桓武天皇
桓武天皇 | |
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桓武天皇像(延暦寺蔵) | |
第50代天皇 | |
在位期間 781年4月30日 - 806年4月9日 天応元年4月3日 - 延暦25年3月17日 | |
即位礼 | 781年5月10日(天応元年4月13日) |
大嘗祭 | 781年12月4日(天応元年11月15日) |
元号 | 天応 延暦 |
先代 | 光仁天皇 |
次代 | 平城天皇 |
誕生 | 737年(天平9年) |
崩御 | 806年4月9日(延暦25年3月17日) 平安宮正寝柏原大輔 |
陵所 | 柏原陵 |
諱 | 山部 |
別称 | 柏原帝 日本根子皇統弥照尊 天國押撥御宇柏原天皇 |
父親 | 光仁天皇 |
母親 | 高野新笠 |
皇后 | 藤原乙牟漏 |
夫人 | 藤原旅子 藤原吉子 多治比真宗 藤原小屎 |
子女 | 平城天皇 嵯峨天皇 淳和天皇 伊予親王 ほか(后妃・皇子女節参照) |
皇居 | 平城宮・長岡宮・平安宮 |
桓武天皇(かんむてんのう、737年(天平9年) - 806年4月9日(延暦25年3月17日))は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日(天応元年4月3日) - 806年4月9日(延暦25年3月17日))。
目次
1 略歴
2 治世
3 系譜
3.1 系図
4 后妃・皇子女
5 諱・諡号・追号・異名
6 在位中の元号
7 在位年と西暦との対照表
8 陵・霊廟
9 百済との関係
9.1 百済王氏等への厚遇
9.2 今上天皇の発言
10 桓武天皇を題材とした作品
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
略歴
白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一王子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。
父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる[1]。
天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもある夫人・藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。
延暦4年(785年)9月頃には、早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。
在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。
治世
平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。
また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、翌22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。
しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政論争)。
また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、結果として、日本列島は16世紀の織豊政権樹立まで、700年近い戦乱の時代に陥った。そのような状況において、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。
その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位、母親を通じて騎馬民族の戦闘技術を学んだことが、これらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。
系譜
桓武天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
古人大兄皇子 | 倭姫王 (天智天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(38)天智天皇 (中大兄皇子) | (41)持統天皇 (天武天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(43)元明天皇 (草壁皇子妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
間人皇女 (孝徳天皇后) | (39)弘文天皇 (大友皇子) | 葛野王 | 池辺王 | (淡海)三船 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志貴皇子 (春日宮天皇) | (49)光仁天皇 | (50)桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
早良親王 (崇道天皇) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(40)天武天皇 (大海人皇子) | 高市皇子 | 長屋王 | 桑田王 | 磯部王 | 石見王 | (高階)峰緒 〔高階氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 (岡宮天皇) | (44)元正天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大津皇子 | (42)文武天皇 | (45)聖武天皇 | (46)孝謙天皇 (48)称徳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍壁皇子 | 吉備内親王 | 井上内親王 (光仁天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長親王 | 智努王 (文室浄三) | 大原王 | (文室)綿麻呂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
御原王 | 小倉王 | (清原)夏野 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舎人親王 (崇道尽敬皇帝) | (47)淳仁天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞代王 | (清原)有雄 〔清原氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新田部親王 | 塩焼王 | (氷上)川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道祖王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(50)桓武天皇 | (51)平城天皇 | 高岳親王 | (在原)行平 | ||||||||||||||||||||||||||||
伊予親王 | 阿保親王 | (在原)業平 | |||||||||||||||||||||||||||||
万多親王 | (54)仁明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||
(52)嵯峨天皇 | 有智子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||
(源)信 〔嵯峨源氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||
(源)融 〔嵯峨源氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||
(源)潔姫 (藤原良房妻) | |||||||||||||||||||||||||||||||
(53)淳和天皇 | 恒貞親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||
葛原親王 | (平)高棟 | ||||||||||||||||||||||||||||||
高見王 | (平)高望〔桓武平氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||
(良岑)安世 | 遍昭 | 素性 | |||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
皇后:藤原乙牟漏(760年 - 790年) - 藤原良継女
- 安殿親王(平城天皇)(774年 - 824年)
- 神野親王(嵯峨天皇)(786年 - 842年)
高志内親王(789年 - 809年) - 大伴親王妃(淳和天皇贈皇后)
- 夫人(贈皇太后):藤原旅子(759年 - 788年) - 藤原百川女
- 大伴親王(淳和天皇)(786年 - 840年)
- 妃:酒人内親王(754年 - 829年) - 光仁天皇皇女
朝原内親王(779年 - 817年) - 伊勢斎宮、平城天皇妃
- 夫人:藤原吉子(? - 807年) - 藤原是公女
伊予親王(783年 - 807年)
- 夫人:多治比真宗(769年 - 813年) - 多治比長野女
葛原親王(786年 - 853年) - 桓武平氏祖
佐味親王(793年 - 825年)
賀陽親王(794年 - 871年) - 子孫の幸身王・時身王は平朝臣姓を賜った
大徳親王(798年 - 803年)
因幡内親王(? - 824年)
安濃内親王(? - 841年)
- 夫人:藤原小屎 - 藤原鷲取女
万多親王(788年 - 830年) - 子の正躬王・正行王は平朝臣姓を賜った
女御:紀乙魚(? - 840年) - 紀木津魚女?- 女御:百済王教法(? - 840年) - 百済王俊哲女
- 女御:橘御井子 - 橘入居の女
賀楽内親王(? - 874年)
菅原内親王(? - 825年)
- 女御:藤原仲子 - 藤原家依女
- 女御:橘常子(788年 - 817年) - 橘島田麻呂女
大宅内親王(? - 849年) - 平城天皇妃
- 女御:藤原正子- 藤原清成女
宮人:坂上又子(? - 790年) - 坂上苅田麻呂女
高津内親王(? - 841年) - 嵯峨天皇妃
- 宮人:坂上春子(? - 807年)- 坂上田村麻呂女
葛井親王(800年 - 850年)
春日内親王(? - 832年)
- 宮人:藤原河子(? - 838年) - 藤原大継女
仲野親王(792年 - 867年) - 子の茂世王・利世王・惟世王は平朝臣姓を賜った
安勅内親王(? - 855年)
大井内親王(? - 865年)
紀内親王(799年 - 886年)
善原内親王(? - 863年)
- 宮人:藤原東子(? - 816年) - 藤原種継女
甘南美内親王(800年 - 817年) - 平城天皇妃
- 宮人:藤原平子(? - 833年) - 藤原乙叡女
伊都内親王(801年 - 861年) - 阿保親王妃、在原業平母
- 宮人:紀若子(? - ?) - 紀船守女
明日香親王(? - 834年)
- 宮人:藤原上子 - 藤原小黒麻呂女
滋野内親王(809年 - 857年)
- 宮人:橘田村子 - 橘入居女
池上内親王(? - 868年)
- 宮人:河上好(? - ?) - 錦部春人女
坂本親王(793年 - 818年)
- 宮人:百済王教仁(? - ?) - 百済王武鏡女
太田親王(? - 808年)
- 宮人:百済王貞香(? - ?) - 百済王教徳女
駿河内親王(801年 - 820年)
- 宮人:中臣豊子(? - ?) - 中臣大魚女
布勢内親王(? - 812年) - 伊勢斎宮
- 女嬬:多治比豊継(? - ?)
長岡岡成(? - 848年) - 臣籍降下、長岡朝臣姓
- 女嬬:百済永継 - 飛鳥部奈止麻呂女、藤原内麻呂室、冬嗣母
良岑安世(785年 - 830年) - 臣籍降下、良岑朝臣姓
ほか
諱・諡号・追号・異名
諱は山部(やまべ)[2]。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)が、漢風諡号として桓武天皇が贈られた。また山陵の名をもって柏原(かしわばら)天皇(帝)、天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。
在位中の元号
- 宝亀
- 天応
- 延暦
在位年と西暦との対照表
桓武天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 | 21年 | 22年 |
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西暦 | 781年 | 782年 | 783年 | 784年 | 785年 | 786年 | 787年 | 788年 | 789年 | 790年 | 791年 | 792年 | 793年 | 794年 | 795年 | 796年 | 797年 | 798年 | 799年 | 800年 | 801年 | 802年 |
元号 | 天応元年 | 延暦元年 | 延暦2年 | 延暦3年 | 延暦4年 | 延暦5年 | 延暦6年 | 延暦7年 | 延暦8年 | 延暦9年 | 延暦10年 | 延暦11年 | 延暦12年 | 延暦13年 | 延暦14年 | 延暦15年 | 延暦16年 | 延暦17年 | 延暦18年 | 延暦19年 | 延暦20年 | 延暦21年 |
干支 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 |
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
上記とは別に、伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、桓武天皇が被葬候補者に想定されている[3]。
在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた[4]。『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて桃山町の現陵の場所に定められた。もっともその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため[5]、確かな場所は不明とするほかない。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において、他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。なお、後述するように平安京への遷都を行い、かつ同京最初の天皇となったことにちなんで、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。
百済との関係
百済王氏等への厚遇
桓武天皇の生母である高野新笠の出身は、百済系渡来人氏族で史姓の和氏であり、中央政権に顕官を出す氏族ではなく、また新笠の母方の土師氏も有力な氏族ではなかった。光仁天皇の皇后・井上内親王が廃され、山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、新笠は皇后にはなれず、従三位・夫人の位までであった。
桓武天皇は即位間もなく、天応元年(781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、祖母方の土師氏も、大枝(大江)朝臣・菅原朝臣などの姓を賜った。延暦8年12月28日(790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、延暦9年(790年)1月、新笠を葬る際、和氏は百済武寧王の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(朱蒙)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、これにちなんで新笠に「天高知日之姫尊」の諡号を贈った[6]。さらに、同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進めた[7]。百済王氏を外戚と称することで、母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、その結果母の身分を上昇させようとした、と考えられる。在位中、百済王氏が本拠としていた交野にたびたび狩猟のため行幸し、百済王氏を重用した。また、後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、百済王明信を尚侍としている[8]。
今上天皇の発言
平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、今上天皇は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』[6]に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った[9]。
この発言は、テレビ各社のニュースでは重ねて報じられたが、日本の新聞各紙の報道は簡素だった。[10]、韓国では大きな反響を呼び、「皇室は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われた[11][12]ほか、当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった[13]。なお、今上天皇は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している[14]。
桓武天皇を題材とした作品
- 三田誠広 『桓武天皇 平安の覇王』 作品社、2004年6月。ISBN 4-87893-649-5。
脚注
^ 天皇は後年、「緒嗣の父(百川)微(な)かりせば、予豈(あ)に帝位を践むを得んや」との詔を発している(『続日本後紀』承和10年7月庚戌(23日)条)。
^ 当時の皇子女の諱は乳母の氏名(うじな)が採用される慣例であったため、「山部」という諱も山部氏の女性が乳母であったためと思われ、その場合の乳母は山部子虫であったと推定される(佐伯、『新撰姓氏録の研究』)。
^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
^ 田中邦和によれば、桓武天皇は生前に埋葬を希望したのは宇多野ではなく深草山であり(『日本紀略』延暦11年8月4日条)、平城京にならって都の北側に陵墓を築こうとしたのは皇太子(後の平城天皇)の意向であったとする。ところが、宇多野は賀茂神社を祀る賀茂氏などの在地勢力の勢力圏に近いために彼らの反発を招き、それが宇多野への埋葬断念につながったとされている(山田邦和 「平安時代前期の陵墓選地」『仁明朝史の研究 承和転換期とその周辺』 古代學協會編、角田文衞監修、思文閣出版、2011年2月。ISBN 978-4-7842-1547-8。)。
^ 山田邦和 『歴史検証天皇陵』 新人物往来社〈別冊歴史読本 78〉、2001年7月、p. 134。ISBN 4-404-02778-8。
- ^ ab『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉謚焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)二月甲午【廿七】》○甲午…(中略)…是日。詔曰。百済王等者朕之外戚也。今所以擢一両人。加授爵位也。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
^ 「百済王氏存続の要因」(山下剛司,佛教大学総合研究所紀要 21号,35-54,2014年)
^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2008年11月7日閲覧。
^ 主要全国紙で本文において「ゆかり発言」を取り上げたのは『朝日新聞』のみであり、『毎日』『読売』『産経』の主要諸紙は「おことば」を全文掲載したものの、この「ゆかり発言」は掲載せずに愛子内親王の話題を取り上げるのに留まった。
^ 朴正薫 (2001年12月23日). “日王、朝鮮半島との血縁関係を初めて言及”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
^ 金基哲 (2001年12月24日). “「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
^ 2002年1月15日 毎日新聞
^ 金剛学園出演「歌垣」が結ぶ韓日中 平城遷都祭「花いちもんめ」一緒に (民団新聞) [1]
参考文献
- 井上満郎 『桓武天皇 当年の費えといえども後世の頼り』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2006年8月。ISBN 4-623-04693-1。
- 緒形隆司 『暁の平安京 桓武天皇史話』 光風社出版、1994年1月。ISBN 4-87519-611-3。
- 佐伯有清 『新撰姓氏録の研究 研究編』 吉川弘文館、1963年4月。ISBN 4-642-02110-8。
- 林睦朗 『桓武朝論』 雄山閣出版〈古代史選書 7〉、1994年4月。ISBN 4-639-01222-5。
- 村尾次郎 『桓武天皇』 吉川弘文館〈人物叢書 新装版 112〉、1987年7月、新装版。ISBN 4-642-05085-X。
- 森達也 『世界が完全に思考停止する前に』 角川書店〈角川文庫〉、2006年7月。ISBN 4-04-362503-0。
関連項目
- 勘解由使
- 御霊信仰
慈眼堂 (大津市) - 桓武天皇御骨塔在所- 令外官
最澄 - 桓武天皇の内供奉十禅師
陰陽師 (映画) - 桓武天皇の治世- 桓武海山
外部リンク
- 平安神宮
- 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏総括
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