大久保往忠
凡例 大久保 往忠 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄13年(1700年) |
死没 | 宝暦13年5月24日(1763年6月23日) |
改名 | 忠敏(初名)→往忠、卜玄 |
別名 | 通称:熊之丞、八郎五郎 |
戒名 | 日理 |
官位 | 従五位下伊勢守 |
幕府 | 江戸幕府 小姓、菊間広縁詰 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 紀伊国紀州藩士 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠直、母:内藤守政の娘 |
兄弟 | 深徳院、忠寛、往忠 |
妻 | 正室:高力長行の娘 |
子 | 養子:忠翰 |
大久保 往忠(おおくぼ ゆきただ)は、江戸時代中期の旗本。紀州藩士大久保忠直の次男で、徳川吉宗の側室お須磨(深徳院、徳川家重生母)の弟。母は紀州藩士内藤幸右衛門守政の娘。
生涯
元禄13年(1700年)、紀州藩士・大久保忠直の次男として生まれる。紀州藩に仕え、享保元年(1716年)に徳川吉宗が第8代将軍に就任するとその小姓となり300俵を給う。
享保2年(1717年)10月2日に兄忠寛が没すると、12月21日に遺領の下野国都賀郡、河内郡700石を相続する。享保9年(1724年)12月15日、都賀郡内で1,300石加増され2,000石となり、従五位下伊勢守に叙任される。翌享保10年(1725年)11月28日、徳川吉宗の側に仕え、河内郡内において3,000石を加増され、計5,000石となる。元文4年(1739年)5月25日、公務を許され、菊間広縁詰めとなり、時服5領を賜る。
宝暦9年(1759年)8月5日隠居し、卜玄と号する。家督は養子の忠翰(鳥居忠瞭次男)が継いだ。宝暦13年(1763年)5月24日、死去した。享年64。