キャスパー・ワインバーガー
キャスパー・ワインバーガー Caspar Weinberger | |
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キャスパー・ワインバーガー | |
生年月日 | (1917-08-18) 1917年8月18日 |
出生地 | アメリカ合衆国、カリフォルニア州サンフランシスコ |
没年月日 | (2006-03-28) 2006年3月28日(88歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国、メイン州バンゴー |
出身校 | ハーバード大学 (B.A.) ハーバード・ロー・スクール (J.D.) |
前職 | 法律家 |
所属政党 | 共和党 |
配偶者 | ジェーン・ワインバーガー (1942-2006) |
第20代アメリカ合衆国行政管理予算局長 | |
在任期間 | 1972年6月12日 - 1973年2月1日 |
大統領 | リチャード・ニクソン |
第10代アメリカ合衆国保健教育福祉長官 | |
在任期間 | 1973年2月12日 - 1975年8月8日 |
大統領 | リチャード・ニクソン ジェラルド・フォード |
第15代アメリカ合衆国国防長官 | |
在任期間 | 1981年1月21日 - 1987年11月23日 |
大統領 | ロナルド・レーガン |
キャスパー「キャップ」・ウィラード・ワインバーガー(英語: Caspar "Cap" Willard Weinberger, 1917年8月18日 - 2006年3月28日)は、アメリカ合衆国の政治家、法律家。リチャード・ニクソン政権で行政管理予算局局長、保健教育福祉長官。ロナルド・レーガン政権で第15代国防長官(在任期間:1981年1月21日 - 1987年11月23日)を務めた。
国防長官としては、歴代国防長官経験者の中で3番目に長い在任期間(約6年10ヶ月)[1]を誇り、この間レーガン大統領の下、冷戦期のアメリカ国防政策、戦略を指導した。特に戦略防衛構想(SDI)の推進や、イラン・コントラ疑惑の際に訴追されたことなどが知られる。国防長官辞任後は雑誌『フォーブス』の発行人も務めたほか、イラン・イラク戦争時はイラク援助に政府内で最も積極的だった[2]にも関わらず、2003年のイラク戦争開戦前にはサッダーム・フセイン政権の転覆を唱えるなどタカ派の論客として活躍した。
このように強硬派として知られる一方で、1987年12月にワシントンで署名される予定であった中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)に反対の立場を取っているとされることについて自身も特に否定しているが、国防長官就任当初、最初に同条約の骨子を主張したのはワインバーガーである。
目次
1 生い立ち
2 弁護士として
3 政治家
3.1 共和党政治家として
3.2 国防長官
3.3 イラン・コントラ事件
4 国防長官後、晩年
5 栄典
6 脚注
7 外部リンク
生い立ち
1917年8月18日、カリフォルニア州サンフランシスコにヘルマン・ワインバーガー、セリーズ・カーペンター・ハンプソン夫妻を両親として生まれる。父はコロラド州出身の弁護士であり、母はヴァイオリニストだった。また、父方の曾祖父ナタン・ワインバーガー(ヴァインベルガー)はボヘミア出身の東欧系ユダヤ人であり、母方の祖父母はイングランドからの移民で米国聖公会の信者であった。
1938年ハーバード大学を卒業し、マグナ・クム・ラウデで学位を得る。さらに1941年には同大学のロースクールを修了し、法務博士号(J.D.)を取得する。同年アメリカ軍に兵卒として入隊し、第41歩兵師団に所属、太平洋地域に派遣される。終戦直前には陸軍大尉に昇進し、ダグラス・マッカーサー麾下で、情報担当の参謀を務めた。このような経歴を経て、ワインバーガーは早い時期から政治と歴史に対して関心を抱くようになった。特にウィンストン・チャーチルから大きな影響を受け、チャーチルに対して特別な賛辞を贈るようになり、後にはしばしば彼の言葉を引用するようにまでなった。
弁護士として
戦後の1945年、軍を除隊したワインバーガーは、連邦裁判所判事のもとでロー・クラークを務める。ロー・クラークの任期満了後の1947年にサンフランシスコの法律事務所に移り、弁護士活動に入った。
政治家
共和党政治家として
1952年、カリフォルニア州議会下院議員選挙に立候補して当選、3期務める。在任中は下院政府組織委員会の委員長を務め、主に州の水資源を管轄するカリフォルニア州水資源省の設置やカリフォルニア州水道プロジェクトの策定などに深く携わった。1958年には州司法長官選挙に出馬したものの落選するが、その後もカリフォルニアでの政治活動を継続し、1962年には共和党カリフォルニア州委員長に就任する。
1966年、ロナルド・レーガンが共和党からカリフォルニア州知事選挙に出馬・当選すると、ワインバーガーは1967年に州行政管理・経済委員会委員長に、翌1968年には州財務長官に任命される。1970年には連邦政府に移り、ニクソン政権において連邦貿易委員会委員長に就任する。さらに同年、行政管理予算局副局長に転じると、1972年には同局長に昇格、1973年には保健教育福祉長官に任命される。ニクソン大統領辞任後はカリフォルニア州に戻り、地元企業のベクテル社の副社長などを務めた。
国防長官
1981年、レーガン政権が誕生するとワインバーガーは、国防長官に就任した。ワインバーガーは、軍務についた以外は国防、安全保障分野に関する経験は皆無に等しかったが、ワシントンでは有能な実務家として知られていた。行政費用を大幅に削減した際には、その辣腕家ぶりから「キャップ・ザ・ナイフ」(Cap the Knife)の異名を奉られていた。ワインバーガーはレーガン大統領とともにアメリカに対してソビエト連邦が重大な脅威を生み出していると強く確信し、共に対ソ強硬論を主張した。そして軍備増強と軍の近代化の推進を主導していく。キャップ・ザ・ナイフの異名が偽りかのごとく、国防長官に就任したワインバーガーは、レーガノミクスによって他の省庁が予算を削減されていく中、レーガンのアメリカ軍増強策に歩調を合わせる形で国防予算を膨張させていった。国防総省の内部では、即応力、維持能力および近代化が合言葉となっていった。国防長官在任初期の数年は、ワインバーガーは、巨額の国防予算を軍に注ぐ「キャップ・ザ・レードル」(Cap the Ladle、柄杓のキャップ)として知れ渡った。
国防長官として、ワインバーガーは、アメリカ軍の大規模な再建を督励した。ワインバーガーは、アメリカの核兵器保有量の一層の増加を後押しした。さらに一般に「スター・ウォーズ計画」の名で知られた戦略防衛構想(SDI)を強硬に主張した。レーガンとワインバーガーが実行したアメリカの大軍拡は、巨大な経済的、軍事的圧力となって「悪の帝国」ソ連に向けられた。ソ連はアメリカに対抗する軍拡を実行するにはあまりにも社会主義システムが停滞し、ゴルバチョフによるペレストロイカの開始を迎える。このことが冷戦終結、ついにはソ連崩壊に繋がっていった。東西冷戦崩壊と国際秩序の変化はもたらされたが、その代償は、双子の赤字に代表されるアメリカ経済の疲弊であった。
イラン・コントラ事件
1986年11月、レバノンの新聞『アルシラア』誌によって、アメリカが密かに武器をイランに売却したと報道された。イラン・コントラ事件(イランゲート事件)である。ワインバーガーは、イランへ対戦戦車ミサイル売却に関与していた。その後、武器の売却に原則として反対したと弁明するが、事件の真相を求める圧力と国防予算の成立を前に、1987年11月23日夫人の健康状態を理由に国防長官を辞任した。しかし、辞任後のワインバーガーは特別検察官に指名されたローレンス・E・ウォルシュによって起訴された。ワインバーガーはイラン・コントラ事件において、いくつかの重罪訴因が存在したとして特別検察官によって形式起訴を受けたが、1992年12月24日、ブッシュ大統領によって恩赦を受けた。
国防長官後、晩年
ワインバーガーは1人の大統領に仕えた人物としては最長の6年10か月(2人の大統領にまたがる最長在任者はロバート・マクナマラ)国防長官に在任した。辞任後の1989年に『フォーブズ』誌の発行人となる。1993年会長に就任。その後、10年以上に渡り、国防、安全保障問題について積極的に発言した。1990年代には国防長官時代を回顧した『平和のための戦い』(Fighting for Peace)を執筆したほか、1996年冷戦終了後のアメリカ軍について記述した『次の戦争』(The Next War)を発表した。ワインバーガーがこれらの著作を発表したことに対しては、レーガン政権時代の同僚達から批判が上がり、出版後、接触を拒否する者も現れた。
メーン州マウント・デザート島に滞在中の2006年に病に倒れ、3月28日メーン州バンゴアの病院で肺炎による合併症のため死去した。88歳だった。
同日ブッシュ大統領は、「アメリカ軍を強化し、冷戦を勝ち取るために尽力した」とステートメントを出した。ドナルド・ラムズフェルド国防長官も記者会見で「冷戦に勝利する中心的な役割を果たした」とワインバーガーの死を悼んだ。
2006年4月4日、アーリントン国立墓地に埋葬された。
栄典
大統領自由勲章(1987年)- 大英帝国勲章
勲一等旭日大綬章(1988年)
脚注
^ 歴代国防長官経験者の中で最も在任期間が長いのは、ジョン・F・ケネディ政権とそれに続くリンドン・ジョンソン政権で長官を務めたロバート・マクナマラ(約7年1ヶ月)であり、2番目に長いのはジェラルド・フォード政権とジョージ・W・ブッシュ政権で長官を務めたドナルド・ラムズフェルド(約7年1ヶ月、ただし正確な日数ではマクナマラの方が上回っている)である。ただし、これは連続在任期間ではなくトータルの在任期間であって、マクナマラとワインバーガーの両名の場合はいずれも連続して在任していたのに対し、ラムズフェルドの場合はフォード政権で約1年2ヶ月務めたのちジミー・カーター政権への交代に伴って退任し、それから24年後に再びジョージ・W・ブッシュ政権で長官に就任し、約5年11ヶ月務めるという不規則な形となっている。
^ アラン・フリードマン「だれがサダムを育てたか アメリカ兵器密売の10年」
外部リンク
経歴(国防総省公式ホームページ内)(英語)
Caspar Weinberger Dies At 88 - フォーブズ誌死亡記事(英語)
インタビュー (MP3)
BBCニュースによる死去報道 (英語)
経歴 (英語)
- Interview about the MX missiles for the WGBH series
- War and Peace in the Nuclear Age
キャスパー・ワインバーガー - Find a Grave
Baltimore Sun obituary
キャスパー・ワインバーガー - インターネット・ムービー・データベース(英語)
公職 | ||
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先代: ジョージ・シュルツ | アメリカ合衆国行政管理予算長官 1972年 - 1973年 | 次代: ロイ・アッシュ |
先代: エリオット・リチャードソン | アメリカ合衆国保健教育福祉長官 1973年2月12日 - 1975年8月8日 | 次代: フォレスト・デイヴィッド・マシューズ |
先代: ハロルド・ブラウン | アメリカ合衆国国防長官 1981年1月21日 - 1987年11月23日 | 次代: フランク・カールッチ |
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