隠居
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隠居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。
日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。
目次
1 日本の隠居
1.1 民法上の隠居
1.2 歴史上の隠居の実例
1.3 明治以降の隠居の実例
2 外国の隠居
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
日本の隠居
民法上の隠居
民法上の隠居は、1890年(明治23年)に公布された旧民法(民法財産取得編人事編(明治23年法律第98号)。施行されずに廃止された。)にも見られる。その後、1898年(明治31年)に公布・施行された民法第四編第五編(明治31年法律第9号)により制度化され、1947年(昭和22年)に改正されるまで続けられた。
改正前の民法では、家族の統率・監督を行うための権限である戸主権を戸主に与え、戸主たる地位を家督と言った。家督を家督相続人に承継させる制度が家督相続であって、隠居は家督相続の開始原因の一つである。隠居者自身(または法定代理人)による隠居の意思表示に基づき、隠居者と家督相続人が共同で届出を行うことにより、戸主の生前に家督相続が開始する。
改正前民法では普通隠居ができる条件として
- (年齢)満六十年以上なること(752条)
- 完全の能力を有する家督相続人が相続の単純承認を為すこと(752条)
を挙げていた。
また特別隠居ができる条件としては
- 戸主が疾病により家政を執ることができない場合(753条)
- 本家を家督相続するため、現在の家の戸主を務めることができなくなる場合(754条)
- 女戸主である(755条)
がある。その場合、あらかじめ推定家督相続人を定め、その承認と裁判所の許可を得たうえで隠居が可能となる[1]。
隠居すると戸主は戸主権を失い、新戸主の戸主権に服することとなる。
歴史上の隠居の実例
隠居したからと言って、それで悠々自適の生活を送るとは限らない。男性の天皇で譲位した最初の例は、奈良時代の聖武天皇であるが、政治の実権を手放した訳ではなく、当時の国家プロジェクトである東大寺建立を主導している。むしろ、東大寺建立に専念する目的があったとする説もある。
平安時代の白河天皇は、皇子の堀河天皇に皇位を譲って上皇となったが、1129年に崩御するまでは政治の実権を掌握していた。これがいわゆる院政の最初であるが、天皇が上皇、または法皇となることも、一種の隠居と言える。ただしこれはあくまで律令上の公職からの隠退であり、治天の君として皇室の家督の地位はなお保持し、政治の実権を握っていた。むしろ律令の束縛から脱した治天の君は、従来の天皇をしのぐ強い権力を持った専制君主であった。在世中に治天の君の地位をも退いた例は後鳥羽上皇や後宇多上皇などごく僅かにとどまる。
鎌倉幕府では、摂家将軍の藤原頼経が、将軍職からの離職を迫られて嗣子の頼嗣に将軍職を譲った。これは鎌倉将軍の権力を掣肘する目的があったものの、なお大殿と称され、将軍の後見人として振舞った。また北条時頼以降は、執権から得宗へと実権が移った。これは本当の意味での隠居とは異なるが、執権の地位を退いた者が、得宗としてなお実権を握る例が多かった。
室町幕府では、第3代将軍・足利義満が1394年、まだ9歳の嫡男・足利義持に将軍職を譲って出家し、居所も北山御所に移している。しかし義満も1408年に51歳で死去するまでは、政治の実権を握り続けた。このように、将軍職を退いて大御所となることも、一種の隠居と言える。この後も義持が義量に、義政が義尚に将軍職を譲りながらも実権を保持したが、これらは将軍後継を確定させる意図によるものである。足利義材(義稙)は家臣の細川政元により将軍職を追われて実権のない隠居となり、以降政治の実権のない守護大名およびその家臣の傀儡という立場に等しい将軍が続き、最終的には1573年、織田信長によって室町幕府は滅ぼされた。
その信長であるが、順調に天下布武を進めていた1576年、嫡男の織田信忠に家督を譲って隠居し、居城も岐阜城から安土城に移している。しかし新築の安土城は、隠居城というより政務の中心地であった。つまり信忠は、尾張・美濃の国主としての家督を譲られたのであり、信長は天下人として単なる2ヶ国の国主の信忠より上位にあった。この隠居は、信長が存命中から後継者の立場を明確にする目的との説がある。なお、信長は隠居後、「上様」という呼称を用いている。また信忠は1582年の甲州征伐を主導し、その手柄を賞賛した信長は「天下の儀も御与奪」、つまり天下人としての地位をも信忠に譲り渡す意志を表明している。直後に本能寺の変が起きたため、天下人としての信長の隠居は実現せずに終わっている。
そのほかの戦国大名では、後北条氏の歴代当主のほとんどが存命中から隠居して、家督を次代に譲って、次代の体制作りに務めている。
江戸幕府を開いた徳川家康も1605年、つまり将軍職に就任してからわずか2年で、三男の徳川秀忠に将軍職を譲って居城を駿府城に移している。ただし、これは将軍職が以後は徳川氏によって世襲されるものであるということを諸大名や朝廷に知らしめるために行われただけであり、家康も信長と同じく、死ぬまで政治の実権は握り続けていた。現に、家康は存命中に将軍職は譲ったが、「源氏長者」の立場は決して秀忠に譲らなかった。また江戸城の幕府の機構が三河の一大名としての徳川家の機構を拡大したものであり、三河以来の譜代大名で固めていたのに対し、駿府城の家康の周囲は本多正純に加え、僧侶の金地院崇伝、外国人の三浦按針、商人の茶屋四郎次郎などの、非武士層・譜代大名以外を含む、天下を治めるためのシンクタンクで固めていた。
その後、秀忠や徳川吉宗、徳川家斉なども、将軍職を息子に譲って隠退し、大御所として政治の実権を握り続けている。しかしながら、江戸城とは別に隠居城をもうけ、幕府とは別に多くの人材を周囲に集めるような例は、家康のみであった。
江戸時代の藩主なども隠居した例は多い。しかし藩主においては、隠居して後も実権を握っていた例は少なく、また隠居したのも病気を理由にという例が少なくない。また、藩主の不行跡などで家臣団からの反発を受けて、強制的に後継者に家督を譲って隠居する(強制隠居、主君押込)例もある。
江戸時代後期以降には、隠居した元藩主が実権を保持または回復し、実質的な藩主として振舞った例が多くなり、場合によっては藩主廃立を行った例も存在する。代表的な人物として米沢藩の上杉治憲(鷹山)や土佐藩の山内豊信(容堂)、盛岡藩の南部利済がいる。
また、諸藩家臣においては隠居後に家老まで昇進したものもおり、飫肥藩の平部嶠南や米沢藩の莅戸善政がこれにあたる。
明治以降の隠居の実例
明治時代以降では、一世一元の制などから、天皇が崩御するまではその元号が用いられ、天皇の交代は崩御のみによるものとされ天皇が隠退して上皇になることなどもないが、大正天皇が病臥のもと、当時の皇太子が摂政宮として実質的に天皇としての職務を行っていた例がある。また、高橋是清が第二次護憲運動に際して衆議院議員選挙に出馬したとき、華族である子爵家の当主のまま衆議院議員に立候補できないため隠居して息子に子爵家の家督を譲る形をとった。
寺の住職も隠居する場合があり、宗派によって多少異なるが、その場合は後任の住職をつける場合と、住職のまま隠居して副住職をつけ、副住職に寺務を代行させる場合がある。
日蓮正宗総本山・大石寺の法主は隠居する場合、原則として後継者を定めて猊座を譲り、隠居することになっている。隠居しても、当代の法主が出張で不在の場合や体調不良等で代理で法要の導師を務めたり、本尊を書写したりする場合もある。
相撲部屋においても、師匠が定年前に後継者に部屋を譲る例は多く、この場合年寄名跡を交換して後継者が名乗っていた名跡を名乗って定年まで務める例(出羽海部屋は佐田の山から鷲羽山への継承の時に、出羽海と境川の名跡を交換した)と名跡交換を行わず部屋の名前を変更する例(三重ノ海は武蔵川部屋を武双山に譲ったとき、名跡はそのまま維持したので、部屋の名称が藤島部屋に変わった。後に三重ノ海の弟子である武蔵丸が武蔵川部屋を再興)がある。師匠の急死で後継者を巡ってお家騒動になった例は多く、それを回避するのと後継者に経験を積ませる上で定年前に部屋を譲る方式は有効である。
伝統芸能の世界では、芸名を名乗ることが基本であるため、隠居に伴い弟子や子供などに自身の名前を授け、自らは隠居名を新たに名乗るという形がとり行われる。この場合、自身の隠居名への改名より、名を受け継ぐ弟子や子供の襲名の場として興行が執り行われることが多い。また、隠居名は前名を基本に「~翁」と名乗るケースが多い(例:市川猿之助→市川猿翁、笑福亭松鶴→笑福亭松翁など)。
外国の隠居
外国の王国・帝国に目を向けてみると、隠居の例は少ない。中国歴代の皇帝などでは、南宋の孝宗や清の乾隆帝などが、皇位を後継者に譲って隠退し、上皇となっているが、ほとんどの歴代皇帝は崩御するまで皇帝の位にあった。ヨーロッパではさらに例が少ないが、例えば神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世(カルロス1世)は政務への疲労と病気のため退位し、残りの人生を修道院で送っている。
このほかの欧米の国王や皇帝、アジア地域(ベトナムを例外とする)の君主の多くも、自身が死去するか強制的に廃位されるまで王位・皇位についており、存命中に隠退した例は少ない。ただし、オランダやルクセンブルクでは19世紀の建国以来、君主の退位が半ば常態化している。また21世紀に入ると、ヨーロッパだけでなくカンボジアやブータンでも王位の生前譲位が行われている。
国王や皇帝が時の権力者によって廃されたり、その君主の身体的理由で政務を執れないということから、政治の実権を別の人物に譲っているという例は、歴史上も珍しくない。
脚注
^ 『実業家要覧』 (東洋実業社, 1912) p2
関連項目
- 院政
- 太閤
- 大御所
- 致仕
- 主君押込
外部リンク
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号) - 中野文庫のサイト