垂仁天皇
垂仁天皇 | |
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第11代天皇 | |
在位期間 垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日 | |
先代 | 崇神天皇 |
次代 | 景行天皇 |
誕生 | 崇神天皇29年 |
崩御 | 垂仁天皇99年 140歳 |
陵所 | 菅原伏見東陵 |
別称 | 活目入彦五十狭茅尊 活目尊 等 |
父親 | 崇神天皇 |
母親 | 御間城姫命 |
皇后 | 狭穂姫命 日葉酢媛命 |
子女 | 景行天皇 他 |
皇居 | 纒向珠城宮 |
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。
目次
1 略歴
2 名
3 事績
4 系譜
4.1 系図
5 后妃・皇子女
6 年譜
7 宮
8 陵・霊廟
9 伝承
9.1 夢占い
9.2 相撲節会の起源
9.3 埴輪の起源
9.4 山背の綺戸邊
9.5 非時香菓
10 考証
10.1 実在性
10.2 生年、立太子年
11 脚注
12 外部リンク
略歴
崇神天皇の第3皇子。生母は皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)。24才で皇太子に立てられる。
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位。即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の狭穂姫を皇后とした。即位5年に皇后の兄の狭穂彦が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した。即位15年2月、丹波道主王の娘の日葉酢媛を新たな皇后として大足彦尊(景行天皇)、倭姫命らを得た。即位37年、大足彦尊を立太子。即位99年、崩御。
伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされる。
名
- 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 活目天皇(いくめのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 活目尊(いくめのみこと) - 『日本書紀』
- 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』
- 伊久米天皇 - 『常陸国風土記』
- 生目天皇 - 『令集解』所引「古記」
- 伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王 - 『上宮記』
漢風諡号である「垂仁天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
即位3年、纒向珠城宮に都を移した。即位5年、天皇の従妹にあたる狭穂彦は妹の皇后を唆して天皇を暗殺しようとした。皇后の狭穂姫は短刀を渡され、寝ている天皇を刺せと言われた。しかしもう少しというところでどうしてもできず天皇にすべてを打ち明けた。天皇は狭穂彦を討伐することにしたが、兄を見捨てられない狭穂姫は自分が生んだ天皇の子を連れて狭穂彦の元に走った。天皇が狭穂彦の城に火をつけると狭穂姫が飛び出してきたが、子の誉津別命だけを預けて燃える城の中に戻ってしまった。狭穂姫は兄と共に焼け死んでしまった。
遺された誉津別命を天皇はかわいがったが、誉津別命は大人になっても言葉を話すことができず子供のようだった。あるとき白鳥がやってきたのを見て誉津別命は「あれはなんだ」と初めて言葉を発した。喜んだ天皇は湯河板挙にその白鳥を捕まえるよう命じた。湯河板挙は出雲で白鳥を捕まえて献上し白鳥を誉津別命の遊び相手にした。すると誉津別命は言葉を話せるようになったので、ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けた。『古事記』にはさらに詳しい話がある。
即位15年、天皇は丹波道主王の娘たちを新たに後宮に入れた。長女の日葉酢媛は皇后となった。しかし末娘の竹野媛だけは醜かったので故郷に返した(『古事記』では歌凝比売 ・円野比売)。大いに恥じた竹野媛は葛野で輿から投身自殺してしまった。即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した(元伊勢伝承)。即位27年、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作った。また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた。即位35年、子の五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。即位88年、天日槍の曾孫の清彦に但馬の神宝を献上させた。即位99年崩御。
系譜
系図
豊城入彦命 | [毛野氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10 崇神天皇 | 11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫命 | 13 成務天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦坐王 | 丹波道主命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山代之大 筒木真若王 | 迦邇米雷王 | 息長宿禰王 | 神功皇后 (仲哀皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | 16 仁徳天皇 | 17 履中天皇 | 市辺押磐皇子 | 飯豊青皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
18 反正天皇 | 24 仁賢天皇 | 手白香皇女 (継体皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
菟道稚郎子皇子 | 23 顕宗天皇 | 25 武烈天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
19 允恭天皇 | 木梨軽皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
20 安康天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
21 雄略天皇 | 22 清寧天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
春日大娘皇女 (仁賢皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稚野毛 二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍坂大中姫 (允恭皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
皇后(前):狭穂姫命(彦坐王の女)。垂仁天皇5年に焼死したとされる
- 誉津別命
- 皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王の女)
- 五十瓊敷入彦命
- 大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇)
- 大中姫命(おおなかつひめのみこと、『古事記』には大中津日子命)
倭姫命。初代斎宮
- 稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)
- 妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
鐸石別命(ぬてしわけのみこと)。和気氏の祖- 胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)
- 妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
- 妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
- 息速別命
- 稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)
- 妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女)。かぐや姫のモデル?
- 袁那弁王(おなべのみこ、『古事記』のみ)
- 妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
磐衝別命。三尾氏の祖- 両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命)。日本武尊の妃、仲哀天皇の母
- 妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁)。弟苅羽田刀弁の姉
祖別命(おおちわけのみこと、落別王・於知別命・意知別命)。伊賀国造・小槻氏の祖
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)。石田君らの祖。
胆武別命(伊登志別王)
- 母親未詳
円目王(『令集解』に見える)
年譜
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
- 崇神天皇29年
- 1月1日、誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、御間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)
- 崇神天皇48年
- 4月、皇太子に立てられる。
- 垂仁天皇元年
- 1月、即位。
- 垂仁天皇2年
- 2月、狭穂姫を立后
- 10月、纒向に遷都。
- 垂仁天皇3年
3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
- 垂仁天皇5年
10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
- 垂仁天皇7年
- 7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
- 垂仁天皇15年
- 2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れる
- 8月、後宮に入れた丹波道主王の女たちから日葉酢媛を皇后とした。
- 垂仁天皇23年
- 鳥取部、鳥養部、譽津部が設けられた(狭穂姫の遺児の誉津別命が初めて言葉を発した記念とされる)
- 垂仁天皇25年
- 3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
- 垂仁天皇27年
- 8月、諸神社に武器を献納し神地・神戸を定める。
- 来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。
- 垂仁天皇28年
殉死の禁令。
- 垂仁天皇32年
- 7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風習に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)[1]。
- 垂仁天皇35年
五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
- 垂仁天皇37年
大足彦尊を皇太子とする。
- 垂仁天皇39年
- 10月、五十瓊敷入彦命が剣千振を作り石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
- 垂仁天皇88年
- 7月、天日槍の曾孫の清彦に但馬の神宝を献上させる
- 垂仁天皇90年
- 2月、天日槍の玄孫の田道間守に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
- 垂仁天皇99年
- 7月、崩御[2]。140歳(『日本書紀』)、150歳(『古事記』)、139歳(『大日本史』)。
- 12月、菅原伏見陵に葬られた。
- 景行天皇元年
- 3月、田道間守が帰国。
宮
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、『古事記』では師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市穴師周辺。
なお京都府久世郡久御山町市田の地には宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「宝来山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。
『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」とある。『延喜式』諸陵寮には「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」と記される。
現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
伝承
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。
夢占い
父帝の崇神天皇は豊城命と活目尊(後の垂仁天皇)の兄弟のどちらかを皇太子にしようと考えた。そこで二人が見た夢から決めることにした。兄の豊城命は東に向かって武器を振るう夢を見た。弟の活目尊は縄を四方に張って雀を追い払う夢を見た。兄は東しか向いていないが弟は四方を見ていると判断した父帝は活目尊を皇太子にした。
相撲節会の起源
当麻村に当麻蹴速という強者がいた。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで出雲国造家の野見宿禰が召喚された。野見宿禰は当麻蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられた。これが相撲節会の起源だとされる。
埴輪の起源
皇后の日葉酢媛命が亡くなったときのことである。少し前に亡くなった倭彦命の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。
なお考古学的には人型や馬型の埴輪はかなり後になって出てくるものであり、この話は正しくないことがわかっている。
山背の綺戸邊
天皇が山背(京都府南部)に行幸したときのことである。綺戸邊(かにはたとべ)という美人がいると聞いた天皇は「もしその人と縁があるならば瑞兆があるはずだ」と誓約(うけい)をした。もうすぐ行宮(宿)に着くというところで大きな亀を見つけた天皇は矛を取って突き刺した。すると亀は白い石へと変わった。なるほど、これが瑞兆なのだろうということで綺戸邊は後宮に召された。
非時香菓
天皇は晩年に田道間守を常世国へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。常世国にたどり着いた田道間守は非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。悲観した田道間守は天皇の墓のそばで自殺した。この実は今の橘であると『日本書紀』に書かれているが諸説ある。
考証
実在性
『日本書紀』、『古事記』に見える垂仁天皇の事績は総じて起源譚の性格が強いため史実性を疑問視する説もあったが、近年においては実在を認めることが多い[3]。
生年、立太子年
『日本書紀』の垂仁天皇即位前紀によると垂仁天皇は崇神天皇29年に誕生し24才で皇太子になったとある。つまり立太子年は崇神天皇53年である。ところが崇神天皇元年二月条では、これより前に御間城姫が垂仁天皇を生んだとある。また崇神天皇48年に垂仁天皇が立太子されたとある。つまり皇太子になったのは48才以上でのことである。これらは明らかに矛盾する記述となっており、崇神紀と垂仁紀で依拠した資料が異なると推察される。
脚注
^ 『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたという意味。
^ 『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとある。この干支は『書紀』の庚午年没と1年異なるが『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が辛未のため一致している。
^ 吉村武彦「列島の文明化と律令制国家の形成(稿)」『古代学研究所紀要』第21号(2014)明治大学日本古代学研究所
外部リンク
菅原伏見東陵 - 宮内庁
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