宮内義彦
みやうち よしひこ 宮内 義彦 | |
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2009年1月31日、スイス グラウビュンデン州ダボスでの世界経済フォーラム年次総会にて(73歳) | |
生誕 | (1935-09-13) 1935年9月13日(83歳) 兵庫県神戸市 |
出身校 | 関西学院大学商学部 ワシントン大学大学院 |
職業 | オリックス シニア・チェアマン(元取締役、前代表執行役会長兼グループCEO、元社長) |
前任者 | 乾恒雄 |
後任者 | 井上亮 |
宮内 義彦(みやうち よしひこ、1935年(昭和10年)9月13日 - )は、日本の実業家。兵庫県神戸市出身。
オリックス社長、会長、グループCEOを歴任した[1]。日本プロ野球・パ・リーグに加盟するオリックス・バファローズのオーナー。
目次
1 経歴
2 役職
2.1 会社役員
2.2 各種団体役員
2.3 その他
3 政治活動
3.1 政府の規制改革会議議長などを歴任
3.2 かんぽの宿・払い下げ問題
3.3 派遣切りとの関連
3.4 NHKとの関連
4 社会活動
4.1 国際な政治・経済活動
4.2 球団オーナーとして
4.2.1 プロ野球再編
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク
経歴
父の義作は神戸の米国人商館に出入りする木材輸入商社に勤務する貿易商だった[2]。
神戸市立成徳国民学校(現神戸市立成徳小学校)を経て、山口県玖珂郡大畠町に疎開。鳴門国民学校(現柳井市立鳴門小学校)、佐用町立佐用小学校、関西学院中学部・高等部を経て、1958年関西学院大学商学部卒業[3]。在学中はグリークラブに所属する[3]。1960年、ワシントン大学大学院経営学部修士課程修了(MBA)[3]。
1960年8月、日綿實業(日商岩井と共に現在の双日を構成する)入社[1]。調査部配属。海外統括部、オリエント・リース設立準備事務所を経て、1964年4月、オリエント・リース(現オリックス)入社[1]。
日綿實業は、当時アメリカでニュー・ビジネスとして急成長しつつあったリース業への進出を図っていた。そこで、リース業を学ぶために社員の派遣を決定。ただ1人選ばれたのが20代の宮内だった。帰国して、新会社オリエント・リースの創設メンバーとして出向。13名中の最年少だったが、唯一、リース業の本質を知る人間として社長の誤りさえ遠慮なく指摘し、実務を担った。さらに3年後の1967年、リース業の本質を理解しない本社頼りの営業からの訣別も主導。顧客の独自開発を担う開発課初代課長に就任。本社からの“独立戦争”を主導した宮内自身も本社に戻らず、出向の身分から新会社に籍を移した[4]。
1967年6月、企画課長兼大阪本社開発課長兼東京支店開発課長。
1969年、社長室長。1970年3月、取締役[1]。
1980年12月、代表取締役社長[1]に就任。その後、代表取締役社長 兼 グループCEOに。
2000年4月1日、代表取締役会長 兼 グループCEO[1]に就任。
2003年6月25日、取締役 兼 代表執行役会長・グループCEO[1]。
2014年6月24日、取締役 兼 代表執行役会長・グループCEOを退任。グループCEOを井上亮に譲り、新設のシニア・チェアマンに就き、経営陣への助言などを行う。また、オリックス・バファローズの球団オーナーなどは続投する[5]。
2009年1億8300万円の役員報酬を、2013年2億1300万円の役員報酬を受けた[6]。
役職
会社役員
オリエント・リース→オリックス
- 1970年3月 - :取締役
- 1980年12月 - :代表取締役社長
- - 2000年3月31日:代表取締役社長 兼 グループCEO
- 2000年4月1日 - 2003年6月25日:代表取締役会長 兼 グループCEO
- 2003年6月25日 - 2014年6月24日:取締役 兼 代表執行役会長・グループCEO
- 2014年6月24日 - :シニア・チェアマン
オリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ→オリックス・バファローズ オーナー(1988年11月4日 - )
昭和シェル石油 社外取締役(2003年3月 - 2014年3月27日)
ACCESS 社外取締役(2006年4月 - )
カルビー 社外取締役(2017年6月21日 - )
各種団体役員
- 一般社団法人日本経済団体連合会 元副議長
- 一般社団法人日本取締役協会 会長
- 公益財団法人新日本フィルハーモニー交響楽団 理事長
- 一般財団法人NHKインターナショナル 評議員[7]
- 一般社団法人外国人雇用協議会 顧問[8]
学校法人関西学院 理事- 特定非営利活動法人大学経営協会 理事長[9]
- 特定非営利活動法人万年野党 理事長
その他
神戸大使「日本人の応援団」(2002年5月14日 - )
- 大学生のとき、中学受験の後は高・大とずっとエスカレートに進学し、受験に束縛されることなくのんびりと学生生活を送っていることに突然不安を感じ[3]、突然「このままではいけない!」と猛勉強に励んだ[3]。その後、大学の授業に加え、パルモア学院という英会話の専門学校で英語を特訓した[3]。さらに、それに加えて、グリークラブにも熱心に活動していたため、朝から晩までスケジュールはビッシリだった[3]。大学3年のとき、ハードな生活がたたって体調を崩し[3]、6ヶ月間も家で療養したが、友人に助けられ休学せずに進級できた[3]。友人は、ノートだけでなく出席までとっていたため、試験を受けるだけで留年せずにすんだという[3]。大学4年では、卒業後に留学を希望していたため、いっそう英語の勉強にはげんだ[3]。体をこわしてから、パルモア学院もグリークラブもやめたので、勉強に益々集中できたという[3]。
経済同友会時代の人脈、また出身の神戸ゆかりの人脈から、元日本郵政公社総裁の生田正治や、ザ・アールの奥谷禮子らと親しい。- 選択的夫婦別姓制度導入に賛同する。「夫婦同姓は日本の伝統文化だと言っても、一般に広まったのは近代的な婚姻制度が整った明治以降に過ぎない」「法的婚姻をすることで、社会生活をする上で不便に耐えたり、または好ましい使い慣れた姓を捨てさせたりするところまで強制力を持つ社会は窮屈で非寛容」と述べている[10]。
政治活動
政府の規制改革会議議長などを歴任
- 豊かな暮らし部会(1991年、部会長は首相・細川護煕)
規制緩和小委員会(1996年)→ 行政改革推進本部・規制緩和委員会→行政改革推進本部・規制改革委員会→総合規制改革会議→規制改革・民間開放推進会議 議長(2006年)
政界と強力なコネクションを持ち、規制改革関連の審議会の長を10年以上歴任した。
小泉内閣での総合規制改革会議で、2002年には、製造業における労働者派遣事業の解禁を内閣に答申した[11]。
また郵政民営化なども審議されていたが、後に答申は経済財政諮問会議に一元化されることとなり、規制改革会議の意向は議長の宮内がまとめて経済財政諮問会議に伝えていくことになった[12][13]。なお、この間、内閣府設置法に基づく規則で定められた議事録が3年間にわたって作成されていないことがのちになって判明した[14]。そのため、会議で誰がどのような提案をし、反対をしたかが分からず、全体を要約した「議事概要」としての資料しか残っていない。内閣府設置法の総合規制改革会議令に基づく同会議運営規則は「議長は議事録を作成し、一定の期間を経過した後に公表する」と定めている。同会議は2004年3月末で廃止され、宮内会長が引き続き議長を務める「規制改革・民間開放推進会議」に引き継がれた。
かんぽの宿・払い下げ問題
2009年1月6日に日本郵政が保養・宿泊施設「かんぽの宿」70施設をオリックス子会社のオリックス不動産に譲渡する契約について、日本郵政の所管大臣である鳩山邦夫総務大臣(当時)は、「オリックスの宮内会長は規制改革会議の議長をやり、郵政民営化の議論もそこでされた。そこに一括譲渡となると、国民が出来レースではないかと受け取る可能性がある」との発言や、森永卓郎のよる「かんぽの宿売却問題は大疑獄事件の一端である」[15]との批判が出た。これにより一括譲渡は見送られた。宮内はこの一件について「日本郵政の第三者委員会は報告書をまとめ、落札価格の問題点を指摘しなかった」「かんぽの宿は毎年赤字を続け、国に負担をかけ続けるに至った」とし、「まさに風評被害だった」と述懐している[16]。
派遣切りとの関連
宮内が政府に進言した労働者派遣事業の規制緩和の結果として、今日の非正規雇用者が抱える「派遣切り」などの社会問題を生んだとの指摘がある。民主党衆議院議員にして当時の民主党次の内閣・雇用担当大臣だった城島光力と激しく対立。城島の院内での発言に対して「総合規制改革会議および関係委員の名誉をそこなうような結果となったことは、不当であり極めて遺憾であり、本書面をもって厳重に抗議する」との文書[17]を「総合規制改革会議議長 宮内義彦」の名義で城島に送付した。これについて、サンデー毎日は、「民主党議員を激怒させた高圧的文言」という題名にて報道した。行政の一部機関の者が役職名をもって立法府の一員である衆議院議員宛に抗議文を送付することは前代未聞の出来事であり、この抗議文については、城島が質問趣意書を提出した[17][18]。
NHKとの関連
海老沢勝二が任期途中でNHK会長を辞任した半年後の2005年7月14日、規制改革・民間開放推進会議議長として、NHKの受信料制度見直しに取り組む方針を決定した。議長が宮内から草刈隆郎に替わったこともあり、論議は進展しなかった。その後、宮内は一般財団法人NHKインターナショナルの評議員に就任した[7]。
社会活動
国際な政治・経済活動
パシフィックフォーラム CSISの日本在住理事を務める。
球団オーナーとして
財界一の野球好きとして知られる。少年時代からの野球好きを自認し、還暦を超えてなお草野球で投手を務める程である。1988年オフ、翌年4月1日に社名を「オリエント・リース」から「オリックス」に改めるのに合わせ阪急電鉄から阪急ブレーブスを買収し、それ以降オリックスの球団オーナーを務めている。
プロ野球再編
2004年のプロ野球再編問題では、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併を主導した。これによってリーグの球団数を削減してプロ野球を再編しようという方針を打ち出し、全球団の合意を得た。しかし選手会側の猛反発に遭う。この結果、球界はプロ野球ストライキという空前の大混乱に陥った。
関連項目
- 兵庫県出身の人物一覧
- 経済同友会
- 新自由主義
- 政商
人物
- 堺屋太一
- 佐々木かをり
- 小池百合子
- 田原総一郎
- 佐藤禎一
- 野田一夫
村上世彰(村上ファンド)
脚注
- ^ abcdefg役員情報
^ 『文藝春秋』(2005年、新年特別号)182-183頁
- ^ abcdefghijkl宮内義彦さん オリックス株式会社代表取締役会長
^ 小山唯史「30代の軌跡 宮内義彦」『DIAS』光文社(2001年9月17日号)
^ “オリックス宮内会長兼CEO退任 6月の株主総会後に”. 共同通信. (2014年5月8日). http://www.47news.jp/CN/201405/CN2014050801001521.html 2014年6月4日閲覧。
^ 「"年収1億円超"の上場企業役員443人リスト」東洋経済オンライン2015年03月18日
- ^ abNHKインターナショナル 役員・評議員
^ 外国人雇用協議会について ※法務省の外郭団体ではない。
^ 大学経営協会 役員一覧
^ 「社会的規制と個人の自由」、日本経済新聞、2015年8月21日。
^ 「現行労働者派遣法は、附則において、当分の間「物の製造」の業務について派遣事業を禁止しているが、製造業務の派遣事業に係る他国の状況も踏まえながら、これを解禁することも含め検討し、その結論を早急に取りまとめ、次期通常国会に法案の提出等所要の措置を講ずるべきである。」平成14年(2002年)12月12日 総合規制改革会議『規制改革の推進に関する第2次答申 7.雇用労働』
^ 2003年度 第5回総合規制改革会議 議事概要
^ 2003年度 第3回総合規制改革会議 議事概要
^ 総合規制改革会議:設置法で定めた議事録作成せず
^ http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/174/
^ http://www.nikkei.com/article/DGKDZO60346760Y3A920C1BC8000/
- ^ ab総合規制改革会議議長より、衆議院議員・城島正光の委員会質問について出された文書に関する質問主意書 提出者城島正光、平成十五年七月二十五日提出、質問第一四二号、衆議院、第156回国会
^ 衆議院議員城島正光君提出総合規制改革会議議長より、衆議院議員・城島正光の委員会質問について出された文書に関する質問に対する答弁書 内閣総理大臣小泉純一郎、平成十五年八月二十六日受領、答弁第一四二号、衆議院、第156回国会
外部リンク
神戸大使 宮内義彦 - 神戸市- サンデー毎日記事(城島公式サイトより)
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