スペイン内戦
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スペイン内戦 | |
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(上段左より時計回り) ベルチテの戦いに展開する第11国際旅団のT-26戦車 反乱軍のBf109A戦闘機 スペイン領西アフリカでの爆撃 アルカサル包囲戦における共和国軍兵士 ナショナリスト軍の対空砲 ジブラルタル付近で警戒にあたるイギリス海軍戦艦ロイヤル・オーク | |
戦争: | |
年月日:1936年7月17日 - 1939年4月1日 | |
場所: スペイン共和国 スペイン領モロッコ バレアレス諸島 地中海 スペイン領ギニア 北海 | |
結果:反乱軍の勝利。第二共和政の崩壊。フランコによる独裁体制成立。 | |
交戦勢力 | |
スペイン共和国 国際旅団 ソビエト連邦 メキシコ | ナショナリスト派 イタリア王国 ドイツ国 ポルトガル |
指導者・指揮官 | |
マヌエル・アサーニャ フランシスコ・ラルゴ・カバリェーロ フアン・ネグリン エンリケ・リステル ホセ・アントニオ・アギーレ リュイス・クンパニィス | エミリオ・モラ フランシスコ・フランコ ゴンサーロ・ケイポ・デ・リャーノ ホセ・サンフルホ ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ マリオ・ロアッタ ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン |
戦力 | |
歩兵 450,000 航空機 350 | 歩兵 600,000 航空機 600 |
スペイン内戦( -ないせん、スペイン語:Guerra Civil Española、英語:Spanish Civil War)は、1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持・直接参戦するなどした。
目次
1 概要
2 背景
3 内戦の展開
3.1 反乱軍の進撃
3.2 共和国軍の混迷
3.3 人民戦線最後の攻勢と内戦の終結
4 国際旅団
5 メキシコ
6 戦後
7 影響
8 交戦国・支援国・団体
8.1 共和派
8.2 ナショナリスト派
9 年表
9.1 1936年
9.2 1937年
9.3 1938年
9.4 1939年
10 スペイン内戦を題材とした作品
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
概要
スペイン内戦は、スペイン陸軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。
内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、西欧諸国の個人から多くの義勇兵を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。
この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家のアーネスト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパらが関わった)。そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。
邦訳についてはスペイン内乱、スペイン市民戦争とも表記され、特に近年は後者が用いられることも多い。
背景
第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立した。
1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立するが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立は続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れなかったため、政治的膠着状態が続いていたが、1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で、従来あらゆる政府に反対する立場から棄権を呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換した。その結果、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャ(左翼共和党)を大統領、サンティアゴ・カサーレス・キローガ(Santiago Casares Quiroga)を首相とする人民戦線政府が成立した。しかし、人民戦線も大きく分けて議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・無政府主義革命を志向する強硬派が存在し、当初は決して一枚岩ではなかった。
7月12日、共和派軍人として有名であった突撃警備隊(Guardia de Asalto)中尉ホセ・カスティージョ(José del Castillo Sáenz de Tejada)が4人のファランジストによって暗殺される事件が発生。グアルディア・シビル大尉フェルナンド・コンデス(Fernando Condés)に率いられたカスティージョの同志達は報復として、翌7月13日にスペイン保守派の中心人物の一人であったホセ・カルボ・ソテーロ(José Calvo Sotelo)を暗殺した。
キローガ政権は暗殺に非難声明を出し、アサーニャ大統領を始めとする政権内の穏健派は、暗殺が反乱の引き金になると憂慮したが、ソテーロ暗殺により、「もはや反乱を起こさない方が、起こす方よりも危険である」との認識が広まり、その危機感をバネに兼ねてから反乱を準備していた右派は急速に結束した。一方、人民戦線内の社労党左派や共産党などは民兵の動員に走り、労働者への武器供与を要求した。また、ストライキの頻発や地方議会の打倒など、革命ムードを高めて行った。
7月17日、エミリオ・モラ・ビダル(Emilio Mola Vidal)を首謀者として、植民地モロッコのメリージャで反乱が起こった。要注意人物としてカナリア諸島に左遷されていたフランコなどがこれに呼応し、フランコは植民地モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上った。反乱が起こると、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会、地主、資本家、軍部、外交官、グアルディア・シビルなどの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。政権側に留まったのは共和制支持者や左翼政党、労働者、バスクやカタルーニャ自治を求める勢力などであった。
アサーニャは右派をなだめるためキローガ内閣を辞職させ、7月18日、後任に穏健派である共和統一党のディエゴ・マルティネス・バリオ(Diego Martínez Barrio)を擁立した。バリオはモラに陸軍大臣の座を用意して懐柔しようとしたが、モラは「貴兄と意見の一致をみたなどと(反乱軍民兵隊の)連中に言ったら、私が真っ先に血祭りにあげられてしまう。マドリードの貴兄も同じことが言えるんじゃないか。二人とも、もはやお互いの大衆を抑えることなどできないんだ」と拒否した。一方、人民戦線内の左派は、反乱軍と交渉したバリオを「裏切り者」と非難した。民衆は倒閣のデモを起こし、扇動家はバリオを血祭りに挙げるよう気勢を上げた。バリオ内閣はわずか2日で辞職に追い込まれ、7月19日、徹底抗戦を掲げるホセ・ヒラル(José Giral)内閣(左翼共和党)が成立した。また、ヒラル内閣は労働者への武器供与要求を受け入れた。
ただし、どちらの勢力も一枚岩ではなく、軍部などでも主に地理的事情で人民戦線側に付いた者も少なくなかった。フランコ一族も、兄は反乱軍に付いたが、弟と従兄弟は人民戦線側に付いた。軍部は数の上では真っ二つに割れたが、主力は反乱軍側に付いたため、人民戦線側の軍事力は当初から劣勢であった。
内戦の展開
当初の反乱指導者はモラであったが、トレドを陥落させるなど反乱軍内部で声望を高めたフランコが、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出され、指導者の地位に就いた。フランコは、ファシズム政権を樹立していたドイツとイタリア王国から支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。隣国のポルトガルに成立していたサラザールによる独裁政権もフランコを助け、アイルランドもエオイン・オ・デュフィ率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。
ドイツからは、空軍の「コンドル軍団」と空軍の指揮下で行動する戦車部隊、数隻の艦艇、軍事顧問が派遣された。イタリアはフランコにとっては最大の援助国であり、4個師団からなるスペイン遠征軍(CTV)と航空部隊、海軍部隊がスペインに派遣され、物資援助も含めると、援助額は当時の金額で14兆リラに達している。後に、フランコ政権に対して7兆リラの支払いが求められたが、踏み倒されている。ポルトガルは、最大で2万人規模の軍隊を派遣していた。
当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換した。
そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられなかった。ソ連の軍事援助は莫大だったが有償であり、メキシコからの軍事的な全体からみればごくわずかであった。しかし、国際旅団に各国から義勇兵が駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。
また、フランコの反乱と時を同じくして、工場労働者や農民などによる革命が勃発し、地方の実権を握ったとバーネット・ボロテンは指摘している。この革命は主に無政府主義者や社労党左派の支持者によって起こったが、ボロテンによれば、人民戦線路線を取るソ連にとってこの革命は不都合なものだったので、実態を隠蔽して社会主義革命ではなく「ブルジョワ民主主義革命」の段階であると主張したという。また、人民戦線政府にとっても、革命は英仏の心証を害しかねないため、やはり言及を避けた。
反乱軍の進撃
内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、ラ・マンチャ、アンダルシアなど国土の大半(どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍側はガリシアとレオン(反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域)を確保していたに過ぎなかった。
反乱軍は当初は首都のマドリード(攻撃が激化すると政府はバレンシアへ移転、さらにバルセロナへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力で塹壕が掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦の最後まで人民戦線側に掌握され続けた。このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍はイベリア半島北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。
反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコがドイツ・イタリアの支援をとりつけていたこと、反乱軍側の指導者であったモラの事故死(1937年6月)などが重なって権力の集中が進み、ファランヘ党(創設者のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラ侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。
反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ(6月)、サンタンデール(8月)、ヒホン(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。その間の4月26日にはバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52輸送機を改造した爆撃型を主体とした24機による空襲(ゲルニカ爆撃)を受けた。これは前線に通じる鉄道・道路など交通の要であった同市を破壊して共和国軍の補給を妨害することが目的で、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出た(共和国側は死傷2500人以上と、被害を過大に発表。当時は爆撃の真相は不明で、人民戦線軍による焦土作戦と言うフランコ側の主張もかなり信じられていた。これ以前から民間人に対する無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生していたのだが、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで、一躍有名になった)。
さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でもエブロ川南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。
共和国軍の混迷
当初、ソ連から送られてきた戦闘機(ポリカルポフI-15、およびI-16系)と爆撃機(SB-2)は、反政府軍空軍はもちろん、独伊の空軍機をも性能面で圧倒しており、戦場の制空権は政府側のものだった。ソ連製の戦車、装甲車もまた、走攻守全てで反政府側の装甲戦闘車両を圧倒しており、マドリード攻防戦ではイタリア軍の戦車部隊を一方的に壊滅させている。しかしながら、共和国軍(反ファシズム)側の足並みがそろわないことや、軍隊運営の不効率などで、十分に優位を活かしきれなかった。そもそも、労働者達は軍を敵視していたから、戦場でも共和国軍に留まった軍人の進言に耳を貸さなかった。一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持していたから、しばしば物量に勝る共和国軍を破った。さらに、民兵達は党派ごとに指揮系統もバラバラで、他党派の軍勢が負けると互いに喜ぶといった有様だった。急進的労働組合であり労働者自治(アナルコ・サンディカリズム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働党(POUM)と協力し、統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。緒戦の敗退から、ようやく共和国軍も軍隊の再建に乗り出したが、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって共和国軍の主導権を握ることになる。
当時スペイン銀行は外貨準備用に金を保有しており、保有量は約710トンで当時世界3位と推定されていた。しかし、反乱軍の手に渡らないよう、適当な保管場所に移す必要があるという話が持ち上がった。また、この金は、英仏の不干渉政策によって、武器購入の信用取引ができなくなっていたため、現金購入の資金として、外貨調達を行うために使われた。そこで、両方の目的のため、共和国側が抑えていた唯一の海軍基地であるカルタヘナの洞窟に移された。
当初はカルタヘナからフランス銀行へ金を輸送し、そこで外貨を調達した。輸送量は200トンに上ったが、輸送の遅れやフランス銀行からの資金受け渡し認可に手間取ったため、武器調達ははかどらなかった。しかも、イギリスの銀行は、この取引を「歓迎すべからざる目的」と見なして、資金引き渡しの怠業を行った[1]。また、反乱軍は資金の受け取りを「マルクス主義者一味との恐るべき共同犯罪」であり、「略奪」行為であり、銀行基本法に抵触すると喧伝し、訴訟などちらつかせ各国の銀行を牽制した。こうした情勢から、親ソ派を中心にソ連への金移送が持ち上がり、ソ連も渡りに船とこれに応じた。しかしアサーニャ大統領やネグリン首相への事前の相談はなかったといわれている。
ソ連に輸送された金は約510.08トンにのぼり、当時の価値で5億ドルを超えた。その多くは金塊ではなく各国の金貨だった。また、骨董的価値のある金貨も少なからず存在した。共和国の支援国ソ連は武器・人員を援助したが、それらの支援は有償であり、また、金の一部でアメリカとチェコから自動車を調達してスペインに送っている。戦後、『プラウダ』は1957年4月5日号でスペインは金を使い果たしたばかりか、5000万ドルの借款がソ連に対して残っていると主張したが、ソ連側は取引の明細を公開しなかったため信用されておらず、ソ連が金を横領したという批判も受けている[2]。現在では、ソ連から直接送り出された物資、各種兵器は4700万ルーブル分となっているが、これにはソ連が外国で調達した物資が含まれておらず、また、輸送途中でフランコ側海軍に阻止された分が含まれていない可能性もある[3]。いずれにせよ、共和国は資金を丸ごとソ連に差し出した形になり、ソ連に対してばかりか、第三国の武器禁輸を解くための交渉能力も失った。また、人民戦線内閣の崩壊直前にも、恐らくはフランコ政権へのあてつけのために金塊が運び出されている。これらの金塊に関しては、フランコ政権とソ連が国交回復したおり、返還について協議がもたれたようであるが、詳細は不明確である。
更にソ連は、いいかげん内部抗争に嫌気がさしたこともあって、人民戦線の指揮権を掌握することを目論み、軍事顧問などに偽装したNKVDが現地に派遣され、ソ連及びスペイン共産党の方針に反対する勢力を次々に逮捕・処刑した。最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに共産党は次第に勢力を拡大していった。アナキストのCNT・FAIやトロツキストのPOUMはコミンテルンに同調しなかったため、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党は彼らを批判し、内部対立を深めた。さらに、スペイン共産党側はマルクス主義統一労働党がフランコ側に内通しているとする証拠を偽造し、一気に潰そうとしたが失敗した。
第四インターナショナルのスペイン支部は、スターリン主義共産党のみならず、マルクス主義統一労働党やCNT・FAIの日和見主義をも批判したが、その勢力は数十名(しかもほとんどが外国人)を超えることはなく、革命に現実的な影響力を及ぼすことはできなかった。
1937年5月、バルセロナで遂に共産党を始めとする人民戦線政府とアナキスト・トロツキストは衝突へと至り(バルセロナ5月事件)、500名近くの死傷者を出す惨事となった。共産党側は反対派を暗殺で脅したが、相次ぐ内ゲバに内外の反発を買ったばかりか、地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。しかし、イギリス・フランスなど他国が不介入政策を採り続けたため、ソ連に頼らざるを得ない状況だった。
国際的情勢は、さらにフランコに有利なものとなった。カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。共和国側の残された願いは、第二次世界大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスがファシズム勢力に対する宥和政策を継続することが明白となり、この期待もくじかれた。イギリス・フランスはファシズム勢力がソ連ら共産主義勢力と対立することを期待しており、ソ連の支援を受けた人民戦線に味方してもソ連という敵に塩を送ることになるばかりか、世界大戦の引き金となると考えていたのである。
人民戦線最後の攻勢と内戦の終結
1938年7月25日、共和派は南北に分断された支配地域を回復しようと、エブロ川周辺で大攻勢に出る(エブロ川の戦い)。内戦の天王山となったこの戦いで共和国軍は約10万人を動員して総力を結集したことにより、緒戦は大きく前進したが、反乱軍が独伊の支援を含めた増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて共和国軍はずるずると後退、11月16日に壊走した。約3ヶ月続いた戦闘で最終的に両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国軍は反乱軍の約2倍の死者を出し、戦力を消耗し尽くしたことで組織的戦闘は実質的に終了、反乱軍の勝利が決定的となった。
1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末に州都バルセロナを陥落させた。人民戦線を支持する多くの市民が、冬のピレネー山脈を越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリスとフランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府はフランスに亡命した。
フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して共和派は徹底抗戦を目指す共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。3月27日にマドリードが陥落、3月31日にはスペイン全土が反乱軍に制圧され、4月1日にフランコによって内戦の終結と勝利が宣言された。
国際旅団
多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。国際旅団が組織され、アーネスト・ヘミングウェイ、後にフランス文相となったアンドレ・マルローなどが参加、日本人ではジャック白井という人物が1937年7月にブルネテの戦いで戦死している(名前が判明していない日本人参加者も数名いたと思われる)。ただし、結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員は知識人や学生20%、労働者80%で、また全構成員の60-85%は共産党員だった。さらに、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる(三野正洋「スペイン戦争」)。
戦争終結直前に国際旅団は、イギリス外務省の「外国兵力を双方とも同程度撤退させる」との提案に従い解散した。人民戦線にとって厳しい戦局の中でのこの決断は、国際旅団がもはや助けではなく重荷になっていたからだと考えられる。
メキシコ
メキシコはラサロ・カルデナス大統領が、共和派に対して資金援助を行なったり、メキシコ軍で用いられていた旧式の航空機を共和派に供与したりするなど後方支援に当たった。また、内戦終結後には多くの共和派将兵の亡命を受け入れている。ラサロ自身は社会主義者ではなく中南米に多いポプリズモ政治家であったが、共和派に理解を示していた。また、労働者を中心に共和派に賛同する層も存在し、一部は義勇兵となる者もいた。
もっとも、メキシコ全体が共和派に賛同していた訳ではなく、(伝統的保守層を中心に)フランコ派の支持者もまた多数存在していた。
戦後
内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えた。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑した。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。
カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者は知識階級中心だったので、彼らがメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きいものがあった。例えばメキシコ出版業界の元締めであるフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社は、亡命スペイン人達によって設立された。
第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続いた。フランコの腹心で後継者を予定されていたルイス・カレーロ・ブランコは、米ソの東西冷戦を見て、人民戦線の残党を弾圧しても、共産主義の招来を恐れる西欧諸国は非難こそすれ、実効的な圧力を受けることはないから気にせず弾圧すればいいと進言したという(後にブランコはETAによって暗殺された)。
共和国政府は「スペイン共和国亡命政府」として、メキシコ、次いでパリにて存続。1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1世が独裁政治を受け継がず、1977年6月15日のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保った。同年6月21日、亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレスが政府の解消を宣言。7月1日、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされた。
内戦の双方の戦没者はマドリード州にある国立慰霊施設「戦没者の谷」に埋葬されているが、フランコ時代に政治犯を動員して建設されたこと、モニュメントなどがいまでもフランコ時代の性格を残していることから、スペイン国内ではいまだ施設の性格の見直しを巡って議論の対象となっている。
影響
この内戦に参加することによって、ナチス・ドイツは貴重な実戦経験を得る事となった。このことはヴェルサイユ条約下においてさまざまな軍事的な制限を受けていたドイツにとっては得難い経験であり、第二次世界大戦初期の戦闘を優位に進めることにおいて大いに貢献した。
交戦国・支援国・団体
共和派
スペイン共和国
人民戦線
CNT(全国労働者連合)・FAI(イベリア・アナーキスト連盟)
UGT(労働総同盟)
ERC(カタルーニャ左翼共和党)・EC
EG(バスク軍) (1936年 - 37年)
PG(ガリシア党)
国際旅団
ソビエト連邦
メキシコ - 義勇兵を派遣するが、主として後方支援に回った。
ナショナリスト派
ファランヘ党
カルロス主義派 (1936年 - 37年)
CEDA(スペイン右翼自治派連盟) (1936年 - 37年)
アルフォンソ主義派 (1936年 - 37年)
イタリア王国
ドイツ国
ポルトガル
アイルランド旅団 - 国家統合党(緑シャツ隊)の私兵部隊( アイルランド[4])
年表
1936年
- 人民戦線協定の締結(1月)
- 人民戦線政府の成立(2月)
- スペイン領モロッコでフランコ将軍の蜂起(7月)
- ドイツ・イタリアがフランコの支援を開始(9月)
- ロンドンで不干渉委員会の開催(9月)
- フランコ、トレドを占領(9月)
- 元首をフランコとして新国家の樹立を宣言(10月)
- フランコによるマドリード攻撃開始(10月)
- 人民戦線、国際旅団の創設を承認(10月)
- 人民戦線、政府をバルセロナへ移転(11月)
1937年
- グアダラハーラの戦い(3月)
- ドイツ義勇軍(コンドル軍団)によるゲルニカ爆撃(4月)
- バルセロナで五月事件(5月)
- フランコ、ビルバオ占領(6月)
- 人民戦線、政府をバルセロナへ移転(10月末)
テルエルの戦い(12月から翌年2月)
1938年
- フランコ、ブルゴスで内閣樹立(1月末)
- フランコが地中海岸に到達、人民戦線側は南北に分断(4月)
パロス岬沖海戦(5月)
エブロ川の戦い(7月)- 国際旅団の解散(10月)
1939年
- フランコ、バルセロナ占領(1月)
- イギリス、フランスがフランコ政府を承認(2月)
- フランコ、日独伊防共協定に参加(3月)
- フランコ、マドリード占領(3月)
- フランコによる内戦終結宣言(4月)
- アメリカ合衆国がフランコ政府を承認(5月)
第二次世界大戦勃発(9月)
スペイン内戦を題材とした作品
関連カテゴリ - Spanish Civil War media
- 小説
- 『誰がために鐘は鳴る』(アーネスト・ヘミングウェイ)
- 『カタロニア讃歌』(ジョージ・オーウェル)
- 『希望』(アンドレ・マルロー)
- 『狼たちの月』(フリオ・リャマサーレス) - 内戦中、そして内戦後にもおよぶ、共和国軍敗残兵の若者と村人たちの姿を描く。
- 『サラミスの兵士たち』(ハビエル・セルカス) - 共和国側の集団銃殺から逃れたファランヘ党小説家のエピソードをきっかけに、戦った兵士たちの真実に迫る。
- 『さらばカタロニア戦線』(スティーヴン・ハンター) - イギリス情報部の依頼で国際旅団に潜入した元警官の青年の視点で、マルローやヘミングウェイが描かなかった共和国軍側の凄惨な内部抗争を描いている。
ドリュ・ラ・ロシェルの小説『ジル』や、ロベール・ブラジヤックの小説『七彩』の主人公は、最後にスペイン内戦にフランコの反乱軍側のファランヘ党の義勇兵として参加していく。
- 映画
- 『誰が為に鐘は鳴る』 - ヘミングウェイの小説に基づく1943年のアメリカ映画。ゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演。
- 『命あるかぎり』 - 1955年の西ドイツ映画。ゲルニカ爆撃を行ったとされるドイツ義勇軍「コンドル軍団」の若者たちの青春群像を描いた。
- 『日曜日には鼠を殺せ』 - 1964年のアメリカ映画。エメリック・プレスバーガーの同名小説を『酒とバラの日々』のJ・P・ミラーが脚色、『尼僧物語』のフレッド・ジンネマンが製作・演出。
- 『戦争は終った』 - 1965年のフランス映画。アラン・レネ監督。
- 『ミツバチのささやき』 - 1973年のスペイン映画。ビクトル・エリセ監督。
- 『鏡』 - 1975年のソ連映画。アンドレイ・タルコフスキー監督。
- 『歌姫カルメーラ』 - 1990年のスペイン映画。カルロス・サウラ監督。
- 『ベル・エポック』 - 1992年のスペイン映画。
- 『大地と自由』 - 1995年、イギリス・スペイン・ドイツ合作映画。フランコ派だけでなく左翼勢力間の争いを描くなど、共産党にも批判的で無政府主義者陣営には同情的な視線から描かれている。
- 『蝶の舌』 - 1999年のスペイン映画。マヌエル・リバスの同名小説の映画化。
- 『パンズ・ラビリンス』 - 2006年のメキシコ・スペイン・アメリカ合作映画。
- 『私が愛したヘミングウェイ』 - 2012年のHBO制作のアメリカ合衆国のテレビ映画。ヘミングウェイと彼の3番目の妻となった戦時特派員マーサ・ゲルホーンとの恋愛をスペイン内戦や第二次世界大戦を背景に描いた作品。
- 絵画
- 『ゲルニカ』(パブロ・ピカソ)
- 写真
ロバート・キャパは『崩れ落ちる兵士』など、前線でのショットを世界に報道、従軍写真家としての地歩を築く。
宝塚歌劇
- 『誰がために鐘は鳴る』 - 鳳蘭・遥くらら主演。
- 『NEVER SAY GOODBYE』 - 2006年宙組公演。和央ようか・花總まり主演。
脚注
^ バーネット・ボロテン『スペイン内戦 革命と反革命』上巻、p227
^ ボロテン、同書上巻、p239
^ 三野 正洋「スペイン戦争」
^ アイルランド自体は、反共的なカトリック団体などから参戦要請があったものの、デ・ヴァレラ首相はこれを断っており、スペイン内戦に何ら関与していない。なお、左派の国際旅団にもマイケル・オリオーダンなど左派のアイルランド人が参加している。アイルランド政府自体は非関与の姿勢を取り、アイルランド国民がスペイン内戦に関与する事を禁じていた。
参考文献
- 『ゲルニカ;ドキュメント ヒトラーに魅入られた町』 ゴードン・トーマス/マックス・モーガン=ウィッツ(著)、古藤晃(訳)、TBSブリタニカ、1981年
- 『カタロニア讃歌』 ジョージ・オーウェル(著)
- スペイン内戦においてイギリス左翼の人脈から、反スターリン主義マルクス主義政党マルクス主義統一労働者党(POUM)の民兵組織に参加したジョージ・オーウェルによるルポルタージュ。
- 『スペイン内戦 革命と反革命』上・下 バーネット・ボロテン(著)、渡利三郎(訳)
関連項目
- ファランヘ党
- パブロ・カザルス
- パブロ・ピカソ
- ロバート・キャパ
ジャック白井 - 記録されているただ一人の日本人義勇兵。北海道出身。アメリカで募兵に参加。青山の無名戦士の墓に銘がある。
モスクワの金 (en:Moscow gold)- 義勇兵
スペイン戦争 (曲) - ザ・クラッシュの楽曲- ダルフール紛争
- ヴェルデハ