富士門流




富士門流(ふじもんりゅう)は、宗祖日蓮の高弟六老僧の一人、日興の法脈を継承する門流のこと[1]日興門流とも呼ばれる[1][2]




目次






  • 1 教義


  • 2 弟子と寺院


  • 3 歴史


    • 3.1 鎌倉時代・建武の新政


    • 3.2 室町・安土桃山時代


    • 3.3 江戸時代


    • 3.4 明治


    • 3.5 太平洋戦争前


    • 3.6 太平洋戦争後


      • 3.6.1 寺院一覧






  • 4 脚注


    • 4.1 注釈


    • 4.2 出典




  • 5 参考文献





教義


所依の経典・法華経に対する解釈では(本迹)勝劣派の立場に属する[3][4][5][注釈 1]。本仏論では興門八本山のうち、西山本門寺・北山本門寺(重須本門寺)・小泉久遠寺・柳瀬実成寺・京都要法寺の五寺は釈尊本仏論を主張している[要出典]。富士大石寺・下条妙蓮寺・保田妙本寺[要出典]の三寺は日蓮本仏論を主張している[6][7][8]



弟子と寺院


師弟・寺院関係は次のとおりであり[9]、単一の宗派として組織されていない。


日興
├日目
│├日道---富士大石寺-----日蓮正宗
│└日郷
│ │├---小泉久遠寺-----日蓮宗
│ │└---保田妙本寺-----単立
│ └日叡-日向定善寺-----日蓮正宗
├─日尊---京都要法寺-----日蓮本宗、日蓮宗
├日華
│├日相---下条妙蓮寺-----日蓮正宗
│└日仙---讃岐本門寺-----日蓮正宗
├日代-----西山本門寺-----法華宗興門流
├日妙-----北山本門寺-----日蓮宗
├日澄-----北山本門寺談所-日蓮宗
└──日満-阿仏妙宣寺-----日蓮宗

門流展開の拠点としては、富士大石寺(日蓮正宗)・下条妙蓮寺(日蓮正宗)・北山本門寺(日蓮宗)・小泉久遠寺(日蓮宗)・西山本門寺(単立、法華宗興門派)があり、これを富士五山といい、これに伊豆実成寺(日蓮宗)・保田妙本寺(単立)・京都要法寺(日蓮本宗)を加えて興門派八ヵ本山という[10]



歴史



 



鎌倉時代・建武の新政


身延離山後の1289年(正応2年)、門祖は地頭南条時光の招きにより持仏堂(後の下之坊)に移った[11]。翌1290年(正応3年)、門祖は南条時光の大石ヶ原寄進によって大石寺を建てた[2][11]。古くから富士方・富士門跡と称した[2]


1298年(永仁6年)、足かけ10年過ごした大石寺を日目にまかせ、日興は地頭石川孫三郎能忠[注釈 2]の招きにより重須へ移住する[12]。ここに北山本門寺を開山し、談所を設け、35年間に渡って教線を張り、子弟を育成する[13][14]。門祖は、本六人(日華・日目・日秀・日禅・日仙・日乗、『弟子分本尊目録』記載順)・新六人(日代・日澄・日道・日妙・日毫・日助、『家中抄』記載順)と称せられる弟子を育成した[15]。その外に日尊がいる[16]。日目は富士大石寺を継承、日華は下条妙蓮寺を創立、日尊は上行院(後の京都要法寺)を開山、日目の弟子日郷は大石寺東御堂の蓮蔵坊の名跡を移し分立(今日の小泉久遠寺)・房州保田妙本寺を開基、日郷に折伏されたとする薩摩法印(日叡)は日向定善寺を中心に弘教に専念する。


日蓮正宗では、1332年(元弘2年、正慶元年)11月10日に日興が『日興跡条々事』を記し、これを基に門祖から日目へ唯授一人の血脈相承があった、としている[17][18]。その一方で、日蓮宗はこれを認めていない[19]


1333年(元弘3年、正慶2年)、門祖は重須で遷化(逝去)した。翌1334年(建武元年)、大石寺上蓮坊において、本六人・日仙と新六人・日代が方便品読不読論を論争した結果、日代と日満は重須を去る。この後、日代は西山本門寺を興し、日満は佐渡一谷の妙照寺を開基している[20]



室町・安土桃山時代


関東では、富士大石寺が、北山本門寺と「伝統の正潤」[21]を、保田妙本寺と「戒壇の坊地問題」[21]を、それぞれ争う。また、北山本門寺は、西山本門寺と「本門寺伝統論」[22]を争ったが、西山本門寺は富士大石寺と組んで、これに対抗した。一方、関西では上行寺・住本寺も対峙していた。そこで、日辰は上行寺・住本寺を合併。さらには関東寺院の調停を行い一定の成果を上げるも、日辰の主張する「釈迦像造立・法華経一部読誦論[注釈 3]」を日蓮の正意ではないとして、富士大石寺第13世法主日院が拒否。富士大石寺に関わる調停は失敗に終わる[23]。実際、現代の日蓮正宗では、仏像造立は『富士一跡門徒存知事』によって、法華経一部読誦は『富士一跡門徒存知事』及び『五人所破抄』によって、いずれも日蓮の正意でない、としている[24]


関東系が日隆門流の教学(八品教学)に影響されたのに対し、関西系はそれを排斥した[25]。富士大石寺第9世日有は、堂宇の再建・創建や学僧の養成、佐渡を始めとする越後・京都への布教や幕府への諫暁・天奏を行うなど弘教に努めたとして、中興の祖と仰がれるに至っている[26]。また、日有が日蓮本仏論も「明〔らか〕に立てられて」教義を導きだした、と堀慈琳はその著書『日蓮正宗綱要』で主張している[27]。その一方、現代の日蓮正宗では、日蓮本仏論は(この時期の成立ではなく)宗祖が明かした、としている[28]。この日有の教学に関して、執行海秀は「石山[注釈 4]の伝統教学とは、趣きを異にしているのであって、隆門[注釈 5]教学の影響が見られる」と述べている[29]。具体的には、「富士系中に台頭しつつあった宗祖本仏論思想を、隆門の種脱論に依って基礎付けんとした」としている[30]。また、保田妙本寺第11世三河日要は日蓮本仏論を説いた[31]。一方、日要が当時風靡していた日隆門流の教学に影響を受けたのとは対照的に、同寺第14世日我は、同教学を批判したが、日蓮本仏論を強調した点は軌を一にする[32]としている。この日我と前述の日辰は、富士門流の教学を確立せんとしたため、後世、「東我西辰」と称されるに至っている[33]



江戸時代


日辰の輩出した子弟により、彼らの属する日尊門流は、江戸時代前期における富士門流教学の主流を占めた[34]


しかしながら、その後、富士大石寺に日寛(第26世法主)が現れる。日寛は、日精及び日永の教導により行学を深め細草檀林の能化となり、その後日宥から日蓮正宗がいうところの「血脈の付嘱」を受け法主となった[35]。また、一致派・日隆門流・日尊門流(京都要法寺)の教学に対抗して、富士大石寺教学の確立を図る。これが功を奏し、富士門流教学の主流は京都要法寺から富士大石寺に移った[36]。すなわち、『六巻抄』によって富士大石寺の教学が組織大成された、と執行海秀は評価している[37]。また、日蓮正宗では、同書が「本宗の大綱を括って、他門不共独歩の正義を組成された」と位置付けている[38]。日寛は、五重塔の建立発願や常唱堂の建立などにより、第9世日有同様、中興の祖と仰がれるに至る[39]



明治


1870年(明治3年)時点での富士門流の本山塔中・末寺の数は、以下のとおり[40]。ただし、京都要法寺のみ1786年(天明6年)[注釈 6]の数値。




























































寺坊数
本山塔中 末寺 その他
富士大石寺
16 39 9(末寺塔中・孫末)
下条妙蓮寺
7 6
北山本門寺
6 27 11(讃岐本門寺関係)
小泉久遠寺
3 3
西山本門寺
6 16
伊豆実成寺
2 4
保田妙本寺
2 8 27(日向方面)
京都要法寺
83

明治政府が一宗一管長制を打ち出したのを受け、1872年(明治5年)富士門流は他の日蓮を宗祖とする門流と合同し、日蓮宗を形成した[41]。しかし、行政的にも無理があり、2年後の1874年(明治7年)には各派別に管長を置くことが許される[42]。日蓮宗は、日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれ、富士門流は勝劣派に属した(勝劣五派[注釈 7])。さらに2年後の1876年(明治9年)、富士門流は興門派八ヵ本山とその末寺からなる日蓮宗興門派を組織し[43]、勝劣派から分離。1899年(明治32年)には本門宗と改称した[44][45]


そのような中、1900年(明治33年)大石寺が内務省への分離独立請願を結実させ、「日蓮宗富士派」として本門宗から独立[46][47][43][48][49][50]。1912年(明治45年)6月に日蓮正宗と改称[51][47][52][53]して現在に至る[注釈 8][54][55]



太平洋戦争前


1940年(昭和15年)に施行された宗教団体法[注釈 9]を根拠として、政府は1941年(昭和16年)3月末日までに各宗派の自主的合同を終えるよう通達した[56]。これを受け、1941年(昭和16年)、日蓮正宗を除く富士門流寺院が属する本門宗は、顕本法華宗・日蓮宗と、それぞれの組織を解体して対等合併(三派合同)し、日蓮宗と公称した[57][58][59]


日蓮正宗は、「600年来の伝統と信条を生かす」為、宗派合同不承知を文部省宗務局へ訴え[60]、独立を保った[61]。このことは、昭和16年4月1日付けの朝日新聞「仏教の宗派は半減」「日蓮正宗(略)だけがそのまま一派として残った」からも読み取れる[62]


これによって全日蓮門下は4派となった[61]



太平洋戦争後


太平洋戦争後の八本山とその末寺の動きは次のとおり[63]



  • 富士大石寺は、戦前より継続して日蓮正宗に総本山として帰属。

  • 下条妙蓮寺とその旧末6か寺は、1950年12月(昭和25年)日蓮正宗に合流。残る旧末1か寺も1960年(昭和35年)に日蓮正宗に合流。旧末1か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。

  • 北山本門寺は、興統法縁会の縁頭寺として戦前より継続して日蓮宗に帰属し、同会を再編・存続。旧末36か寺も戦前より継続して日蓮宗に帰属。

  • 小泉久遠寺とその旧末4か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。

  • 西山本門寺は、1957年(昭和32年)3月本山単独で日蓮正宗へ合流(後に無効)。1975年(昭和50年)単立の宗教法人となる。旧末寺全12か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。

  • 伊豆実成寺とその旧末4か寺は、戦前より継続して日蓮宗に帰属。

  • 保田妙本寺とその旧末4か寺は、1957年(昭和32年)4月日蓮正宗に合流。1993年(平成5年)保田妙本寺と末寺2か寺は単立の宗教法人となる[注釈 10]。旧末寺9か寺は戦前より継続して日蓮宗に帰属。

  • 京都要法寺とその末寺約50か寺は、1950年(昭和25年)日蓮本宗を設立して日蓮宗から独立[64][注釈 11]。旧末寺34か寺は戦前より継続して日蓮宗に帰属。



寺院一覧


宗派別の寺院一覧は次のとおり。




  • 日蓮正宗(富士大石寺・下条妙蓮寺)


  • 興統法縁会(日蓮宗内の富士門流寺院)(北山本門寺・小泉久遠寺・伊豆実成寺)


  • 法華宗興門流(西山本門寺)


  • 日蓮本宗(京都要法寺)



 



脚注


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注釈





  1. ^ 但し、これは、現在の富士門流全寺院が種脱勝劣を採用している、ということではない。例えば、(榎木境道 2007, p. 518)には、北山本門寺第47世貫主に立正大学教授片山日幹が就任して以降同寺の化儀・化法は富士門流のものとは異なる(要旨)、とあり、各寺院が現在どのような教判を主張しているかは、(宮崎英修 1978, p. 204)や(日蓮正宗宗務院 1999, p. 252)にある日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)を除き、不透明である。


  2. ^ (日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651)には、石河能忠、とある。


  3. ^ ここでの「一部」とは、「一部分」ではなく、ひとまとまり(一冊)の意


  4. ^ (ここでは)富士大石寺のこと。


  5. ^ (ここでは)日隆門流のこと。


  6. ^ 出典には、「天明六(一七八五)年」とあり、和暦に従った。


  7. ^ 興門派・妙満寺派・八品派・本成寺派・本隆寺派


  8. ^ (金岡秀友 1979, p. 205)(斎藤昭俊 1988, p. 441)には、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したのは1899年(明治32年)、日蓮正宗と改称したのは大正元年、とそれぞれある。


  9. ^ 1939年(昭和14年)4月8日法律第77号


  10. ^ 保田妙本寺には、保田妙本寺の独立は1995年(平成7年)、とある。


  11. ^ (影山堯雄 1979, p. 附録18)には、要法寺が日蓮本宗と称したのは1948(昭和23年)、(金岡秀友 1979, p. 203)には、要法寺が日蓮宗より独立して日蓮本宗と称したのは1952年(昭和27年)、とそれぞれある。




出典




  1. ^ ab宮崎英修 1978, p. 220.

  2. ^ abc日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651a.


  3. ^ 有賀要延 1975, p. 184.


  4. ^ 宮崎英修 1978, p. 204a-但し、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が勝劣派であることのみ。


  5. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 252-但し、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が勝劣派であることのみ。


  6. ^ 宮崎英修 1978, p. 204b-但し、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が日蓮本仏論を主張していることのみ。


  7. ^ 金岡秀友 1979, p. 205a-但し、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が日蓮本仏論を主張していることのみ。


  8. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, pp. 97-98-但し、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が日蓮本仏論を主張していることのみ。


  9. ^ 宮崎英修 1978巻末表


  10. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 691-但し、富士五山に含まれない3か寺の宗派は除く。

  11. ^ ab宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 183.


  12. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 185a.


  13. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, pp. 463,651-但し、北山本門寺に談所を開いたこと(P.463)、1298年(永仁6年)に地頭石河能忠の外護の下重須に本門寺を創建しここに談所を開き子弟を育成したこと(p.651)のみ。


  14. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 185b-但し、重須に談所を設け35年にわたって住み子弟を育成したことのみ。


  15. ^ 榎木境道 2007, pp. 52,54-56-但し、P.52は本六人に、PP.54-56は新六人に、それぞれ関することのみ。


  16. ^ 榎木境道 2007, p. 56.


  17. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 187,189-但し、同書が記された日付を除く。


  18. ^ 日興他 1983, p. 134-但し、同書が記された月日のみ(年は除く)。外部リンクでは、コマ番号84。


  19. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 2006, pp. 48-59.


  20. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651b-本六人以降の記述。但し、出典のある記述は除く。

  21. ^ ab執行海秀 1952, p. 136.


  22. ^ 執行海秀 1952, p. 137a.


  23. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 198-199-但し、上行寺・住本寺合併よりここまでのことのみ。


  24. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 219,236,253-但し、P.219,P.236は仏像造立に、P.253は法華経一部読誦に、それぞれ関することのみ。


  25. ^ 執行海秀 1952, pp. 136-137-但し、出典のある記述を除いた、本節の始まりよりここまでのことのみ。


  26. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 195-197-但し、佐渡への布教・天奏に関することを除く。


  27. ^ 堀慈琳 1922, pp. 61-63-但し、一つ前の文も含め、布教・天奏・日蓮本仏論・中興の祖に関することのみ。外部リンクでは、コマ番号35-36


  28. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 121-123.


  29. ^ 執行海秀 1952, p. 137b-但し、旧字体や歴史的仮名遣いは改めた。


  30. ^ 執行海秀 1952, p. 138-但し、旧字体や歴史的仮名遣いは改めた。


  31. ^ 執行海秀 1952, pp. 139-140.


  32. ^ 執行海秀 1952, pp. 141-142,148.


  33. ^ 執行海秀 1952, p. 146.


  34. ^ 執行海秀 1952, p. 147.


  35. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 205-206.


  36. ^ 金岡秀友 1979, p. 205c-但し、日寛教学確立のきっかけと結果に関することのみ。


  37. ^ 執行海秀 1952, p. 276.


  38. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 287.


  39. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 206.


  40. ^ 榎木境道 2007, pp. 405,440-京都要法寺はp.405、それ以外はp.440


  41. ^ 榎木境道 2007, pp. 450-451.


  42. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 818.

  43. ^ ab宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 230.


  44. ^ 榎木境道 2007, pp. 452-453-明治7年一致・勝劣に別れたこと以降の記述。なお、本書p.453には、本門宗への改称が許された1889年(明治32年)時点での興門派は「大石寺を除く」ともある。


  45. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 458-但し、富士門流が1876年(明治9年)に独立して日蓮宗興門派と称したこと、1899年(明治32年)に本門宗と改称したことのみ。


  46. ^ 榎木境道 2007, pp. 495-496.

  47. ^ ab宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 224.


  48. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 117-但し、1900年(明治33年)に、日蓮宗富士派が独立発表式を挙行したことのみ。


  49. ^ 金岡秀友 1979, p. 205b-但し、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。


  50. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 441-但し、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。


  51. ^ 榎木境道 2007, p. 510.


  52. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 231.


  53. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 191.


  54. ^ 木村勝行 1995, pp. 61-62-但し、1872年(明治5年)に不受不施派を除く日蓮系教団一致・勝劣両派が合同したこと、1874年(明治7年)に日蓮宗一致派・日蓮宗勝劣派の二派になったこと、1876年(明治9年)に勝劣派が八品派・興門派・妙満寺派・本成寺派・本隆寺派の5派になったこと、1899年(明治32年)に興門派が本門宗に改称したこと、1900年(明治33年)に大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年(明治45年)に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。


  55. ^ 本間裕史 1995, p. 63-但し、1899年(明治32年)に興門派が本門宗に改称したこと、1900年(明治33年)に大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年(明治45年)に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。


  56. ^ 近江幸正 1995, pp. 60-61.


  57. ^ 金岡秀友 1979, p. 203.


  58. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 427.


  59. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, pp. 388,737.


  60. ^ 榎木境道 2007, pp. 515-516.

  61. ^ ab宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 233.


  62. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 234-但し、康熙字典体・踊り字は改めた。


  63. ^ 本間裕史 1995, pp. 63-64-但し、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したこと下条妙蓮寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、1957年(昭和32年)に西山本門寺が単立になったこと保田妙本寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、論文執筆時点で北山本門寺と小泉久遠寺が日蓮宗に包括されていること富士大石寺と下条妙蓮寺が日蓮正宗に包括されていること西山本門寺が単立であること、同時点で日蓮宗に所属する旧本門宗末寺数が北山本門寺末36か寺小泉久遠寺末4か寺柳瀬実成寺末4か寺下条妙蓮寺末1か寺保田妙本寺末9か寺京都要法寺末34か寺西山本門寺末12か寺であることのみ


  64. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 449-但し、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したことのみ。




参考文献



  • 有賀要延 『日蓮各派の教学:天台法華学からの超絶と流水』 山喜房佛書林、1975年5月23日。NCID BN02853291。OCLC 27115294。ASIN B000J9B86M。

  • 榎木境道 『富士門流の歴史 重須篇』 妙教編集室、2007年7月22日。NCID BB02958240。OCLC 838850738。

  • 影山堯雄 『日蓮教団史概説』 平楽寺書店、1979年8月1日、第7刷。ISBN 4831301612。NCID BN05748646。OCLC 30394726。ASIN B000JASMB0。

  • 『仏教宗派辞典』 金岡秀友、東京堂出版、1979年4月20日、10版。ISBN 978-4490100792。NCID BN01732338。OCLC 44805605。

  • 木村勝行「日蓮門下合同問題について 法華宗の場合」 (pdf) 、『現代宗教研究』第29号、日蓮宗現代宗教研究所、〒146-8544東京都大田区池上1丁目32番15号、1995年3月1日、 61-63頁、 ISSN 02896974、 OCLC 175063770、2014年11月27日閲覧。

  • 近江幸正「三派合同」 (pdf) 、『現代宗教研究』第29号、日蓮宗現代宗教研究所、〒146-8544東京都大田区池上1丁目32番15号、1995年3月1日、 59-61頁、 ISSN 02896974、 OCLC 175063770、2014年11月17日閲覧。

  • 『日本仏教宗派辞典』 斎藤昭俊・成瀬良徳、新人物往来社、1988年5月20日、初版。ISBN 978-4404015051。NCID BN02176681。

  • 執行海秀 『日蓮宗教学史』 平楽寺書店、1952年。ISBN 4831301590。OCLC 835620183。ASIN B000JB9ZAG。


  • 『日蓮正宗入門』 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会、阿部日顕(監修)、大石寺、2002年10月12日、第2版。ISBN 978-4904429778。NCID BA56841964。OCLC 675627893。2014年12月5日閲覧。(ISBNは、改訂版のもの。)

  • 『近代日蓮宗年表』 日蓮宗現代宗教研究所、日蓮宗宗務院、1981年10月13日、初版。NCID BN04421436。OCLC 23313653。ASIN B000J7S448。

  • 『創価学会批判』 日蓮宗現代宗教研究所、日蓮宗宗務院、2006年10月13日(原著1955年7月28日)、復刻版。NCID BA78909030。OCLC 676415868。

  • 『日蓮宗事典』 日蓮宗事典刊行委員会、日蓮宗宗務院、1981年10月13日。NCID BA61075492。OCLC 17071163。ASIN B000J7QTDQ。

  • 日蓮正宗宗務院 『日蓮正宗要義』 日蓮正宗宗務院、1999年12月19日、改訂。ISBN 978-4904429501。NCID BA39623413。OCLC 675616041。


  • 日興他 『興尊全集 ; 興門集』 立正大学日蓮教学研究所、浅地康平(発行者)、山喜房仏書林〈日蓮宗宗学全書 第2巻〉、1983年12月8日(原著1921年)、第2版。NCID BN13828831。OCLC 834960056。ASIN B000J6LQH6。2015年9月16日閲覧。(OCLCは1959年に日蓮宗宗学全書刊行会より刊行されたもの。ASINは全書のもの。外部リンクは1921年(大正10年)に日蓮宗宗学全書刊行会より発刊されたもの。)

  • 堀慈琳 『日蓮正宗綱要』 雪山書房〈日蓮正宗教學叢書, 第1編〉、1922年9月10日、初版。ISBN 9784901305143。NCID BB03441841。OCLC 675603847。2015年8月16日閲覧。

  • 本間裕史「富士日興門流の動向と日蓮宗」 (pdf) 、『現代宗教研究』第29号、日蓮宗現代宗教研究所、〒146-8544東京都大田区池上1丁目32番15号、1995年3月1日、 63-64頁、 ISSN 02896974、 OCLC 175063770、2014年11月27日閲覧。

  • 『日蓮辞典』 宮崎英修、東京堂出版、1978年7月10日。ISBN 978-4490101096。NCID BN00793610。OCLC 5182140。




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