浦和レッドダイヤモンズ
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浦和レッドダイヤモンズ | |||
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原語表記 | 浦和レッドダイヤモンズ | ||
呼称 | 浦和レッズ | ||
愛称 | レッズ・赤い悪魔 | ||
クラブカラー | レッド[1] | ||
創設年 | 1950年 | ||
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ | ||
所属ディビジョン | J1リーグ | ||
クラブライセンス | J1 | ||
ホームタウン | 埼玉県さいたま市[1] | ||
ホームスタジアム | 埼玉スタジアム[1] 浦和駒場スタジアム[1] | ||
収容人数 | 埼玉:62,010[1] 駒場:21,500[1] | ||
運営法人 | 浦和レッドダイヤモンズ株式会社[1] | ||
代表者 | 淵田敬三[1] | ||
監督 | オズワルド・オリヴェイラ | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
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今シーズン | |||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ、Urawa Red Diamonds)は、日本の埼玉県さいたま市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は浦和レッズ(うらわレッズ)である。
目次
1 概要
1.1 運営会社
1.2 クラブの経営状況
1.3 地域への貢献
1.4 国際交流
2 歴史
2.1 浦和レッドダイヤモンズ発足まで
2.2 1990年代
2.2.1 1992年 - 1994年
2.2.2 1995年 - 1998年
2.2.3 1999年
2.3 2000年代
2.3.1 2000年
2.3.2 2001年
2.3.3 2002年
2.3.4 2003年
2.3.5 2004年
2.3.6 2005年
2.3.7 2006年
2.3.8 2007年
2.3.9 2008年
2.3.10 2009年
2.4 2010年代
2.4.1 2010年
2.4.2 2011年
2.4.3 2012年
2.4.4 2013年
2.4.5 2014年
2.4.6 2015年
2.4.7 2016年
2.4.8 2017年
2.4.9 2018年
3 成績
4 ダービーマッチ
5 タイトル・表彰
5.1 国内タイトル
5.2 国際タイトル
5.3 その他タイトル
5.4 表彰
5.5 その他表彰
6 クラブ記録
6.1 最多得点試合
6.2 最多失点試合
6.3 最多失点勝利試合
6.4 最多得点敗戦試合
6.5 最多得点(失点)引分試合
6.6 最多連続無敗試合
6.7 最多連勝
6.8 最多連敗
6.9 同一カード最多連勝
6.10 同一カード最多連敗
7 個人記録
7.1 通算最多試合出場
7.2 最多連続試合出場
7.3 最年少試合出場
7.4 最年長試合出場
7.5 シーズンフルタイム出場
7.6 通算最多得点
7.7 最多連続得点試合
7.8 シーズン最多得点
7.9 1試合最多得点
7.10 GK通算最多得点
7.11 最年少得点
7.12 最年長得点
7.13 ハットトリック
7.14 その他記録
8 スタジアム
8.1 ホームスタジアム
8.2 年度別観客動員記録
8.3 カップ戦(Jリーグ杯・ACL)での主催試合使用スタジアム
8.4 最多観客動員試合
8.4.1 J1
8.4.2 J2
8.5 最少観客動員試合
8.5.1 J1
8.5.2 J2
9 ユニフォーム
9.1 チームカラー
9.2 ユニフォームスポンサー
9.3 練習着(プラクティスウェア)スポンサー
9.4 ユニフォームサプライの遍歴
9.5 歴代ユニフォーム
9.6 歴代ユニフォームスポンサー年表
10 パートナー(スポンサー)
11 アカデミー
11.1 ユース
11.2 ジュニアユース
11.3 ジュニア
11.4 出身選手
11.5 ハートフルスクール
12 マスコット
13 エンブレム
14 入場曲・ 公式ソング
15 サポーター
16 メディア
17 ホームタウン浦和
18 決算
18.1 損益
18.2 資産
19 脚注・出典
19.1 注記
19.2 出典
20 関連項目
21 外部リンク
概要
三菱自動車工業サッカー部(1950年創部)を前身とするサッカークラブで、1991年にJリーグ加盟した10チーム(オリジナル10)の一つ。ホームタウンは埼玉県さいたま市(旧浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002[1]、練習グラウンドはさいたま市大原サッカー場である[1]。チーム名は「ダイヤモンド」の最高の輝き、固い結束力に由来し[1]、クラブカラーである「レッド」[1] と組合わせたものである。
国内三大タイトル(J1リーグ、Jリーグカップ、天皇杯全日本サッカー選手権大会)を全て獲得しているクラブの一つであり、Jリーグクラブで初めてAFCチャンピオンズリーグで複数回優勝を成し遂げたクラブである[注 1]。また、観客動員と営業収入においては、長年Jリーグ加盟クラブ中最高の成績を維持し続けている(当項目を参照のこと)。
運営会社
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 | 日本 〒336-8505 埼玉県さいたま市緑区美園2-1[1] |
設立 | 1992年7月17日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 9030001008072 |
事業内容 | サッカークラブの運営他 |
代表者 | 淵田敬三 |
資本金 | 2億7,300万円(2018年1月現在[2] |
発行済株式総数 | 4,000株[3] |
売上高 | 79億7,100万円 (2018年1月期)[2] |
営業利益 | 5億5,600万円 (2018年1月期)[2] |
経常利益 | 5億3,600万円 (2018年1月期)[2] |
純利益 | 3億3,000万円 (2018年1月期)[2] |
純資産 | 15億1,800万円 (2018年1月期)[2] |
総資産 | 31億3,600万円 (2018年1月期)[2] |
決算期 | 1月期 |
主要株主 | ダイヤモンドF.C.パートナーズ 50.75% さいたま市 4.00% 埼玉県 4.00%他[3] |
外部リンク | http://www.urawa-reds.co.jp |
特記事項:1992年から2012年5月までの社名は、「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」。 |
運営会社は「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」。埼玉県さいたま市緑区の埼玉スタジアム2002内に本社を置く。
三菱自動車工業(三菱自工)の全額出資により設立された(設立当初の商号は「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」)。1996年の増資時に埼玉県と浦和市の出資を受けた。更に2000年に埼玉県内の複数の企業および三菱グループ他社など計27社[注 2]から出資を受け、三菱自工は引き続き株式の過半数(50.625%)を保有する筆頭株主であった。
しかし2016年、三菱自工が燃費試験の不正問題に起因する経営難から再建を図る際に日産自動車(日産)が株式を34%保有する単独筆頭株主となったため、日産が株式の約75%を保有する横浜F・マリノスとの間で、Jリーグクラブの親会社が他クラブの親会社の株式の保有を禁じるJリーグ規約第25条(5)の規定[注 3]に抵触する可能性が生じた[6]。これについて、Jリーグチェアマンの村井満が2016年6月の臨時理事会後に「クラブライセンス交付第1審機関 (FIB) が(レッズが日産及び三菱自の子会社・関連会社に該当するかを)認定するためJリーグ側では認定できない」とした上で「現状ではJリーグの規約に抵触する可能性が高い」との見解を表明した[7]。
三菱自工およびクラブ側で株式の委譲などを検討した結果、2016年10月31日に、三菱自工が三菱重工業と共同出資して持株会社「ダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表[8]。これにより三菱自工の間接出資比率が19.8%となったことで問題を解消した[9]。
2017年1月に1億1280万円の第三者割当増資を実施し、新たに15社[注 4]が株主に加わり、株主数は43社・2団体となった[3]。なお、ダイヤモンドF.C.パートナーズも増資を引き受け(410株)、同社が過半の株式を保有する状況に変わりは無い。
クラブの経営状況
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Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。
- 1996年-1999年、2001年-2002年、2006年以降と過去に18シーズンでJリーグ観客動員1位を記録。2007年はナビスコ杯4試合、ACL6試合とカップ戦を含めた年間観客動員数がJリーグクラブでは初めて100万人を突破し、2008年はリーグ戦でJリーグ史上最高となる809,353人を動員した。2012年8月4日FC東京との試合で1000万人を動員した。
- 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%[11])、割引率10%未満にもかかわらずシーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
ユニフォームサプライヤーは、1993年から1996年のリーグ戦[注 5] でのミズノ、並びに1997年のリーグ戦でのUMBROを除き、過去は一貫してプーマであったが、2004年からナイキが独占供給契約を結んでおり、2007年からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。
地域への貢献
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- 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5000万円をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・特別支援学校に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグのさいたまレイナスFCを統合し、浦和レッズ・レディースを設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
埼玉県内における浦和レッズがもたらす経済波及効果 [1] は、年間127億円(2006年度ベース)[12]。そのうち、直接効果はクラブの支出68億55百万円とサポーターの交通費・飲食代21億25百万円の合計89億80百万円となり、一次波及効果は16億74百万円、二次波及効果が20億65百万円で、経済波及効果の合計は127億19百万円と算出されている [2]。これにはスカパー!(スカパー!プレミアムサービス含む)や、ケーブルテレビ等のJリーグ有料放送の視聴増加分や大画面テレビ等の購入促進効果、地元でのサッカー人気の盛り上がりに伴う消費拡大などは含まれていない。- 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一、土橋正樹、宮沢克行ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園(レッズキッズサッカー)、小学校授業サポート、中学校サッカー部活動サポートなどを巡回実施し、また障害者にサッカーの場の提供を行うなど地域貢献にも力を入れている。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
Jリーグ百年構想の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元東京農業大学グラウンド)にサッカー場(天然芝2面・人工芝1面)、フットサル場(人工芝8面)、テニス場(全天候型など9面)、野球場(天然芝1面)、ラグビー場(天然芝1面)、サイクリングコース、キャンプ場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランドとして一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館の指定管理者となった。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。- そのほか、2011年3月11日の東日本大震災の復興を支援するために「東日本大震災等支援プロジェクト」に取り組み、サッカーを通じて子どもたちの心のケアに努めている。
国際交流
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- アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ2007(ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催。[13] 予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。
- 定期的にさいたまシティカップを開催し、海外のクラブチームと対戦している。
- 2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリード(スペイン)、チェルシーFC(イングランド)、ACミラン(イタリア)、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送された。
- 2014年、フランス『ラ・グリンタ』の「2013-14シーズンのコレオグラフィー・トップ10」で7位に選ばれた[14]。
- 2017年、スルガ銀行チャンピオンシップ2017でアソシアソン・シャペコエンセ・ジ・フチボウ(ブラジル)と対戦した際、同クラブの復興を願いトップチームやレディースチームのホームゲーム会場等で、義援金募金活動(募金合計:4,246,634円)を行った。さらに浦和レッズサポーターは募金活動への参加に加え、「サッカーを愛する仲間として、何か力になりたい」という思いから試合終了直後、ポルトガル語で「世界の舞台でもう一度会おう、友よ!」と書かれた横断幕と共に、緑色のビジュアルシートでゴール裏のスタンドを埋めた。その際に使用したビジュアルシートを、企画主旨に賛同したDHLジャパン株式会社(本社:東京都品川区 社長:山川丈人)の輸送支援を受けアソシアソン・シャペコエンセ・ジ・フチボウへ贈呈した[15]。また、AFCチャンピオンズリーグ2017で浦和が優勝した際、公式Twitterで祝福のメッセージが送られた[16]。
- 2017年、アメリカ『フォックス・スポーツ』による「最も筋金入りのファンを持つ5クラブ」に、CAリーベル・プレート(アルゼンチン)、ガラタサライSK(トルコ)、リヴァプールFC(イングランド)、FCバルセロナ(スペイン)と並び選出された[14]。
歴史
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浦和レッドダイヤモンズ発足まで
浦和市(当時)は当初、日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研サッカー部を誘致し[17]、本田技研狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属のNTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎に相談したところ、三菱自工の森孝慈を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた[18][19][20]。
三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。
こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した[19][20]。1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の一つに選出された。
1990年代
1992年 - 1994年
1992年 - Jリーグ開幕前に開催されたナビスコ杯に参加し、予選リーグを5勝4敗と勝ち越したが、予選5位で上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯はベスト4へ進出した。
1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、1993年シーズンは両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:V川崎)の優勝を目の前で決められた。なお、1993年シーズン終了後に当時監督の森孝慈は「3年間分負けた」と発言したほか、1993年・1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったが、このユニフォームを使用した試合では2年間で1勝もすることができなかった。- 当時の補強方針にも疑問符がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラが出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーンが結果を残せずセンターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロを獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの肝心のDFは補強されなかったため、出場3試合目の名古屋グランパス戦に大敗し3連敗を喫した後に報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」「もう帰りたい」とコメントするほどで、結果的にこの時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲだけであった。しかし、1994年のセカンドステージからギド・ブッフバルトやウーベ・バインが加入すると徐々に改善の兆しを見せていった。
- 1994年6月の第1ステージ・サントリーシリーズ後、駒場陸上競技場がJリーグ規格の15000人を下回るキャパシティ(当時約1万人収容)であり、Jリーグの勧告を受けるかたちで増築・改修を行うことを決め一時閉鎖。第2ステージ・NICOSシリーズ以後は大宮サッカー場(こちらも当時は約1万人収容でJリーグ規格外)でホームゲームを開催。
- 1994年11月19日第2ステージ・NICOSシリーズ最終節の横浜マリノス戦は、駒場陸上競技場が改修工事中だったことや、収容15,000人以上の関東のスタジアムに全て断られたことにより富山県総合運動公園陸上競技場で開催。
1995年 - 1998年
1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で躍進を遂げる。前年に加入した元ドイツ代表のDFブッフバルトの活躍によって守備が安定し、1995年の1stステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
- 同年サントリーシリーズは引き続いて大宮で主催試合を行ったが、NICOSシリーズが開幕する8月に駒場スタジアムの増築が完了し本拠地に復帰。
- その後は中位にとどまることが多くなる。背景には、三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。
- 通年シーズンであった1996年は第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず最終的に6位で終了。
1997年、攻撃的サッカーへの転換を図り新監督にホルスト・ケッペルを招聘するも、全く内容が伴わずわずか1年で退団。シーズン終了後にはブッフバルトが退団、移籍。
1998年は三菱OBの原博実監督の下、新加入の小野伸二やゼリコ・ペトロヴィッチを擁して2ndステージで3位となった。
1999年
- 小野や福田、外国人選手の故障、前年に好成績を残したことにより補強はいらないというフロントの判断で成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原を更迭、後任にア・デモスを迎えるが、最終戦で福田がVゴールを決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で年間順位15位でJリーグ ディビジョン2(J2)へ降格し、「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。シーズン途中に中村忠、路木龍次、フェルナンド・ピクン、中谷勇介を獲得、また留学していたカールスルーエSCから永井雄一郎を、練習生としてアヤックスに参加していた岡野雅行を呼び戻すも結果には結びつかなかった。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事はテレビや新聞、雑誌などでも特集された。
2000年代
2000年
- J2で迎えた2000年シーズンは鹿島アントラーズから阿部敏之、室井市衛を獲得するなど序盤は圧倒的な攻撃力で勝点を伸ばし首位を独走するも、中盤から終盤にかけ苦戦が続き、一時は3位に順位を落とした。この危機的状況に、急遽横山謙三をゼネラルマネージャーから総監督に昇格させて指揮をとらせた。またアジエル・デ・オリベイラ・アモリムを獲得し終盤に勢いをつけ、最終節のサガン鳥栖戦に土橋正樹の延長Vゴールで勝利して、3位大分トリニータとの勝点差わずか1ながらも2位でJ1への復帰を決めた(2000年J2最終節を参照)
2001年
- それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更を図ったが、ブラジルに強力なコネクションはなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノは全く機能しなかった。1stステージ終了後に小野伸二がオランダのフェイエノールトへ移籍、9月には岡野雅行が神戸へ期限付き移籍。川崎からエメルソンを獲得した。2ndステージも成績は振るわず、終盤2勝3分と5試合連続無敗により何とかJ1残留を果たした。
10月13日に埼玉スタジアム2002での杮落しの横浜FM戦が行なわれ、観客動員は当時のJリーグ記録となる60,553人とリーグ戦初の6万人試合となった。なお、埼玉スタジアムは2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムと共にホームスタジアムとして登録された。
2002年
- 森孝慈がGMとして復帰し積極的な補強を行う[21][22][23]。元日本代表監督のハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し再度ヨーロッパ路線へ戻る。2ndステージは第9節まで8勝1分と無敗で首位に立っていたが、その後6連敗で8位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島に敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
- 森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再出発し、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。
2003年
- チームスローガン:GO ON SAILING
- 11月に再びナビスコカップ決勝で鹿島と対戦。試合は大雨の中で行われたが、4-0の快勝で前年の雪辱を果たすと同時に初タイトルを獲得した。
- J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。なお、この年をもってオフトが監督を退任した。
- 前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。
- 3年かけてチームを強くしようとしたオフトの方針と早期にチームを結果を求める犬飼の要求に関して大きく揉めた。その結果、オフトは、シーズン終了後に解任された。
2004年
- チームスローガン:速く、激しく、外連味(けれんみ)なく REDS GO MARCHING ON
清水から三都主アレサンドロを獲得、岡野雅行が神戸より復帰。- 浦和OBのギド・ブッフバルトが監督に就任し、ヘッドコーチにゲルト・エンゲルスを迎える。ナビスコ杯は決勝でFC東京に敗れたが、第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、G大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝点37は15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝点記録であった。
- 駒場で行なわれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。また優勝決定直後には浦和駅周辺などで熱狂的サポーターが発煙筒を炊いたりバイクでパレードをするなど過熱化したが、ケガ人や逮捕者は出なかった。
- 12月5日・12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第1戦は横浜に0-1で敗れるも第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利し延長戦に突入。延長でも決着がつかずPK戦までもつれた末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦年間総合成績では初めて1位となった。
- 入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。
2005年
- チームスローガン:速く、激しく、外連味なく 〜TAKE OFF TOGETHER NOW !〜
- 開幕直前に山瀬功治が横浜FMへ移籍、シーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サッドへ完全移籍し、リーグ戦は最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しかできず最下位も味わい、スタートダッシュに失敗。それでも途中からMFロブソン・ポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強して最終節まで優勝争いに加わり、優勝したG大阪と勝点差1の勝点59で2年連続の年間2位となった。得点は82得点のG大阪に次ぐ65得点。更にリハビリから復帰した坪井慶介や2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王とシーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍でリーグ最少失点の37失点と、前半戦の苦しい戦いから見れば上々といえる内容であった。天皇杯はマリッチが5試合6得点と全試合で得点をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾り、2007年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝した。
- 2005年2月にさいたまレイナスFCを母体として女子チーム「浦和レッドダイヤモンズ・レディース」が発足。7月、レッズランドが仮オープンした。
- 2005年度より損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消。地域との結びつきを強めるための増資計画が公表されたが、2009年4月の時点で増資の予定は無いとリリースした[24]。
2006年
2006年Jリーグ基本フォーメーション 山岸 内舘 闘莉王 ネネ 平川 長谷部 鈴木 三都主 山田 ワシントン ポンテ |
- チームスローガン:RAISE YOUR SPIRITS! 〜速く、激しく、外連味なく〜
東京Vを契約満了となったFWワシントンとMF相馬崇人を完全移籍で、C大阪からFW黒部光昭を2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、更にフェイエノールトから小野伸二が2001年以来約5年ぶりに復帰した。
FUJI XEROX SUPER CUPはG大阪に3-1で勝利し、初めて同タイトルを獲得(前身の三菱重工時代にスーパーカップで3度優勝)。また、ホーム開幕戦の磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月にはフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。- ホーム開幕戦で初期のJリーグを含めJ1主催試合観客動員数が500万人を突破した。これはJリーグ加盟クラブ初。
- 前年はスタートダッシュの失敗が結果的にリーグ優勝を逃す要因となったが、この年は開幕から好調を維持して着実に勝点を積み上げ、第3節以降は常に3位以内をキープすると、更に第22節から6連勝して第25節に首位に立ってからは1度も明け渡すことはなかった。最終節は2位のG大阪とリーグ優勝をかけた直接対決で、3点差以上で敗北しない限り優勝という絶対的優位な条件の中で、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍で3-2で制し初のJリーグ優勝を果たす[25]。J2降格経験チームのJリーグ年間王者は浦和が初めてである。
- リーグ戦でのホームゲームでは15勝2分とJリーグ史上初のシーズンホームゲーム無敗を達成。また、優勝を決めた最終節の観客動員は62,241人と当時のJ1リーグ戦最多記録となった[26]。
- 天皇杯では決勝でG大阪を1-0で下してJリーグ開幕後初の天皇杯連覇を達成。同時にJリーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成し、2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なお、選手・監督としてレッズの発展に貢献したブッフバルトがこの試合を最後に監督を退任した。
- クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が10月にスタート。社長は藤口光紀に交代した。
- シーズン終了後、三都主アレサンドロがオーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクへ期限付き移籍。
2007年
- チームスローガン:Sing out Together Heartily
国際サッカー連盟の技術部長となっていたオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰した。- 開幕前にオーストリアのザルツブルクで行われたBulls Cupに出場。これは現地のオーストリア・ブンデスリーガに属するレッドブル・ザルツブルク主催によるイベント色が濃い国際大会であり、ドイツのバイエルン・ミュンヘンも出場した。45分の試合を総当りで3試合行う形式で実施され、レッズはザルツブルクに1-3、バイエルンに0-3と敗戦した。
FUJI XEROX SUPER CUPはG大阪に敗退。3月3日の開幕戦で前年J2優勝の横浜FCに2-1で勝利して2001年のJ1復帰以降初めて開幕戦で勝利した。- 3連覇を目指した5月のフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会は準々決勝で敗退した。
- 初出場となったAFCチャンピオンズリーグはグループ1位で決勝トーナメントに進出。準々決勝で前回王者の全北現代(韓国)、準決勝で城南一和(韓国)に勝利し、現行の大会となって以降ではJクラブ初の決勝進出を果たす。決勝ではセパハン(イラン)に1勝1分で日本のクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制覇した[27]。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝したことは大会史上初。なお、優勝によってFIFAクラブワールドカップ2007にアジア代表として参戦することが決定した。
- Jリーグでは2位以下に最大勝点差10をつけて首位にいたが、ACL優勝後に失速。33節には2位鹿島との直接対決にも敗れ、勝点差1の首位で最終節を迎えた。最終節では最下位の横浜FCに0-1と敗戦、勝点差1の鹿島が勝利したため連覇を逃し2位で終了した[28]。
天皇杯は初戦で愛媛FCに敗れ、天皇杯3連覇は成らなかった。
クラブワールドカップでは準々決勝(初戦)でセパハンに勝利。準決勝はACミラン(イタリア)に敗北したが、3位決定戦でエトワール・サヘル(チュニジア)にPK戦で勝利し3位の成績[29]。- 12月22日にACL優勝パレードが予定されていたが、Jリーグ連覇を逃したこともあり中止になった。しかし、ACLやクラブワールドカップでの躍進が評価され、Jリーグクラブで初となる日本プロスポーツ大賞を受賞した。
2008年
- チームスローガン:GO FORWARD HAND IN HAND
- 2008年シーズンに向けて、オフにはブンデスリーガ・フランクフルトから高原直泰、大分から梅崎司、新潟からエジミウソン、レッドブル・ザルツブルクから三都主アレサンドロが復帰と大型補強を敢行し、さらに福田正博がコーチとしてチームに復帰することになった。
- 万全を期して臨んだシーズンであったが、開幕早々に連敗したことを受けてオジェックを解任し、コーチだったゲルト・エンゲルスが監督に昇格することとなった。監督交代後はセンターバックが本職の闘莉王をトップ下に起用するという奇策などで上位へと駆け上がり前半戦を首位で折り返すも徐々に失速、J1第33節のG大阪戦で黒星を喫してリーグ優勝の可能性が消滅。翌日には名古屋が札幌に勝利したためシーズン4位以下が確定して3年連続のACLの出場権も逃し、最終節で横浜に1-6と大敗して最終順位は7位となった。
- ACLは準々決勝から登場し[30]、アル・カーディシーヤ(クウェート)には2試合合計4-3で競り勝ち準決勝進出するも、準決勝でG大阪に2試合合計2-4で敗れACL連覇はならなかった。また、ナビスコカップや天皇杯でも上位進出できずに5年ぶりに無冠でシーズンを終えることが確定し、エンゲルスはシーズン終了後に監督を退任した。
2009年
- チームスローガン:Devotion to URAWA
- 監督にフォルカー・フィンケが就任。ディフェンスラインを3バックから4バックへと移行し、リアクションサッカーからポゼッションサッカーへの移行を図った。また、新しいチーム統括責任者として元横浜FC監督の信藤健仁のチームダイレクター(TD)就任が発表された。
内舘秀樹が引退、岡野雅行や相馬崇人が退団(その後、岡野はTSWペガサスへ、相馬はCSマリティモへ加入)、永井雄一郎が清水に完全移籍した一方、レンタル移籍から復帰した赤星貴文、大卒新人の野田紘史、ユースから昇格の原口元気(飛び級昇格)、山田直輝、高橋峻希、濱田水輝、永田拓也と若手選手を獲得した(赤星は山形に、野田は岡山にシーズン途中でレンタル移籍)。- 4月に行われた定例取締役会において、2006年シーズン途中から社長を務めていた藤口光紀が2008年のホルガー・オジェックの監督解任に端を発したクラブの成績不振の責任を取り、任期を残しながらも社長を退任した。後任に三菱自動車工業元常務取締役の橋本光夫が就任した。
- ユースから昇格した若手選手を積極的に起用し、序盤は一時首位に躍り出るなど好調を維持し前半戦を鹿島に次ぐ2位で折り返した。しかし、7月にリーグ戦14連敗を喫していた大分に0-1で敗戦したのをきっかけに、9月の山形戦に勝利するまで公式戦8連敗を喫するなど大失速し、その後は持ち直したものの最終的にリーグ戦は6位に終わった。
- 天皇杯2回戦で、当時北信越フットボールリーグ1部所属の松本山雅FCと対戦、0-2で敗戦した。
2010年代
2010年
- チームスローガン:KEEP REDS ON!
三都主アレサンドロ及び田中マルクス闘莉王が名古屋へ完全移籍[31]、近藤徹志が岡山へ完全移籍、橋本真人が栃木SCへ期限付き移籍、2009年シーズンから草津へ期限付き移籍していた小池純輝が水戸へ完全移籍、山形へ期限付き移籍中の赤星貴文が契約満了に伴い退団、野田紘史の岡山への期限付き移籍が延長された。- 2009年シーズン途中から特別指定選手としてトップチームに登録していた流通経済大学の宇賀神友弥が新卒選手として正式に加入し、2009年シーズンから水戸へ期限付き移籍していた高崎寛之が復帰した。また、広島から柏木陽介を完全移籍で、ドイツ・1.FCニュルンベルクからマシュー・スピラノビッチを、ドイツ・1.FCケルンからウィルフリード・サヌを期限付き移籍で獲得した。
- 2008年12月からチームダイレクターを務めていた信藤健仁が体調不良を訴え、その後の検査で甲状腺の機能に障害があることが判明し、治療が必要と診断されたことにより、2009年限りで同職を退任。後任に、初代浦和キャプテンの柱谷幸一が2010年1月1日付でゼネラルマネージャー(GM)に就任した。
- リーグ戦は序盤こそ上位に食い込んだが、前年同様夏場に失速し10位に終わった。また、ナビスコカップはグループリーグ敗退、天皇杯はベスト8で敗退とこの年もタイトル獲得はならなかったため、シーズン終了後にフィンケ監督を始め6人中5人のコーチが退任した。
2011年
- チームスローガン:TOGETHER FOR THE GOAL
- 監督に浦和OBのゼリコ・ペトロビッチが[32]、コーチにアドリエ・ボヘルスがそれぞれ就任した。ボヘルスの就任はペトロビッチ監督が希望した[33]。
ロブソン・ポンテが退団、永田拓也がレンタル移籍で、林勇介が完全移籍で草津に移籍、前年草津にレンタル移籍していた西澤代志也が栃木SCに、栃木SCへ期限付き移籍していた橋本真人がV・ファーレン長崎へ完全移籍、細貝萌がブンデスリーガ1部のバイエル・レヴァークーゼンに完全移籍(その後ブンデスリーガ2部のFCアウクスブルクにレンタル移籍)、サヌはレンタル移籍期間満了に伴い1.FCケルンに復帰した。湘南に期限付き移籍していた都築龍太は契約を更新せず[34]、都築は1月27日に引退を表明した[35]。引退セレモニーは8月6日の予定であったが[36]、8月24日に延期された[37]。- 補強は新潟からマルシオ・リシャルデス、永田充を、徳島から青山隼を獲得、サンパウロFCからマゾーラを期限付きで獲得、堤俊輔、野田紘史がレンタル移籍より復帰、レンタル移籍だったスピラノビッチは完全移籍となった。
6月29日にエジミウソンがアル・ガラファへ完全移籍[38]、7月14日に堤が栃木SCへ期限付き移籍[39][40] したが、7月2日にランコ・デスポトヴィッチが加入した[41]。- タイトル獲得を目指して大型補強を敢行したものの、この年は序盤から一時降格圏内に転落するほど低迷し、9月12日にクラブは柱谷GMの契約解除と山道守彦の強化部長就任を発表[42]。さらに第29節で大宮に敗れ降格圏に順位を落としたことで、10月20日にペトロビッチ監督とボヘルスコーチを解任[43]、後任の監督にユース監督の堀孝史が、コーチにはユースコーチの天野賢一がそれぞれ就任した[44]。ヴァンフォーレ甲府との残留争いの末、最終節で15位が確定して残留を決めた。なお、リーグ戦で10得点以上を記録した選手が現れなかったのは2005年シーズン以来6年ぶりである。
- その一方でナビスコカップは1回戦から順調に勝ち上がって7年ぶりに決勝へ進出したが[45]、決勝で延長戦の末鹿島に敗れ準優勝。なお、4得点を挙げたデスポトビッチが大会得点王となった。
- 従来どおり埼玉スタジアムと駒場スタジアムの2箇所を登録上の本拠地としているが、駒場はトラック改修工事のため使用せず、ホームゲームは全試合(リーグ戦・ナビスコ杯とも)埼玉で開催した。駒場で1年を通して試合が組まれないのは1992年のJリーグカップを除けばJリーグ発足後初である。
2012年
- チームスローガン:REDS 020th We stand beside you forever always
- 監督に広島元監督のミハイロ・ペトロヴィッチが就任。堀はトップチームのコーチに就任。広島時代にペトロヴィッチの通訳を務めた杉浦大輔がコーチに就任。[46] 昨シーズンにコーチを務めた広瀬治がトップチームのコーチを退任し、ユースチームのコーチに就任。
マゾーラがレンタル移籍期間満了、栃木SCにレンタル移籍していた堤俊輔が福岡へ、高崎寛之が甲府へ、堀之内聖が横浜FCへ完全移籍し、原一樹が京都へ、青山隼が徳島へレンタル移籍。草津にレンタル移籍している永田拓也の移籍期間も延長された。さらにシーズン途中にスピラノビッチがカタールのアル・アラビ・ドーハへ完全移籍し、高橋峻希が千葉、エスクデロ・セルヒオ[注 6] がKリーグのFCソウルへそれぞれレンタル移籍した。- 新加入選手としてブンデスリーガ・1.FCケルンから広島時代にペトロヴィッチ監督のもとでプレーしていた槙野智章をレンタル移籍で、神戸からポポを、レスター・シティFCから元浦和の阿部勇樹を完全移籍で獲得。
- 5月15日、運営会社の名称を「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」から「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」へ改称[47]。
- 6月1日、さいたま市駒場スタジアムの命名権を取得(スタジアム名称は「浦和駒場スタジアム」に。ただし補助競技場<球技専用>については「浦和レッズハートフルフィールド駒場」に改める)。なお、Jリーグクラブがスタジアムの命名権を取得したのは初めて。
- 開幕戦こそ広島に敗れるも、前半戦は前年とは対照的に順調に勝点を積み上げて8勝6分3敗で勝点30の3位で折り返した。その後はJ2降格が決まった直後の札幌や、下位に低迷していたG大阪に敗れるなど取りこぼしも目立ったが、最終戦で名古屋に勝利して3位でシーズンを終え、2008年シーズン以来5年ぶりにACL出場権を獲得した。なお、最終節での勝利はリーグ優勝を決めた2006年シーズンのG大阪戦以来6年ぶりとなった。
- 8月4日に開催されたFC東京戦で、Jリーグ史上初となるリーグ戦におけるホームゲーム累計観客動員数が1000万人を突破。また、最終戦での勝利によって7チーム目となるJ1リーグ戦通算300勝を達成した。
2013年
- チームスローガン:REDS TAKE A STEP FORWARD
- ペトロヴィッチ体制2年目。
田中達也が新潟へ、ポポが神戸へ完全移籍。また、期限付き移籍中の原一樹、エスクデロ・セルヒオ[注 6]、青山隼がそのまま完全移籍。また、濱田水輝が新潟へ期限付き移籍(2014年1月31日まで)し、千葉に期限付き移籍している高橋峻希の移籍期間が2014年1月31日まで延長された。- 前年に1.FCケルンからレンタルで加入した槙野智章が完全移籍となり、広島から森脇良太、仙台から関口訓充、鹿島から興梠慎三、柏から那須大亮をそれぞれ完全移籍で獲得。明治大学から阪野豊史が加入した。また、草津へ期限付き移籍していた永田拓也が復帰した。
- 開幕戦で前年王者の広島に勝利し、2008年から続いていた開幕戦の連敗を止めてクラブ史上初のアウェーゲームでの開幕戦勝利を達成。その後は開幕6試合負けなしと序盤から好調を維持し、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断までの時点では、横浜FMと勝点27で並び得失点差で上回る2位で、首位を独走していた大宮と勝点差5の状態だった。前半戦最終2戦でリーグ戦2度目の連敗を喫し9勝4分4敗で勝点31の4位で折り返す。第19節終了時に3位に再浮上して以降、終盤まで3位と2位を行き来するかたちで、第22節広島、第24、31各節横浜FM首位に3度までも勝点差1まで迫り優勝争いに絡んだものの、いずれもその次の試合で敗れ再び差を広げられるなど勝負弱さを露呈。33節で鳥栖に敗れた時点で優勝の可能性が消滅し、最終節でもC大阪に大敗し同シーズンリーグ戦初の3連敗、かつ最終4節未勝利で6位に後退、ACL出場権を逃した。興梠慎三、柏木陽介、原口元気の1トップ2シャドーを中心とした攻撃陣は、リーグ1位の66得点をマークする等力を発揮した一方、可変フォーメーションの3バックのうちサイドバックに位置する森脇と槙野が積極的に攻撃参加する為、カウンターの対策が脆弱だった事もあり守備陣は終盤5試合で16失点を喫する等でリーグ12位タイの56失点と脆さを露見させ、この攻守のバランスの悪さが勝ちきれない試合を多く生み出し失速した要因になった。
- リーグ戦同様カップ戦でも勝負弱さを露呈し、5年ぶりの出場となったACL2013では3勝1分2敗の勝点10という成績であったが、同勝点の全北現代(韓国)との直接対決の成績で1分1敗と下回ったためグループリーグ敗退。天皇杯では主力を温存した結果3回戦で山形に敗退し、ヤマザキナビスコカップは2年ぶり5回目の決勝進出を果たしながら柏に0-1で敗れ準優勝と、国内三冠も射程圏内でありながら結局無冠でシーズンを終えることとなった。
- 5月11日に開催されたホームの鹿島戦は、目前に控えていたJリーグ開幕20周年を記念して「Jリーグ20thアニバーサリーマッチ」として開催された[48]。
- 3月30日のアルビレックス新潟戦で、マルシオ・リシャルデスがチームのJ1通算1000ゴールを決めた。また、10月27日の柏戦で山田暢久がJリーグ通算500試合出場を達成した。
2014年
- チームスローガン:REDS-FULL of LIFE!
- ペトロヴィッチ体制3年目。
山田暢久が契約満了(現役を引退)。永田拓也が横浜FCへ、野田紘史が長崎へ、千葉に期限付き移籍中の高橋峻希が神戸へ完全移籍。また、野崎雅也が福岡へ、大谷幸輝が北九州へ、小島秀仁が徳島へ期限付き移籍し、長崎へ期限付き移籍している岡本拓也の移籍期間が延長された。
大宮から青木拓矢、広島から西川周作、イングランド・プレミアリーグのサウサンプトンFCから李忠成を完全移籍で獲得し、ユースから関根貴大が昇格した。また、新潟に期限付き移籍していた濱田水輝が復帰した。- ホーム開幕戦となった第2節鳥栖戦で、ホームゴール裏出入り口に「JAPANESE ONLY」(日本人に限る)という、人種差別の横断幕が掲げられ、チーム運営会社も、その試合終了後まで当該横断幕を撤去できなかった。これに対し、Jリーグから第4節清水戦を、Jリーグ開幕以後史上初のホームゲーム無観客試合で行うという制裁処分が下された。
- 序盤は前述のトラブルによる混乱もあり、5試合を消化した時点で2敗を喫する等やや躓いたものの、その後はクラブ新記録となる4試合連続完封を記録するなど強固な守備を武器に一気に調子を上げ、ペトロヴィッチ体制となって初めて首位で2014 FIFAワールドカップによる中断期間を迎えた。中断期間明け後も記録は続き、7月23日にはJ1新記録となる7試合連続完封を達成した。
- 5月25日、原口元気がドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンへ完全移籍。6月16日には山岸範宏の山形への期限付き移籍と、岩舘直の水戸から期限付き移籍での加入が発表された。
- 10月6日、ペトロヴィッチ監督との契約を更新した。浦和レッズの監督としては、クラブ史上最長となる4シーズン目を迎える事になる。
- 10月22日、第29節甲府戦でJリーグ初となる公式戦通算1000試合を達成するも、観客動員数は1万9977人で、埼玉スタジアム2002が2001年に開業して以来初めて、1試合の観客動員数が2万人を下回った。
- リーグ戦は、中断後も好調を維持し、一時は2位と勝点差7をつけて首位に立つものの、前年同様終盤に失速。当時12ゴールと得点源だった興梠が第30節の鹿島戦で負傷し、第32節の勝てば優勝決定という大一番となった、勝点差5の2位G大阪との直接対決は終盤の2失点で敗れた。続く第33節鳥栖戦では後半アディショナルタイムのラストプレーで途中出場の小林久晃に同点ゴールを決められて痛恨の引き分け、G大阪に首位を明け渡す。最終節名古屋戦では、試合開始早々に槙野のゴールで先制するも、後半にセットプレーで牟田雄祐に押し込まれ同点に追いつかれる。そして3枚目の交代枠に不整脈から復帰したばかりの鈴木を投入すると、自陣でその鈴木のパスミスによるカウンターから永井謙佑に決勝弾を決められて逆転負け。G大阪が既に最下位でのJ2降格が決まっている徳島に引き分けたにも関わらず優勝を逃した。西川がGKのJ1年間完封試合数の記録を16に更新した(それまでの記録は93年V川崎の菊池新吉、09年FC東京の権田修一が記録した15)
ヤマザキナビスコカップは、グループリーグを首位通過したものの、準々決勝で広島と2引き分け、アウェーゴールルールにより敗れた。天皇杯は、3回戦で群馬に2-1で敗れ、前年の山形に続きJ2相手に敗戦を喫した。- 12月13日、天皇杯でG大阪が優勝したことにより、FUJI XEROX SUPER CUP2015へ繰り上げで出場が決定。
2015年
- チームスローガン:WE BELIEVE in REDS
- ペトロヴィッチ体制4年目。
坪井慶介が湘南に、加藤順大が大宮にそれぞれ完全移籍、山田直輝が湘南に、阪野豊史が栃木にそれぞれ期限付き移籍、山形に期限付き移籍していた山岸範宏は完全移籍した。また、関口訓充(その後C大阪へ移籍)、マルシオ・リシャルデス、福岡に期限付き移籍していた野崎雅也がそれぞれ契約満了により退団した。
柏から橋本和、仙台から武藤雄樹、清水から高木俊幸、大宮からズラタン、広島から石原直樹、FC東京から加賀健一が完全移籍で加入、小島秀仁は徳島から岡本拓也は長崎から復帰水戸から期限付き移籍中の岩舘直は移籍期間を延長した。
指宿キャンプ中、この年から新設されたJリーグ・スカパー! ニューイヤーカップ鹿児島ラウンドに出場し初優勝を飾った。- リーグ戦1stステージでは、開幕戦で湘南に3-1で勝利し、その後も一度も負けることなく順調に勝点を伸ばすと、6月3日の柏戦でJ1新記録となる開幕14試合連続無敗を達成。そして、第16節で神戸に引き分け史上初の無敗優勝を決めた。無敗記録は最終的に、7月19日に2ndステージ第3節の広島とのホーム戦で敗れるまで続き、開幕19試合連続無敗となった。
- その一方で、4度目の出場となったAFCチャンピオンズリーグ2015では、初戦で水原三星に1-2で逆転負けを喫すると、その後3連敗と全く結果を残せず、5戦目も敗れて最下位でのグループリーグ敗退となった。
- 2ndステージは最終的に9勝4敗4引き分けとなり、年間成績ではサンフレッチェ広島に勝点2及ばず勝点2位となったため、チャンピオンシップには準決勝から挑むこととなった。準決勝のガンバ大阪戦は1-1の同点で延長に突入したが、延長後半に2点を奪われ3-1で敗戦、年間順位3位でシーズンを終えることとなった。
- ナビスコカップでは、準々決勝で、新潟と対戦し、1回戦は0-5と大敗し、2回戦は3-0で勝利したものの、トータルスコアでは3-5で敗れ、2年連続ベスト8で敗退となった。
- その一方で、天皇杯は順調に相手を撃破し、9年ぶりの決勝進出を果たすものの、決勝のガンバ大阪との対戦では先制を許した後、興梠のゴールで追いつき1-1で前半を折り返す。しかし、後半に勝ち越しを許し1-2で敗れ、9年ぶりの優勝を果たせなかった。
2016年
- チームスローガン:Beating Heart Together!
- ペトロヴィッチ体制5年目。
鈴木啓太が引退、阪野豊史、茂木力也が愛媛、斎藤翔太が水戸、岡本拓也が湘南に期限付き移籍、山田直輝、矢島慎也の期限付き移籍期間が延長した。
湘南から遠藤航、FCアスタナからブランコ・イリッチ、京都から駒井善成、高卒の伊藤涼太郎を獲得。また1.FCケルンから長澤和輝を完全移籍で獲得すると同時に千葉への期限付き移籍が発表された。期限付き移籍だった岩舘直が完全移籍に移行した。- 6月27日福島春樹の鳥取、7月6日橋本和の神戸への期限付き移籍が発表された。
AFCチャンピオンズリーグ2016ではグループHに入り、前年の王者広州恒大と1勝1分けとするなど2勝3分け1敗のグループ2位で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦ではFCソウルと対戦し、ホームの1stレグでは宇賀神友弥のゴールで1-0で先勝、ソウルでの2ndレグではデヤン・ダミヤノヴィッチにゴールを奪われ90分終了時0-1となり延長戦に突入。延長戦では李の2ゴールで一旦は勝ち越すもアディショナルタイム突入後に高余韓のゴールで追いつかれて2試合合計3-3となりPK戦に突入する。PK戦では4人目までに4-3としていたが、5人目の西川が失敗してサドンデスに突入、8人目の駒井が外して6-7で敗戦した。- Jリーグの1stステージでは序盤戦から首位を走っていたが6月11日の鹿島戦で敗れ、6月15日のG大阪戦で連敗し首位から転落した。また、第17節の広島戦で3連敗をしてしまい1stステージ優勝を逃した。
8月6日Jリーグ2ndステージ第7節湘南戦でホーム通算試合500試合を達成した。
9月25日のJ1 2ndステージ第13節広島戦で年間順位3位以内が確定、2年連続チャンピオンシップへの出場が決まった。- ACL組としてシードされたJリーグYBCルヴァンカップではここ2年鬼門だった準々決勝で4日前のリーグ戦では1-2で敗れている神戸に敵地で1-2で競り勝つと第2戦は4-0の圧勝。準決勝でも第1戦で得意の味スタで12年間公式戦では負けておらずお得意様のFC東京に2-1で逆転勝ちを収めると10月9日に行われた第2戦は3-1で勝利。3年ぶりの決勝をG大阪と迎える事になった。決勝戦では1-1の激闘の末、延長戦でも決着がつかずにPK戦に突入、全キッカーが決めて5-4で13年ぶりとなるJリーグカップ優勝を果たした。
11月3日のJ1 2ndステージ第17節横浜FM戦で引き分けて年間勝点順位1位(勝点74)とし、Jリーグチャンピオンシップ決勝からの出場を決めた。チャンピオンシップでは鹿島と対戦、アウェーでの1stレグは興梠がPKを誘い阿部が沈めた1点を守り切って1-0で先勝、ホームの2ndレグでは興梠のゴールで先制し2戦合計2-0とリードするものの、ロングボールへの宇賀神の稚拙な対応[49] もあって金崎夢生にダイビングヘッドで1点を返され、後半35分にはカウンターで攻める鈴木優磨を槙野がペナルティエリア内で倒してPKを献上、またも金崎に決められて1-2とされ、アウェーゴールの数により年間王者を逃した。
2017年
- チームスローガン:すべてにおいてバージョンアップ
- ペトロヴィッチ体制6年目。
大谷幸輝が新潟、永田充が東京V、加賀健一が山形へ完全移籍、石原直樹が仙台に期限付き移籍、茂木力也は期限付き移籍先が愛媛から山形へ変更、期限付き移籍していた橋本和が神戸、阪野豊史が山形に完全移籍、斎藤翔太の期限付き移籍期間が延長、9月には伊藤涼太郎が水戸へ期限付き移籍した。
千葉からオナイウ阿道、新潟からラファエル・シルバ、湘南から菊池大介、横浜FMから榎本哲也を完全移籍で、福岡から田村友を期限付き移籍で獲得。さらに福島春樹、長澤和輝、矢島慎也が期限付き移籍から復帰した。8月には守備立て直しのためCSマリティモからマウリシオを獲得した。
J1リーグ戦第6節仙台戦ではクラブ最多得点記録タイとなる7得点を挙げ7-0で勝利した。- チームは第8節終了時点で6勝1分1敗と首位を走っていたが、第9節の当時リーグ最下位の大宮とのさいたまダービーで敗戦したところから低迷、さらに第13節川崎戦[50] での敗戦後ペトロヴィッチ監督が次に行われる第18節新潟戦から連勝出来なければチームを去るとサポーターに告げる事態にまで発展した。新潟、天皇杯3回戦の熊本には勝利したが、続く第22節C大阪戦[51] で敗戦、そして第19節の札幌戦も敗れ第9節以降の成績が3勝1分8敗となり順位も8位まで低迷、そして7月30日、ペトロヴィッチとコーチ兼通訳の杉浦大輔を解任[52]、後任にコーチの堀孝史が2011年10月以来約5年半ぶりに監督に就任した[53]。
AFCチャンピオンズリーグ2017ではグループリーグ上海上港、FCソウルと同組になるも4勝2敗の成績で首位通過。ラウンド16では済州ユナイテッドと対戦。アウェーの第1戦を0-2で落とし第2戦で勝ち抜けに最低でも3点が必要な状況[54] に追い込まれたが、延長戦の末3-0で勝利し勝ち抜けた。堀が就任した準々決勝は川崎フロンターレと対戦。第1戦を1-3で落とし、迎えた第2戦では先制点を献上するも、興梠の得点後に車屋紳太郎が退場しバランスを取る為中村憲剛を下げた後、防戦一方になった川崎を攻め立てズラタン、ラファエルシルバ、高木俊幸のゴールで4-1で試合終了。2戦合計5-4となり、歴史的大逆転勝利を飾った。準決勝ではグループリーグでも対戦した上海上港を2戦合計2-1で破り、10年ぶりの決勝進出を決めた[55]。決勝はサウジアラビアのアル・ヒラルと対戦。2戦合計2-1で勝利し、日本勢では2008年のガンバ大阪以来9年振り、クラブとしては2007年以来10年振りとなる優勝を飾った。また、ホーム7戦全勝という大会史上初の快挙も達成した。- だが、2007年の優勝とは違い、2年連続で出場する為には最低でも4位に入らなければならないJリーグでは、監督交代後は守備に重きを置き競争力を取り戻した一方、攻撃の構築に手間取り、8月は3連勝を含む勝ち点10を稼いだが、その後は全く連勝を挙げられず、最後は3試合連続で0-1で敗れ結局リーグ戦は7位で終了した。沖縄での2次キャンプで「相手のコートで戦う」(ペトロヴィッチ)[56] というコンセプトの下でさらに前掛かりとなった為、昨年は28だった失点が54とほぼ倍増し、スコアレスドローも含めた完封数は降格した3チームよりも少ない4[57] でリーグ最少と足を引っ張った守備が上位進出を阻む結果となった。
FIFAクラブワールドカップ2017では準々決勝でアル・ジャジーラと対戦、後半に失点をしてしまい0-1で敗れ5位決定戦へ回った。5位決定戦ではウィダード・カサブランカと対戦、マウリシオの2ゴール、柏木陽介の1ゴールを守りきり3-2で勝利し5位となった。
2018年
- チームスローガン: ステップアップのための足元固め
- 堀体制2年目。
矢島慎也がG大阪、梅崎司が湘南、高木俊幸がC大阪、那須大亮が神戸、ラファエル・シルバが武漢卓爾、7月に遠藤航がシント=トロイデンへ完全移籍、駒井善成が札幌、オナイウ阿道が山口、ユースから昇格した井澤春輝が徳島へ期限付き移籍、田村友が期限付き移籍期間満了、石原直樹が期限付き移籍先の仙台へ完全移籍、伊藤涼太郎の期限付き移籍が延長、水戸へ期限付き移籍していた斎藤翔太が契約満了で退団した。- 戦力補強として、神戸から岩波拓也、横浜FMからマルティノス、柏から武富孝介、ニューカッスル・ジェッツからアンドリュー・ナバウト、5月にポルティモネンセからファブリシオを完全移籍で獲得。湘南ベルマーレから山田直輝、7月にモンテディオ山形から茂木力也が期限付き移籍から復帰した。
- 開幕5試合で2分3敗と1勝もできず下位に低迷。4月2日付で監督の堀とヘッドコーチの天野賢一との契約を解除し[58]、育成ダイレクター兼ユース監督の大槻毅が監督、ユースコーチの上野優作がトップチームコーチに就任した[59]。
- 大槻毅監督の初陣となったJリーグYBCルヴァンカップグループステージ第3節サンフレッチェ広島戦はスコアレスドローに終わるも、その後の公式戦は連勝を飾り、通算4勝2分と無敗で乗り切り次期監督へバトンを渡した。また、オールバックの髪型とその魂はファンサポーターから絶大な人気を誇った。映画俳優といっても良い位の風貌から「大槻組長」と呼ぶサポーターも多い。
- 4月19日、浦和は次期監督として、2007年から2009年にかけて鹿島アントラーズを3連覇に導いたオズワルド・オリヴェイラ氏と契約した[60]。
- 8月1日、第19節の川崎戦に勝利しJ1通算400勝を達成した。
- 8月3日、平成30年7月豪雨の義援金としてファン・サポーター、クラブスタッフ有志、選手会合わせた4,309,232円を日本赤十字社へ贈呈した。
- ワールドカップによる中断開けからオリヴェイラ監督の戦術が浸透し、最初の10試合を4勝3分け3敗とまずまずの成績で順位を上げ始めたが、加入後9試合で6得点を記録していたファブリシオが第25節セレッソ大阪戦で左膝前十字靭帯・内側半月板損傷の重傷を負い離脱。そこで長澤和輝を起用しフォーメーションを「3-4-2-1」から「3-5-2」に変更すると、これが功を奏し第26節から3連勝を含めて6戦5勝1分と大いに巻き返し、ACL出場権獲得圏内の3位に勝ち点差3まで近づいた。しかし、第31節でガンバ大阪、33節で湘南ベルマーレに敗れて最終順位は5位となり、リーグ戦でのACL出場権獲得はならなかった。
- 天皇杯は2回戦から出場。3回戦の松本山雅FC戦で1失点した以外は全て完封勝利という堅守を見せて3大会振りに決勝に進出すると、決勝も宇賀神友弥のゴールを守り切ってベガルタ仙台を1-0で下し、12大会ぶりの優勝を果たした。同時に、AFCチャンピオンズリーグ2019の本戦出場権を獲得した。
成績
ダービーマッチ
さいたまダービー
- vs大宮アルディージャ
埼玉県さいたま市をホームタウンとするJリーグクラブ同士の対戦。
- vs大宮アルディージャ
タイトル・表彰
国内タイトル
J1リーグ:1回
- 2006
- 1stステージ:1回
- 2015
- 2ndステージ:2回
2004, 2016
Jリーグカップ:2回
2003, 2016
天皇杯全日本サッカー選手権大会:3回
2005, 2006, 2018
FUJI XEROX SUPER CUP:1回
- 2006
国際タイトル
AFCチャンピオンズリーグ:2回
2007, 2017
スルガ銀行チャンピオンシップ:1回
- 2017
その他タイトル
JリーグDAZNニューイヤーカップ
- 鹿児島ラウンド:1回
- 2015
さいたまシティカップ:2回
- 2004, 2006
J1リーグ マネジメントカップ:3回
- 2014, 2016, 2017
eJ.LEAGUE:1回
- 2018
フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会:2回
- 2005, 2006
表彰
- Jリーグ
最優秀選手賞
- 2003 - エメルソン
- 2006 - 田中マルクス闘莉王
- 2007 - ロブソン・ポンテ
- 2003 - エメルソン
ベストイレブン
- 1995 - 福田正博, ギド・ブッフバルト
- 1996 - 岡野雅行, ギド・ブッフバルト
- 1998 - 小野伸二
- 2002 - エメルソン
- 2003 - エメルソン, 坪井慶介
- 2004 - エメルソン, 長谷部誠, 田中マルクス闘莉王
- 2005 - 田中マルクス闘莉王
- 2006 - ワシントン, 鈴木啓太, 田中マルクス闘莉王
- 2007 - ロブソン・ポンテ, 鈴木啓太, 阿部勇樹, 田中マルクス闘莉王, 都築龍太
- 2008 - 田中マルクス闘莉王
- 2009 - 田中マルクス闘莉王
- 2013 - 那須大亮
- 2014 - 西川周作
- 2015 - 槙野智章, 西川周作
- 2016 - 柏木陽介, 阿部勇樹, 槙野智章, 西川周作
- 2017 - 興梠慎三
- 1995 - 福田正博, ギド・ブッフバルト
得点王
- 1995 - 福田正博
- 2004 - エメルソン
- 2006 - ワシントン
ベストヤングプレーヤー賞
- 1998 - 小野伸二
- 2002 - 坪井慶介
フェアプレー賞
- 2014, 2016, 2018
フェアプレー個人賞
- 1996 - 岡野雅行
- 2002 - 坪井慶介
- 2014 - 西川周作
- 2018 - 西川周作
最優秀監督賞
- 2006 - ギド・ブッフバルト
最優秀育成クラブ賞
- 2009
最優秀ゴール賞
- 2017 - 関根貴大
- 2017 - 関根貴大
功労選手賞
- 2003 - 福田正博, 井原正巳
- 2014 - 山田暢久
- 2016 - 鈴木啓太
- 2003 - 福田正博, 井原正巳
Join賞
- 1999 - 浦和レッズ, 浦和市, レッズファン・サポーター
- 2002 - 浦和レッズ
- 2004 - 浦和レッズ
ベストピッチ賞
- 2005 - 埼玉スタジアム2002
- 2009 - 埼玉スタジアム2002
- 2013 - 埼玉スタジアム2002
- 2016 - 埼玉スタジアム2002
- 2005 - 埼玉スタジアム2002
特別賞
- 2007
MYアウォーズ
- 2016 - MVP 西川周作, ベストイレブン 興梠慎三, 阿部勇樹, 西川周作
月間MVP
- 2014 - 7月 西川周作
- 2015 - 5月 関根貴大, 6月 武藤雄樹, 9月 西川周作
- 2016 - 4月 李忠成
- 2017 - 2月・3月 ラファエル・シルバ, 4月 興梠慎三
- Jリーグカップ
最優秀選手賞
- 2003 - 田中達也
- 2016 - 李忠成
- 2003 - 田中達也
ニューヒーロー賞
- 2002 - 坪井慶介
- 2003 - 田中達也
- 2004 - 長谷部誠
- 2011 - 原口元気
- FIFAクラブワールドカップ
得点王
- 2007 - ワシントン
- 2017 - マウリシオ
フェアプレー賞
- 2007
- AFCチャンピオンズリーグ
大会最優秀選手
- 2007 - 永井雄一郎
- 2017 - 柏木陽介
- 2007 - 永井雄一郎
フェアプレー賞
- 2007, 2017
- A3チャンピオンズカップ
得点王
- 2007 - ワシントン
- さいたまシティカップ
MVP
- 2017 - 長澤和輝
- 2017 - 長澤和輝
- フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会
Player of the Tournament
- 2005 - セルヒオ・エスクデロ[注 6]
- 2005 - セルヒオ・エスクデロ[注 6]
その他表彰
クラブ
- 日本プロスポーツ大賞
- 2007
- 彩の国スポーツ功労賞
- 2006
- 彩の国特別功労賞
- 2017
- 埼玉県民栄誉賞
- 2007
- さいたま市長特別賞
- 2017
- 公益財団法人埼玉県サッカー協会 功労賞
- 2018
- HEROs AWARD
- 2018
AFC年間最優秀クラブ賞
- 2007
監督・選手
- 日本年間最優秀選手賞
- 2006 - 田中マルクス闘莉王
- 2007 - 鈴木啓太
- 報知プロスポーツ大賞
- 2004 - エメルソン
- 2006 - ワシントン
- 2007 - 田中マルクス闘莉王
- 2016 - 西川周作
- 彩の国スポーツ功労賞
- 2006 - ギド・ブッフバルト
- 2010 - 阿部勇樹
- 彩の国特別功労賞
- 1997 - 岡野雅行
- さいたま市スポーツ特別功労賞
- 2018 - 槙野智章, 遠藤航
- AFC年間最優秀監督賞
- 2017 - 堀孝史
- AFC年間最優秀ユース選手賞
- 1998 - 小野伸二
クラブ記録
最多得点試合
J1
- ホーム
- 7-2 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V、埼玉スタジアム2002)
- 7-0 (2005年第27節(10月15日)・対柏、駒場スタジアム)
- 7-0 (2017年第6節(4月7日)・対仙台、埼玉スタジアム2002)
- アウェー
- 7-0 (1996年J第20節(9月21日)・対柏、国立霞ヶ丘陸上競技場)
- 7-0 (2005年第14節(7月6日)・対東京V、国立霞ヶ丘陸上競技場)
J2
- 7-0 (2000年第4節(3月30日)・対鳥栖、鳥栖スタジアム)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- 9-0 (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・対ホンダロックSC、駒場スタジアム)
最多失点試合
J1
- ホーム
- 0-6 (1993年2nd第9節(9月3日)・対V川崎、駒場競技場)
- 3-6 (1994年2nd第22節(11月19日)・対横浜M、富山県総合運動公園陸上競技場)
- 1-6 (2008年J1第34節(12月6日)・対横浜FM、埼玉スタジアム2002)
- アウェー
- 1-8 (1999年1st第15節(5月29日)・対名古屋、名古屋市瑞穂公園陸上競技場)
J2
- 1-6 (2000年J2第18節(6月10日)・対新潟、新潟市陸上競技場)
最多失点勝利試合
- 4-3 (1994年2nd第3節(8月17日)・対市原、市原緑地運動公園臨海競技場)
- 4-3 (2005年J1第24節(9月18日)・対広島、広島ビッグアーチ)
- 4-3 (2012年J1第17節(7月7日) ・対鳥栖、埼玉スタジアム2002)
- 4-3 (2013年J1第21節(8月17日)・対大分、埼玉スタジアム2002)
- 4-3 (2015年2nd第15節(10月24日)・対FC東京、味の素スタジアム)
- 4-3 (2017年J1第17節(7月1日) ・対広島、埼玉スタジアム2002)
最多得点敗戦試合
- 4-5 (1994年2nd第12節(9月21日)・対清水、静岡県草薙総合運動場陸上競技場)
- 4-6 (2003年1st第5節(4月26日)・対C大阪、長居スタジアム)
最多得点(失点)引分試合
- 4-4 (2003年1st第9節(5月17日)・対G大阪、駒場スタジアム)
- 4-4 (2014年第21節(8月23日)・対FC東京、味の素スタジアム)
- 4-4 (2015年1st第11節(5月10日)・対仙台、ユアテックスタジアム仙台)
最多連続無敗試合
- 19試合 (2015年1st第1節(3月7日)から2nd第2節(7月15日) - 13勝6分)
- (参考:他の公式戦込み)
- 17試合 (リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分)
ホーム無敗記録
- 25試合 (2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日) - 22勝3分)
※J1史上最多記録タイ
- (参考:他の公式戦込み) ※埼玉スタジアム、駒場スタジアムでの試合
- 37試合 (リーグ戦2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日)25試合、大宮アルディージャのホームゲーム1試合、2006年ナビスコ杯予選3試合、準々決勝1試合(3月29日、4月12日、5月21日、6月3日)、2005年天皇杯2試合(11月3日、12月24日)、2006年天皇杯3試合(11月4日、12月16日、12月23日)、2007年ACL2試合(3月7日、4月11日)- 34勝3分)
アウェー無敗記録
- 17試合 (2006年第33節(11月26日)から2007年第31節(11月11日) - 12勝5分)
最多連勝
- 8連勝 (1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日)) - PK勝ち1試合含む
- 7連勝 (1998年1st第17節(8月8日)から2nd第6節(9月18日)) - 90分勝ちのみ
ホーム連勝記録
- 10連勝 (2006年第8節(4月15日)から第27節(10月15日))
アウェー連勝記録
- 10連勝 (2007年第12節(5月19日)から第29節(10月20日))
最多連敗
- 9連敗 (1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日)) - Vゴール負け1試合含む
- 7連敗 (2009年第18節(7月18日)から第24節(8月29日)) - 90分負けのみ
ホーム連敗記録
- 6連敗 (1993年2nd第5節(8月14日)から第15節(11月27日))
アウェー連敗記録
- 10連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から2nd第1節(7月24日)) - PK負け1試合含む
- 10連敗 (1993年2nd第14節(11月20日)から1994年1st第14節(5月4日)) - Vゴール負け3試合含む
- 10連敗 (1994年2nd第8節(9月7日)から1995年1st第5節(4月1日)) - Vゴール負け1試合含む
- 8連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から第14節(6月30日)) - 90分負けのみ
同一カード最多連勝
- 8連勝 (2004年2nd第15節(11月28日)から2009年第17節(7月11日)-対広島)
- 8連勝 (2007年第15節(6月17日)から2010年第22節(9月12日)-対FC東京)
- 9連勝 (1997年2nd第17節(10月4日)から2000年J2第42節(11月20日)-対平塚) -J2リーグ戦4試合含む。Vゴール勝ち2試合含む。 2003年に天皇杯で敗れた。
同一カード最多連敗
- 7連敗 (1993年1st第2節(5月19日)から1994年2nd第5節(8月27日)-対名古屋) - 90分負けのみ
- 7連敗 (1993年1st第13節(6月26日)から1994年2nd第21節(11月16日)-対V川崎) - Vゴール負け1試合含む
- 7連敗 (1993年2nd第1節(7月24日)から1995年1st第10節(4月22日)-対広島) - PK負け1試合含む
個人記録
通算最多試合出場
- 503試合 - 阿部勇樹 (初出場1998年1st第16節(8月5日)・G大阪戦) ※2016年11月3日現在
- 501試合 - 山田暢久 (初出場1994年1st第12節(4月27日)・清水戦)
最多連続試合出場
- 152試合 - 阿部勇樹 (2013年J1第11節(5月11日)から2017年J1第25節(9月9日))
最年少試合出場
- 16歳10ヶ月22日 - セルヒオ・エスクデロ[注 6] (2005年J1第18節(7月23日)・清水戦)
最年長試合出場
- 39歳7ヶ月 - 平川忠亮 (2018年J1第34節(12月1日)・FC東京戦)
シーズンフルタイム出場
田北雄気 (1996年 - 30試合、1999年 - 30試合)
山田暢久 (1998年 - 34試合)
石井俊也 (2001年 - 30試合)
内舘秀樹 (2002年 - 30試合)
坪井慶介 (2002年 - 30試合、2003年 - 30試合)
阿部勇樹 (2009年 - 34試合、2012年 - 34試合、2014年 - 34試合、2015年 - 34試合、2016年 - 34試合)
山岸範宏 (2010年 - 34試合)
エジミウソン (2010年 - 34試合)
柏木陽介 (2010年 - 34試合、2013年 - 34試合)
永田充 (2011年 - 34試合)
加藤順大 (2012年 - 34試合)
槙野智章 (2013年 - 34試合)
西川周作 (2014年 - 34試合、2015年 - 34試合、2016年 - 34試合、2017年 - 34試合、2018年 - 34試合)
李忠成 (2014年 - 34試合)
武藤雄樹 (2016年 - 34試合)
通算最多得点
91得点 - 福田正博
最多連続得点試合
- 7試合 - エメルソン (2002年1st第3節(3月16日)から第9節(7月20日))
シーズン最多得点
- 32得点 - 福田正博 (1995年)
1試合最多得点
- 4得点 - 福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- 4得点 - ワシントン (2006年ヤマザキナビスコカップ準々決勝(6月3日)・川崎戦)
- 4得点 - 盛田剛平 (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・ホンダロックSC戦)
GK通算最多得点
- 1得点 - 田北雄気 (1996年第30節(11月9日)・横浜F戦で得点) ※J1記録
最年少得点
- 17歳11か月3日 - 原口元気 (2009年第5節(4月12日)・名古屋戦)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- 16歳8日 - 邦本宜裕 (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦)
最年長得点
- 36歳11か月13日 - 阿部勇樹 (2018年第23節(8月19日)・清水戦)
ハットトリック
- J1
- 4得点
福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦)
- 3得点
ルル (1994年2nd第12節(9月21日)・清水戦)
大柴健二 (1998年1st第9節(4月29日)・柏戦)
岡野雅行 (1998年1st第17節(8月8日)・神戸戦)
エメルソン (2002年1st第5節(4月20日)・広島戦、2004年1st第6節(4月18日)・大分戦、2004年1st第9節(5月9日)・新潟戦、2004年2nd第14節(11月23日)・柏戦)
永井雄一郎 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
山瀬功治 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
マリッチ (2005年J1第27節(10月15日)・柏戦)
ワシントン (2006年第19節(8月23日)・新潟戦)
田中マルクス闘莉王 (2008年第17節(7月17日)・東京V戦)
エジミウソン (2009年第32節(11月21日)・磐田戦)
興梠慎三 (2017年第6節(4月7日)・仙台戦、2017年第12節(5月20日)・清水戦)
ファブリシオ (2018年第22節(8月15日)・磐田戦)
- J2
- 3得点
阿部敏之(2000年2nd第15節(5月27日)・鳥栖戦)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- Jリーグカップ
- 4得点
ワシントン (2006年準々決勝第1戦(6月3日)・川崎戦)
- 3得点
トゥット (2002年予選リーグ第5戦(5月9日)・鹿島戦)
エメルソン (2002年準決勝(10月2日)・G大阪戦、2003年準決勝第2戦(10月8日)・清水戦)
田中達也 (2004年準決勝(10月11日)・名古屋戦)
ワシントン (2006年予選リーグ第6戦(5月21日)・横浜FM戦)
エジミウソン (2008年予選リーグ第2戦(3月23日)・京都戦)
興梠慎三 (2016年準決勝第2戦(10月9日)・FC東京戦)
- 天皇杯
- 4得点
盛田剛平 (2000年2回戦(12月3日)・ホンダロック戦)
- 3得点
柱谷幸一 (1992年2回戦(12月6日)・富士通サッカー部戦)
その他記録
ゴールキーパー初の得点
1996年のJリーグ第30節(11月9日)の横浜F戦で、79分にペナルティーキックを田北雄気が決め、ゴールキーパーによる初の得点を記録した([61])。- 1試合2名のハットトリック
- 2004年8月21日の東京V戦で永井雄一郎と山瀬功治の2名がハットトリックを達成。これは1998年9月26日に磐田の奥大介と高原直泰が達成して以来2例目。
- 4試合連続Vゴール負け
- 1999年2ndステージ9月4日の第6節磐田戦から9月18日の第9節名古屋戦まで(全て1-2のVゴール負け)
- 5年連続開幕戦完封負け
- 2008年(横浜FM戦)から2012年(広島戦)までの5試合で、これはJ1ワースト記録となる。なお、開幕戦成績は9勝3分14敗と黒星が大きく先行しており、特にアウェーでの開幕戦は4勝3分12敗と非常に相性が悪く、2013年シーズン開幕戦で広島に勝利するまで1度も勝つことができなかった。
スタジアム
ホームスタジアム
- ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002と、Jリーグ加盟当初からのホームスタジアムであった浦和駒場スタジアムの2か所である。駒場はJリーグ公式サイト上ではホームスタジアムとして記述が残されている[1]ものの、レッズ主管試合の開催は2010年を最後に行われていない(天皇杯で使用した実績はあるが、天皇杯はレッズ主催ではない)。なお、Jリーグ発行のファンズガイドでは2011年より駒場はホームスタジアムの紹介から外れている。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。
年度別観客動員記録
- 「埼玉」:埼玉スタジアム2002、「駒場」:浦和駒場スタジアム、「国立」:国立霞ヶ丘陸上競技場
- 太字は歴代最多および最少
- 試合数および観客動員データはリーグ戦のみ(関連:日本プロサッカーリーグ#試合観客動員)。
年度 | 所属 | 合計 動員数 | 最多動員数 | 最少動員数 | 平均 動員数 | 試合数 | ホームゲーム開催スタジアム (太字は本拠地登録されたスタジアム) | 備考 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
動員数 | 相手 | 会場 | 動員数 | 相手 | 会場 | ||||||||||
1993 | J | 206,265 | 50,348 | 清水 | 国立 | 8,258 | 広島 | 駒場 | 11,459 | 18 | 駒場17、国立1 | ||||
1994 | 406,457 | 55,125 | V川崎 | 7,854 | 広島 | 18,475 | 22 | 駒場8、大宮7、国立4、博多陸1、神戸ユ1、富山1 | [62] | ||||||
1995 | 508,554 | 56,652 | V川崎 | 9,168 | 広島 | 大宮 | 19,560 | 26 | 駒場12、大宮10、国立3、新潟陸1 | [62][63] | |||||
1996 | 364,936 | 50,974 | 京都 | 5,611 | 福岡 | 札幌厚別 | 24,329 | 15 | 駒場11、国立3、札幌厚別1 | ||||||
1997 | 328,060 | 38,707 | 広島 | 14,937 | 横浜F | 駒場 | 20,504 | 16 | 駒場14、国立2 | ||||||
1998 | 385,994 | 46,547 | 柏 | 16,971 | V川崎 | 22,706 | 17 | 駒場14、国立3 | |||||||
1999 | J1 | 319,146 | 46,401 | 鹿島 | 13,329 | 柏 | 21,276 | 15 | 駒場12、国立3 | [64] | |||||
2000 | J2 | 338,457 | 20,207 | 鳥栖 | 駒場 | 13,408 | 新潟 | 16,923 | 20 | 駒場20 | [65] | ||||
2001 | J1 | 400,799 | 60,553 | 横浜FM | 埼玉 | 16,808 | 清水 | 26,720 | 15 | 駒場11、埼玉2、国立2 | [66] | ||||
2002 | 394,445 | 57,902 | 磐田 | 14,499 | 柏 | 26,296 | 15 | 駒場9、埼玉5、国立1 | |||||||
2003 | 432,825 | 51,195 | 鹿島 | 18,335 | 京都 | 28,855 | 15 | 駒場8、埼玉7 | [67][68] | ||||||
2004 | 549,903 | 58,334 | 横浜FM | 18,029 | 柏 | 36,660 | 15 | 埼玉9、駒場6 | [69][70] | ||||||
2005 | 669,066 | 55,476 | 名古屋 | 15,760 | 清水 | 39,357 | 17 | 埼玉13、駒場4 | |||||||
2006 | 774,749 | 62,241 | G大阪 | 16,040 | 大分 | 45,573 | 17 | 埼玉15、駒場2 | [71] | ||||||
2007 | 793,347 | 62,123 | 鹿島 | 16,709 | 神戸 | 46,667 | 17 | 埼玉15、駒場2 | [72] | ||||||
2008 | 809,353 | 57,050 | G大阪 | 16,225 | 京都 | 47,609 | 17 | 埼玉16、駒場1 | |||||||
2009 | 751,565 | 53,783 | 鹿島 | 18,777 | 神戸 | 44,210 | 17 | 埼玉16、駒場1 | |||||||
2010 | 678,994 | 55,410 | 名古屋 | 21,625 | 山形 | 埼玉 | 39,941 | 17 | 埼玉17 | [73] | |||||
2011 | 576,477 | 54,441 | 柏 | 20,240 | 福岡 | 33,910 | 17 | 埼玉17 | [74] | ||||||
2012 | 622,772 | 51,879 | 名古屋 | 25,743 | 川崎 | 36,634 | 17 | 埼玉17 | |||||||
2013 | 630,701 | 54,905 | C大阪 | 23,295 | 磐田 | 37,100 | 17 | 埼玉17 | [75] | ||||||
2014 | 603,770 | 56,758 | G大阪 | 19,777 | 甲府 | 37,736 | 17 | 埼玉17 | [76][77] | ||||||
2015 | 658,668 | 53,148 | G大阪 | 22,363 | 甲府 | 38,746 | 17 | 埼玉17 | [78][79] | ||||||
2016 | 627,898 | 56,841 | 横浜FM | 22,766 | 甲府 | 36,935 | 17 | 埼玉17 | [70][80] | ||||||
2017 | 17 | 埼玉17 |
カップ戦(Jリーグ杯・ACL)での主催試合使用スタジアム
[81]
年度 | Jリーグ杯 | ACL | 備考 |
---|---|---|---|
1992 | 大宮3 川越1 | 不参加 | |
1993 | 大宮3 | ||
1994 | (主催なし) | Jリーグ杯=完全トーナメント制 | |
1995 | (非開催) | ||
1996 | 駒場7 | ||
1997 | 駒場4 | Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む | |
1998 | 駒場2 | ||
1999 | 駒場2 | Jリーグ杯=完全トーナメント制 | |
2000 | 駒場1 | ||
2001 | 駒場3 | ||
2002 | 駒場4 | Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む | |
2003 | 駒場5 | Jリーグ杯=駒場・決勝T2を含む | |
2004 | 埼玉1 駒場2 | Jリーグ杯=埼玉・決勝T1のみ | |
2005 | 埼玉3 駒場3 | Jリーグ杯=埼玉・駒場とも決勝T1ずつ含む | |
2006 | 埼玉1 駒場3 | Jリーグ杯=駒場・決勝T1含む | |
2007 | 埼玉1 | 埼玉6 | ACL=埼玉・決勝T3を含む |
2008 | 埼玉2 駒場1 | 埼玉2 | ACL=埼玉・決勝T2のみ (前回優勝につき準々決勝からシード) |
2009 | 埼玉3 駒場1 | 不参加 | Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む |
2010 | 埼玉2 駒場1 | ||
2011 | 埼玉3 | Jリーグ杯=完全トーナメント制[82] | |
2012 | 埼玉3 | ||
2013 | 埼玉2 | 埼玉3 | Jリーグ杯=埼玉・決勝T2のみ (ACL出場につき準々決勝からシード) |
2014 | 埼玉4 | 不参加 | Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む |
2015 | 埼玉1 | 埼玉3 | |
2016 | 埼玉3 | 埼玉3 | Jリーグ杯=ACL出場につき準々決勝からシード |
最多観客動員試合
J1
- ホーム
- 62,241人(2006年第34節・G大阪戦、埼玉スタジアム2002)
※J1リーグ戦観客動員史上2位
- 9,822人(1994年1st第22節・横浜M戦、駒場競技場 - 改修前)
- 22,150人(1995年2nd第8節・磐田戦、駒場スタジアム - 改修後)
- 10,354人(1995年1st第26節・横浜F戦、大宮公園サッカー場)
- 56,652人(1995年1st第13節・V川崎戦、国立競技場)
- アウェー
- 61,246人(2008年第1節・横浜FM戦、日産スタジアム)
- 参考(リーグ戦以外の最高)
- 64,899人(2004サントリーチャンピオンシップ第1戦・横浜FM戦、横浜国際総合競技場)
※Jリーグ主催公式戦史上最高観客動員
- 67,005人(FIFAクラブワールドカップ2007準決勝・ACミラン戦、横浜国際総合競技場)
※レッズ出場公式戦史上最高観客動員
J2
- ホーム
- 20,207人(2000年第44節・鳥栖戦、駒場スタジアム)
- アウェー
- 19,825人(2000年第25節・札幌戦、札幌厚別公園競技場)
最少観客動員試合
J1
- ホーム
- 5,611人(1996年第21節・福岡戦、札幌厚別公園競技場)
- 7,854人(1994年1st第4節・広島戦、駒場競技場 - 改修前)
- 13,329人(1999年2nd第2節・柏戦、駒場スタジアム - 改修後)
- 9,168人(1995年1st第22節・広島戦、大宮公園サッカー場)
- 28,054人(2002年1st第9節・札幌戦、国立霞ヶ丘競技場)
- 19,977人(2014年第29節・甲府戦、埼玉スタジアム2002)
- ※2014年の無観客試合を除く
- アウェー
- 3,610人(1997年2nd第1節・市原戦、市原臨海競技場)
J2
- ホーム
- 13,408人(2000年第26節・新潟戦、駒場スタジアム)
- アウェー
- 4,891人(2000年第34節・甲府戦、山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場)
ユニフォーム
チームカラー
赤[1]
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | ポラス | POLUS | 2013年 - | |
三菱重工業 | MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES | 2017年 2019年 - | ACL用 | |
鎖骨 | 堀川産業 | EneCle | 2019年 - | |
背中上部 | 三菱重工業 | MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES | 2017年 - | 2017年はACL用の胸にも掲出 |
背中下部 | 島忠 | Shimachu HOME’S | 2019年 - | |
袖 | 三菱自動車工業 | MITSUBISHI MOTORS | 2017年 - | 創設 - 2004年は胸、 2006年はパンツ、 2005年、2007年 - 2016年は背中上部、 2013年、2015年 - 2016年はACL用の胸 |
パンツ | ディー・エイチ・エル・ジャパン | DHL | 2009年 - | 2007年 - 2008年は国際試合用の胸 |
- スポンサーではないが、背中最下部に国際連合承認のNGO「国連の友アジアパシフィック(FOUNAP)」との連携による「SPORTS FOR PEACE!」のロゴが入っている(2013年 - )。同様にスポンサーではないが、クラブの誇り「We are REDS!」が同じ部分に入れられている(2006年 - )。
- 左胸のエンブレム上に星(★)が横並びで3つ付けられているが、両端が2004年のJ1・2ndステージおよび2006年のJ1リーグ、真ん中の大きな星がAFCチャンピオンズリーグ2007の各優勝を表している[83](2017年まで)。2018年からは、前年にAFCチャンピオンズリーグ2017にて優勝したことに伴い、左右2つの大きな星が2つのACL優勝を、その間の小さな星が2006年のJリーグ優勝を表すようにデザインが変更された[84]。
練習着(プラクティスウェア)スポンサー
- DHL
- 三菱自動車工業
- カブドットコム証券
- トーシンパートナーズ
- 三菱UFJニコス
- メディカル・ケア・サービス
ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年 - 1996年:リーグ戦はミズノ(93年、94年のリーグ戦モデル(2nd・FP用)の組み合わせは、シャツ=水色、パンツ=黒、ストッキング=水色)、カップ戦はプーマ
- 1997年:リーグ戦はアンブロ、カップ戦はプーマ
- 1998年 - 2003年:プーマ
- 2004年 - 現在:ナイキ
歴代ユニフォーム
1st | ||||
---|---|---|---|---|
1998 | 1999 - 2000 | 2001 - 2002 | 2003 | 2004 |
2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009 |
2010 | 2011 | 2012 | 2013 | 2014 |
2015 | 2016 | 2017 | 2018 | 2019- |
2nd | ||||
---|---|---|---|---|
1998 | 1999 - 2000 | 2001 - 2002 | 2003 | 2004-2005 |
2006-2007 | 2008-2009 | 2010 | 2011 | 2012 |
2012 3rd | 2013 | 2013 3rd | 2014 | 2014 3rd |
2015 | 2016 2017 3rd | 2017 | 2018 | 2019- |
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 鎖骨 | 背中上部 | 背中下部 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
1992 | GALANT | 解禁前 | - | 解禁前 | - | - | PUMA |
1993 | MITSUBISHI MOTORS / MIRAGE | WordPerfect | Mizuno / PUMA | ||||
1994 | |||||||
1995 | COMPAQ | ||||||
1996 | |||||||
1997 | UMBRO / PUMA | ||||||
1998 | PUMA | ||||||
1999 | MIRAGE Dingo / MITSUBISHI MOTORS | トーシン | |||||
2000 | |||||||
2001 | PAJERO / MITSUBISHI MOTORS | ||||||
2002 | Smilebit | ||||||
2003 | COLT / MITSUBISHI MOTORS | hp | |||||
2004 | MITSUBISHI MOTORS | FUSO | SEGA | NIKE | |||
2005 | vodafone | MITSUBISHI MOTORS | |||||
2006 | FUSO | MITSUBISHI MOTORS | |||||
2007 | SAVAS / DHL | MITSUBISHI MOTORS | FUSO | ||||
2008 | |||||||
2009 | SAVAS | DHL | |||||
2010 | |||||||
2011 | |||||||
2012 | |||||||
2013 | POLUS / MITSUBISHI MOTORS | ||||||
2014 | POLUS | ||||||
2015 | POLUS / MITSUBISHI MOTORS | TOSHIN PARTNERS | |||||
2016 | - | ||||||
2017 | POLUS / MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES | MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES | KFC | MITSUBISHI MOTORS | |||
2018 | POLUS | - | |||||
2019 | POLUS / MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES | EneCle | Shimachu HOME’S |
- 国際大会(ACLなど)の試合時は規定により胸広告のみ掲出。
- 2007年および2008年はリーグ戦、カップ戦は「SAVAS」・ACLは「DHL」、2013年・2015年 - 2016年はリーグ戦、カップ戦は「POLUS」・ACLは「MITSUBISHI MOTORS」、2017年・2019年はリーグ戦、カップ戦は「POLUS」・ACLは「MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES」。
パートナー(スポンサー)
アカデミー
2003年に別々であった育成と編成を統合。以降、アカデミーの充実に力を注ぐことになる。
2016年、矢島慎也がアカデミー出身選手として初めてオリンピック日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。
2018年、原口元気がアカデミー出身選手として初めてFIFAワールドカップ日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。
2018年現在、アカデミー出身選手として以下の選手が各国A代表に選出されている。
日本代表
宇賀神友弥, 原口元気, 山田直輝
フィリピン代表
- 佐藤大介
香港代表
- 中村祐人
ユース
2008年の高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会で優勝するなど、ユース世代のチームとしても頭角を表してきている。
タイトル
高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ関東:1回
- 2016
高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会:1回
- 2008
日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会:1回
- 1997
Jユースカップ:1回
- 2015
イギョラカップ:1回
- 2017
水戸証券チャレンジフェスティバル 水戸ホーリーホックユースカップ:2回
- 2017, 2018
Jリーグインターナショナルユースカップ:1回
- 2015
The JSSL Professional Academy 7s:1回
- 2018
ジュニアユース
ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。
タイトル
高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会:2回
2005, 2013
関東ユース(U-15)サッカーリーグ(1部):3回
- 2009, 2013, 2015
日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会:2回
2001, 2005
ジュニア
2013年よりジュニアが新設され活動を開始している。
4種(小学生年代)で実績を残している埼玉県下の小学生を対象にセレクションを実施している。
セレクション応募者数はトップチームの人気とあいまって全国でも有数である。
出身選手
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧#アカデミー出身者
ハートフルスクール
また、ハートフルクラブの一環として小学生向けのサッカースクール(「ハートフルスクール」)を浦和駒場スタジアム、レッズランド、東松山、くまがやドーム、埼玉スタジアム、与野八王子で開催している。
マスコット
- レディア(Redia) (1992年3月31日誕生)
- 浦和市(当時)生まれ。この日行われたクラブ発足記者会見で発表され、同年6月10日に命名された。伊勢丹浦和店前の歩道には、選手の足型とともにレディアの足型が埋め込まれている他、北浦和駅周辺にはレディアの像がある。
- フレンディア(Friendia) (1997年1月26日にレディアと結婚)
- シャーレくん(Schalekun) (2006年12月2日誕生)
- ディアラちゃん(Diarachan) (2006年12月2日誕生)
エンブレム
エンブレムはクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と"MITSUBISHI URAWA FC"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である埼玉県師範学校(現在の埼玉大学教育学部の前身校の一つ)の校舎「鳳翔閣」や埼玉県の県花であるサクラソウが描かれている。
入場曲・ 公式ソング
- ファースト・インプレッション - J開幕当初、佐藤仁司広報グループ・チーフマネジャーを中心とした数名のスタッフが、市販されていない著作権なしのフリーユースのサウンド・ライブラリーを試聴し、7曲目辺りで流れたこの曲に皆の関心が集まったことから選ばれた。
We are Diamonds - レッズのオフィシャルソング。原曲はロッド・スチュワートの「セイリング」。埼玉スタジアムでのホームゲームでバックスタンドのアッパースタンドの最上部にその歌詞が掲げられている。ホーム・アウェイにかかわらず勝利後に歌われるので、サポーターの間では通称「勝利の歌」として親しまれているが、必ずしも歌われるわけでは無な、カップ戦第1戦がホームの場合や連敗中などの理由で自粛する事がある。この曲を契機として、2009年にはスチュワートと加藤順大(現:大宮アルディージャ)との対談が行われている[85]。元々はサポーターだけが歌っていたが、2012年より槙野智章の発案により、ホームゲームに限って選手とともに歌うようになった[86]。
GO! REDS GO! - 「We are Diamonds」のカップリング曲。スタジアムで選手紹介時にかかっていたが、リニューアルに伴い2012シーズンで終了[87]。
KEEP ON RISING! - レッズのオフィシャルサポーターズソング。2007年10月からJR浦和駅の京浜東北線南行(東京・横浜方面)ホームで、2007年11月から埼玉スタジアムでレッズ戦がある場合に限り埼玉高速鉄道浦和美園駅でそれぞれ発車メロディーに採用されている。
サポーター
1993年のJリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られている[88]。初期の応援を担った「クレイジー・コールズ」のリーダーはロックを基調にした応援スタイルと、チームに対するサポーターの思想や哲学を広めて今に続くサポーターの応援の原型を作り上げ[88][89]、1997年から2014年にかけて活動していた「URAWA BOYS」や「URAWA BOYS」を中心とした連合体「クルバ・エスト」にも受け継がれた[89]。また、「日本一のサポーター」と形容されることもあるが[88][90][91][92][93][94][95]、経済産業省関東経済産業局は「Jリーグ開幕当初はチームが弱く、『俺たちが支えよう』という気持ちの醸成が一助となった[94]」、2006年12月4日付けの『読売新聞』は「応援の原型を作り上げたサポーターがメディアに取り上げられ、盛り上がり次々に若者が集まった」ことを理由の一つとしている[88]。
また海外からも熱狂的なサポーターとして知られており、フランス誌『So Foot』は世界のサポーター10選を紹介し、その中に日本の浦和レッズが世界9位に選出された。この企画で紹介されたチームの中で、アジアから選ばれたのは浦和のみで、ヨーロッパが7チーム。アジア、南米、アフリカからそれぞれ1チームとなっている[96]。
レッズのサポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こす一部サポーターも存在しており、2013年の清水戦(アウェイ)では試合前に相手チーム選手が乗ったバスに対して爆竹や発煙筒を投げつけた後、入場を制止した警備員に対し暴行を加えた容疑で4人が逮捕された[97]。さらには2014年3月8日の鳥栖戦(ホーム)で起きた浦和レッズ差別横断幕事件によりクラブは史上初の無観客試合開催という重い制裁を受けた。この事件をきっかけとして、レッズレディースを含むすべての直系育成チーム[98] の試合における横断幕(ビッグフラッグ、ゲートフラッグ、人文字、プラカードも含む)、大旗の使用をアウェー・ホーム開催を含め一切禁止する自主規制が一時期実施され[99]、「URAWA BOYS」を含むサポータークラブ連合体『クルバ・エスト』を構成する11組のサポーターズクラブが解散した。また、「URAWA BOYS」は2018年より活動を再開している。
Jリーグの多くのクラブでは12番をサポーター用の番号として欠番にするチームが多い中、浦和は12番を欠番とせず選手に着用させている。
メディア
テレビ
REDS TV GGR(テレビ埼玉)毎週金曜 23:30-24:00(再放送)翌日土曜 7:30-8:00- REDS NAVI(テレ玉)2010年を持って放送終了。
REDS! GET GOAL!(J:COM さいたま、J:COM 東上、J:COM 所沢、J:COM 川口戸田、J:COM 北関東:ケーブルテレビ・制作 ジェイコムさいたま)インタビュアー 河合貴子
スーパーJリーグマッチ(テレ玉)ホームゲームの大半を中継
REDS REVIEW(スカパー!・スカチャン1(CS801、Ch.581、Ch.181)、BSスカパー!、スカパー!オンデマンド)
VS嵐(フジテレビ)嵐チームに3勝1敗。
- 映画
クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝 - 朝の会話に出てくる
ラジオ
WARMING UP MUSIC(NACK5)
- 「ALL THE REDS」 毎週月〜金曜 6:53-
- 「SPORTS SHOT」 毎週月〜金曜 7:26-
- 「HEART BEAT REDS」 毎週月〜金曜 8:26-
- FUN FUN SOCCER(NACK5) 毎週土曜 6:00-7:00 2016年9月をもって終了
REDS WAVE(87.3 MHz) 「24時間いつ聴いてもレッズ」をコンセプトにしたコミュニティFM。浦和レッズと浦和をメインとするさいたま市の街の情報が中心で2005年12月に開局した。
週刊☆サッカー王国 (NHK-FM さいたま放送局) 毎週金曜 18:00-18:50
新聞・雑誌
埼玉新聞 (地方紙)
浦和レッズマガジン(フロムワン発行、朝日新聞出版発売)浦和レッズ専門雑誌 毎月12日発売
浦和フットボール通信(フリーペーパー) 浦和レッズ・浦和の街の情報を集めたフリーペーパー 毎月発売
マッチデープログラム 1992年のJリーグカップ以降、全てのホームゲームにおいて発行されている(その他、カップ戦の決勝戦の際にも発行され、シーズン開幕前には増刊号が発行される)。定価は税込み300円(2005年、2006年は200円であった)。2004年までは地元の埼玉新聞が編集を行っていたが、2005年から浦和レッズが直接携わり、編集は埼玉新聞に勤務していた清尾淳が一貫して担当し続けている。略して「MDP」という呼び方は、特に浦和レッズのマッチデープログラムを呼ぶのに使われる。
朝日新聞タブロイド紙レッズトゥモロー 2007年からパートナーの朝日新聞が埼玉県内限定でホームゲーム前日に発行する4ページタブロイド紙を始めた。浦和レッズが編集しており、浦和レッズに関する情報が掲載されている。1回当たりの発行部数は60万部で、年間約25回発行される。サッカー専門の紙媒体としては、日本で最大部数となっている。
Little Diamonds ユース、ジュニアユースの活動を紹介するリポートで毎月1回発行。レッドボルテージおよび大原のクラブハウスのサポーターズカフェで閲覧できるほか、クラブの公式サイトからPDFで閲覧できる(2010年4月4日配布のNo.48が最終号となった)。
- Little Diamonds
インターネット
- 浦和レッズ・オフィシャル・ウェブサイト 浦和レッズが発信する公式ホームページ。通常のニュースや情報のほか、動画による配信もある。
- 浦和レッズモバイル 浦和レッズが運営する有料の携帯サイト。
- レッズプレス 外部メディアが運営する有料の非公式携帯サイト。
ホームタウン浦和
旧浦和市域(浦和地区)には、2018年現在約57万人が居住し、浦和区、南区、緑区、桜区に分かれている。今でこそサッカーの盛んな街というイメージが強いが、Jリーグ隆盛前はもっぱら浦和高校や浦和画家に由来する文教都市や高級住宅街として知られていた。
緑区の埼玉スタジアムを筆頭に、各区に浦和レッズに関連した施設が所在する。浦和区にはさいたま市駒場スタジアムや大原サッカー場、レッドボルテージなどの施設があり、伊勢丹浦和店ルイ・ヴィトン前には主要選手の手形や足形のレリーフが毎年設置されている(伊勢丹浦和店#浦和レッズレリーフを参照)。また浦和駅1番線の発車メロディとしてオフィシャルサポーターソング『Keep On Rising』が使われている。そして南区には漫画・アニメ『赤き血のイレブン』の舞台のモデルである浦和南高校、桜区にはレッズランドが所在している。サッカーの街浦和としてさいたま市役所や埼玉県庁などにおいてもポスターや旗の掲示を行っている。
埼玉スタジアムには浦和駅からの直行バスが運行されており、駒場スタジアムがホームスタジアムだった頃と変わらず、週末には浦和駅周辺でもサポーターをみることができる。
また、各区とも駅周辺や商店街などを中心に浦和レッズの赤い幟や旗が掲げられており、中央区(本町通りや北与野駅)や岩槻区、越谷市(主要スポンサーのポラス本社が所在)などの旧浦和市域以外でも旗や幟をみることができる。
決算
浦和レッズの決算は、つぎのとおり。
損益
年度 | 収入 | 広告料 | 入場料 | 配分 | その他 | 費用 | 事業費 | 人件費 | 管理費 | 利益 | 純利益 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005 | 5,805 | 1,660 | 1,949 | 549 | 1,647 | 5,448 | 4,986 | 2,342 | 462 | 357 | 167 |
2006 | 7,078 | 2,288 | 2,531 | 688 | 1,571 | 6,855 | 5,934 | 2,499 | 921 | 223 | 156 |
2007 | 7,964 | 2,384 | 3,008 | 835 | 1,737 | 7,744 | 6,958 | 2,841 | 786 | 220 | 62 |
2008 | 7,091 | 2,374 | 2,866 | 350 | 1,501 | 7,057 | 6,149 | 2,406 | 908 | 34 | 24 |
2009 | 6,432 | 2,735 | 2,461 | 336 | 900 | 6,358 | 5,595 | 2,464 | 763 | 74 | 6 |
2010 | 5,625 | 2,256 | 2,249 | 279 | 841 | 5,898 | 5,217 | 2,282 | 681 | -273 | -260 |
- 金額の単位: 百万円
- 人件費は事業費に含まれる。
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2005、
2006、
2007、
2008、
2009、
2010
年度 | 収益 | 広告料 | 入場料 | 配分 | 育成 | その他 | 費用 | 人件費 | 試合 | トップ | 育成 | 女子 | 販売 | 利益 | 純利益 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011 | 5,382 | 1,821 | 1,918 | 268 | 21 | 1,353 | 5,290 | 1,866 | 615 | 364 | 67 | 55 | 2,302 | 92 | 61 |
2012 | 5,353 | 2,121 | 1,988 | 267 | 18 | 959 | 5,202 | 1,910 | 449 | 412 | 101 | 65 | 2,265 | 150 | 151 |
2013 | 5,786 | 2,319 | 2,132 | 258 | 15 | 1,062 | 5,633 | 2,016 | 497 | 434 | 102 | 62 | 2,522 | 153 | 92 |
2014 | 5,854 | 2,380 | 1,982 | 263 | 16 | 1,213 | 5,642 | 2,054 | 488 | 404 | 107 | 84 | 2,505 | 212 | 118 |
2015 | 6,088 | 2,549 | 2,174 | 270 | 16 | 1,079 | 5,961 | 2,099 | 539 | 420 | 105 | 73 | 2,725 | 127 | 51 |
- 金額の単位: 百万円
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2011、
2012、
2013、
2014、
2015
年度 | 収益 | 広告料 | 入場料 | 配分 | 育成 | 物販 | その他 | 費用 | 人件費 | 試合 | トップ | 育成 | 女子 | 物販 | 販売 | 利益 | 純利益 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2016 | 6,606 | 2,593 | 2,375 | 319 | 14 | 778 | 527 | 6,426 | 2,381 | 594 | 450 | 113 | 71 | 502 | 2,315 | 180 | 173 |
- 金額の単位: 百万円
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2016
資産
2017年1月に第三者割当増資が実施され、資本金が増加した[100]。
年度 | 総資産 | 総負債 | 純資産 | 資本金 |
---|---|---|---|---|
2005 | 2,421 | 2,093 | 327 | 160 |
2006 | 2,240 | 1,757 | 482 | 160 |
2007 | 2,262 | 1,717 | 544 | 160 |
2008 | 2,116 | 1,548 | 568 | 160 |
2009 | 1,890 | 1,316 | 574 | 160 |
2010 | 1,450 | 1,135 | 315 | 160 |
2011 | 1,297 | 921 | 376 | 160 |
2012 | 1,129 | 602 | 527 | 160 |
2013 | 1,279 | 659 | 620 | 160 |
2014 | 1,309 | 571 | 738 | 160 |
2015 | 1,549 | 760 | 789 | 160 |
2016 | 2,015 | 828 | 1,187 | 273 |
出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。
2005、
2006、
2007、
2008、
2009、
2010、
2011、
2012、
2013、
2014、
2015、
2016
金額の単位: 百万円
脚注・出典
注記
^ 前身のアジアクラブ選手権時代を含む。また、JリーグクラブとしてAFCチャンピオンズリーグ初優勝も成し遂げた。
^ 2008年12月1日時点の資本比率は以下の通り[4]。
- 三菱自動車工業 - 8100万円(50.75%)
- 埼玉県、さいたま市 - 各800万円(5.00%)
エコ計画、埼玉縣信用金庫、トーシンパートナーズ、コカ・コーライーストジャパン - 各400万円(2.50%)- 郷前 - 300万円(1.875%)
アサツーディ・ケイ、ジェイコムさいたま、FM NACK 5、埼玉工業、埼玉交通、埼玉新聞社、埼玉りそな銀行、東京正直屋、ジャスト、セガ、大日本印刷、テレビ埼玉、三菱UFJニコス、東京海上日動火災保険、ピーエス三菱、藤島建設、藤島住宅、三菱商事、三菱地所、三菱重工業、三菱電機、りそなカード - 各200万円(1.25%)
^ 「Jクラブは、直接たると間接たるとを問わず、他のJクラブまたは当該他のJクラブの重大な影響下にある法人の経営を支配しうるだけの株式(公益社団法人または特定非営利活動法人にあっては社員たる地位)を保有している者に対し、自クラブまたは自クラブの重大な影響下にあると判断される法人の経営を支配できるだけの株式(公益社団法人または特定非営利活動法人にあっては社員たる地位)を保有させてはならない。」というもの[5]。
^ 株主に加わったのは以下の15社[10]。括弧内は割り当て株式数。
セレモニー、ポラス、メディカル・ケア・サービス(以上40株)
麒麟麦酒、ファミリー引越センター、丸和運輸機関(以上30株)
アイル・コーポレーション、カブドットコム証券、サイデン化学、セキチュー、でんきち、文化シヤッター、明治安田生命保険、与野フードセンター、リズム時計工業(以上20株)
^ 当時はリーグ一括契約
- ^ abcd日本国籍取得後の2007年に登録名を「セルヒオ・エスクデロ」から「エスクデロ・セルヒオ」に、さらに浦和退団後の2014年に「エスクデロ競飛王」に変更。
出典
- ^ abcdefghijklmno“クラブ・選手名鑑:浦和レッズ プロフィール”. 日本プロサッカーリーグ. 2019年1月3日閲覧。
- ^ abcdefg“2017年度(平成29年度)Jクラブ個別情報開示資料”. 日本プロサッカーリーグ. 2018年8月7日閲覧。
- ^ abc“会社概況”. 浦和レッドダイヤモンズ株式会社. 2017年1月28日閲覧。
^ 会社状況 - ウェイバックマシン(2016年11月19日アーカイブ分)
^ Jリーグ規約 (PDF) , p.10
^ “どうなる浦和と横浜マ 三菱自と日産が資本提携”. 毎日新聞. (2016年5月12日). http://mainichi.jp/articles/20160512/k00/00e/050/249000c 2017年1月13日閲覧。
^ “【浦和】「レッズ」守る!三菱グループ内で持ち株移譲へ”. スポーツ報知. (2016年6月10日). http://www.hochi.co.jp/soccer/national/20160609-OHT1T50204.html 2017年1月13日閲覧。 [リンク切れ]
^ “三菱自動車の浦和レッドダイヤモンズへの出資比率を変更” (プレスリリース), 三菱自動車工業, (2016年10月31日), http://www.mitsubishi-motors.com/publish/pressrelease_jp/corporate/2016/news/detail5021.html 2017年1月14日閲覧。
^ “三菱重工が浦和レッズの保有主体に 新しい運営子会社設立、三菱自も出資継続”. 産経新聞. (2016年10月31日). http://www.sankei.com/economy/news/161031/ecn1610310023-n1.html 2016年11月26日閲覧。
^ “第三者割当増資に伴う、発行済株式数並びに株主数変更のお知らせ” (プレスリリース), 浦和レッドダイヤモンズ, (2017年1月26日), http://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/%e7%ac%ac%e4%b8%89%e8%80%85%e5%89%b2%e5%bd%93%e5%a2%97%e8%b3%87%e3%81%ab%e4%bc%b4%e3%81%86%e3%80%81%e7%99%ba%e8%a1%8c%e6%b8%88%e6%a0%aa%e5%bc%8f%e6%95%b0%e4%b8%a6%e3%81%b3%e3%81%ab%e6%a0%aa%e4%b8%bb/ 2017年1月28日閲覧。
^ 2005Jリーグ スタジアム観戦者調査報告書[リンク切れ]
^ 浦和レッズがもたらす経済波及効果は年間127億円(平成19年11月)
^ 「ACLに挑むJクラブ」Jリーグファンズガイド2007年版(Jリーグ発行・コナミデジタルエンタテインメント発売)。同書で藤口は「ホーム不敗の埼玉スタジアムでの開催をすることによって、多くのファン・サポーターの方に来てもらって、絶対に勝つという姿勢でACLを戦う」と話している。
- ^ ab浦和サポがバルサやリバプールと肩を並べる…米メディア選定“世界トップ5”にランクイン (ゲキサカ)
^ シャペコエンセ(ブラジル)へのビジュアルシート贈呈のお知らせ (浦和レッズ公式サイト)
^ 浦和のACL制覇にブラジルからも祝福。飛行機墜落事故のシャペコエンセが「おめでとう」(フットボールチャンネル)
^ 宇都宮徹壱 『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』 カンゼン、2016年、14頁。
^ 『浦和レッズ10年史』 浦和レッドダイヤモンズ・ベースボール・マガジン社編集 2002年、86-88頁
山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行 論創社 1998年、68-92、101-104、236-238頁
サンケイスポーツ、2005年12月30日3面
【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話
- ^ abそうだったんですか!?レッズ(Internet Archive)
- ^ abARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[最終回]
^ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号
^ [浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー
^ 山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年、52-83、138-157頁
^ “橋本代表就任記者会見” (プレスリリース), 浦和レッドダイヤモンズ, (2009年4月24日), http://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E5%B0%B1%E4%BB%BB%E8%A8%98%E8%80%85%E4%BC%9A%E8%A6%8B/ 2013年3月17日閲覧。
^ 前身の三菱時代には4度日本サッカーリーグで優勝しており、トップリーグ制覇は24年ぶり5度目であった。
^ 2013年に横浜F・マリノスが第33節対アルビレックス新潟戦で62,632人を集め記録更新するまで約7年間Jリーグ記録だった。
^ 欧州に倣ってACLの前身アジアクラブ選手権を含めて換算すると1999年の磐田以来8年ぶりとなる。
^ 2位の鹿島は残り5節は全勝した(勝点15を稼いだ)のに対し、浦和は残り5節で僅か勝点3しか稼げなかった。
^ 3位はFIFAクラブワールドカップにおけるアジア代表の最高成績タイとなる。
^ 当時優勝チームはシードとして準々決勝から登場することになっていた。
^ 闘莉王との契約について
^ “新監督にゼリコ・ペトロヴィッチ氏”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2010年12月7日). 2011年10月23日閲覧。
^ “2011シーズン、コーチングスタッフ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月19日). 2011年10月23日閲覧。
^ “都築龍太選手、契約満了のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月19日). 2011年10月23日閲覧。
^ “都築龍太が引退を決意”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月28日). 2011年10月23日閲覧。
^ “都築龍太さん引退セレモニー延期のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年8月4日). 2011年10月23日閲覧。
^ “都築龍太さん、引退セレモニー24日に実施”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年8月22日). 2011年10月23日閲覧。
^ “エジミウソン、アルガラファに完全移籍、”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年6月29日). 2011年10月23日閲覧。
^ “堤 俊輔、栃木SCに期限付き移籍”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年7月14日). 2011年10月23日閲覧。
^ “堤俊輔選手期限付き移籍加入のお知らせ”. 栃木SC公式サイト (2011年7月14日). 2011年10月23日閲覧。
^ “ランコ デスポトビッチ選手、加入決定”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年7月2日). 2011年10月23日閲覧。
^ “山道守彦の強化部長就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年9月12日). 2011年10月23日閲覧。
^ “ペトロヴィッチ監督、ボヘルスコーチとの契約解除について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年10月20日). 2011年10月23日閲覧。
^ “堀 孝史ユース監督、トップチーム監督就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年10月20日). 2011年10月23日閲覧。
^ 東日本大震災の影響で当初予定されていたグループリーグは行なわれず完全トーナメント制となった。
^ “2012シーズンのトップチーム体制について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2012年1月17日). 2012年1月17日閲覧。
^ “法人名変更のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2012年4月12日). 2017年2月5日閲覧。
^ 当日のセレモニーではそれぞれのチームで記憶に残る活躍をした選手(レッズからはポンテ、アントラーズからはアルシンド)と、Jリーグ開幕日(1993年5月15日)生まれの尾崎千瑛がスピーチを行なった。なお、試合結果は3-1でレッズの勝利となった。
^ “「軽率だった」ミスで失点に絡んだ浦和MF宇賀神「何回同じことをやっているのか」”. ゲキサカ[講談社] (2016年12月4日). 2016年12月4日閲覧。
^ 本来第13節は5月27・28日開催だが、AFCチャンピオンズリーグ2017への出場に伴い日程を繰り下げて7月5日に開催している。
^ 本来第22節は8月13日開催だが、スルガ銀行チャンピオンシップ2017への出場に伴い日程を繰り上げて7月22日に開催している。
^ “ミハイロ ペトロヴィッチ監督との契約解除について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2017年7月30日). 2017年7月31日閲覧。
^ “堀 孝史トップチームコーチの監督就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2017年7月30日). 2017年7月31日閲覧。
^ 2-0でもPK戦で勝利すれば勝ち抜けられる。
^ “浦和レッズ、ACL決勝進出決定。サポーターと共に10年ぶりのアジア制覇へ”. FootballTribe (2017年10月18日). 2017年10月18日閲覧。
^ 浦和レッズマガジン 2017浦和名鑑 完全保存版80頁
^ 降格したチームの中でスコアレスドローも含めた無失点試合は、大宮は5試合、新潟は7試合、甲府に至っては10試合である。
^ “堀監督との契約解除について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2018年4月2日). 2018年4月2日閲覧。
^ “大槻 毅 育成ダイレクターのトップチーム監督就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2018年4月2日). 2018年4月2日閲覧。
^ “オズワルド オリヴェイラ監督就任について”. URAWA RED
DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2018年4月19日). 2018年4月19日閲覧。
^ 他には1999年のJリーグカップで京都の松永成立、2004年のJ2で横浜FCの菅野孝憲、2006年のJ2で東京Vの高木義成が記録している
- ^ ab1994年第2ステージと1995年代1ステージは駒場のスタンド増築工事のため、暫定として大宮を本拠地とする
^ 第2ステージより駒場の本拠地再開
^ J2リーグ降格
^ J1リーグ復帰
^ 埼玉スタジアム完成。但し2002 FIFAワールドカップ開催に伴う芝生保護のため、本拠地は引き続き駒場のみ
^ この年、正式に埼玉スタジアムも本拠地登録され、駒場・埼玉併用に
^ ナビスコ杯優勝
^ 他、CS:埼玉1
- ^ abJ1リーグ第2ステージ優勝
^ J1リーグ優勝
^ ACL優勝
^ 登録上は駒場と本拠地並列も、リーグ戦は埼玉のみに統合(カップ戦は駒場も使用)
^ 登録上は駒場と本拠並列も、カップ戦(天皇杯除く)を含め、Jリーグ公式戦全試合を埼玉のみに会場を一本化
^ 駒場の本拠登録抹消
^ 観客動員数は無観客試合となった第3節・清水戦は除いてある
^ 駒場の本拠登録復帰(但し公式戦には使用せず)
^ 他、CS準決勝:埼玉1
^ J1リーグ第1ステージ優勝
^ 他、CS決勝:埼玉1
^ フットボールガイスト
^ 当初は予選リーグ+決勝トーナメントを予定していたが、東日本大震災による開催日程変更によりリーグ戦中止となった
^ “浦和レッズトップパートナー・新ユニホームについて”. J's GOAL (2008年1月11日). 2013年3月17日閲覧。
^ 2018シーズン ユニフォームパートナー及び新ユニフォームについて 浦和レッドダイヤモンズ 2018年1月11日配信
^ ロッド・スチュワートからのメッセージ URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEB SITE 2009年3月17日配信
^ 吉沢康一×椛沢佑一緊急対談『We are Diamonds』その意味、重さを知ることが重要だ。 浦和フットボール通信 2012年8月2日
^ 2013年からはTwo Steps from Hellの"Strength of a Thousand Men"のアレンジバージョンを使用している
- ^ abcd“《中》圧巻 熱烈サポーター”. YOMIURI ONLINE. 2006年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月30日閲覧。
- ^ ab清尾淳#248 歴史+追伸 - MDPはみだし話
^ “浦和 ACL 日本勢初V”. 埼玉新聞 (2007年11月14日). 2014年11月30日閲覧。
^ “【2013シーズン始動!】浦和:新加入選手・新ユニフォーム発表記者会見での出席者コメント(13.01.15)”. J's GOAL (2013年1月15日). 2014年11月30日閲覧。
^ “2001浦和レッズ新加入選手記者発表会”. REDS VOICE (2001年2月9日). 2014年11月30日閲覧。
^ 松本博之 (2005年3月31日). “特別調査レポート 浦和レッズはなぜ成功しているのか? “11(イレブン)”のその秘密を探る〜プロスポーツと地域社会の在り方を通して〜 (PDF)”. ぶぎん地域経済研究所. 2014年11月30日閲覧。
- ^ ab松本博之 (2005年3月31日). “第3章 ベストプラクティス21選 (PDF)”. 経済産業省 関東経済産業局. 2014年11月30日閲覧。
^ 清尾淳 (2005年3月31日). “「もう」と「まだ」の間の針を動かすのは (PDF)”. Weps うち明け話. 2014年11月30日閲覧。
^ 2013/10/28・フランス誌『So Foot』より
^ “浦和サポーター、警備員に暴行の疑い 4人を現行犯逮捕”. 朝日新聞デジタル. 2013年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月30日閲覧。
^ %99/ 全カテゴリーにおける横断幕などの掲出を禁止することについて
^ 広島戦以降の横断幕、ゲートフラッグ、旗類、装飾幕等の掲出について
^ “第三者割当増資に伴う、発行済株式数並びに株主数変更のお知らせ” (2017年1月26日). 2017年9月28日閲覧。
関連項目
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズの年度別成績一覧
- 浦和レッドダイヤモンズレディース
- 浦和レッドダイヤモンズ・アマチュア
- レッズランド
- さいたまシティカップ
- さいたまダービー
REDS TV GGR - テレビ埼玉で放送されている応援番組- 浦和レッドダイヤモンズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム
レッドボルテージ - オフィシャルショップ
ウニクス浦和美園 - サテライトグッズショップが入居- 赤菱のイレブン
- 彩の国功労賞
- 三菱重工
- 三菱自動車
レッズと同じく、三菱グループ内のサッカー部を前身とする(或いは現在も同グループ内のサッカー部として活動する)クラブ
三菱化成黒崎サッカー部(現:ギラヴァンツ北九州)
三菱自動車水島FC (←三菱自動車工業水島FC)- 三菱重工長崎サッカー部
- 九州三菱自動車サッカー部
外部リンク
- 公式ウェブサイト
浦和レッドダイヤモンズ - Facebook
浦和レッズオフィシャル (@REDSOFFICIAL) - Twitter
URAWA RED DIAMONDS (urawaredsofficial) - Instagram
- レッズランド
- レッドダイヤモンズ後援会
浦和レッドダイヤモンズ 関連テンプレート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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