | 寺内正毅 | 濱口雄幸 | 阿部信行 | 片山哲 | 三木武夫 | 宮澤喜一 | 安倍晋三 |
|
|
|